7-2 北都の日々


     × × ×     


 翌日。

 俺はキーファー家の宮殿に出向いた。地元民の老婆の着付けがめっぽう上手かったこともあって、足取りは軽かった。何なら走ることさえできる。

 常になるべくシンプルなドレスを選ばせてもらっているけど、決して動きやすい類の服装ではないだけに、あの老婆の技術は卓越していた。ヒューゲルに連れて帰れないものかな。


「すみません。マリー・フォン・ヒューゲルです。キーファー公に渡してもらえますか」

「ヒューゲル公爵家のマリー様ですね。って奥様ではないですか! いつの間に! どうぞご案内させていただきます!」

「結構です。ヨハン様は忙しいでしょうから。お時間がありましたら、その手紙の住所に使いを寄越してくださいとお伝えくださいまし」


 宮殿の入口にいた衛兵に手紙を託して、今日のところは宿に戻る。

 別にアポなしで会いに行っても良かったのだけど、恋愛指南役のおばさんから「ここは受けに入るべし」と指示されていた。あとは宮殿で待たされるのが面倒だったのもある。

 おそらくヨハンは忙しい。状況が状況だけに宮殿で打ち合わせを重ねているはずだ。

 街中で素性の知れぬ青年たちが演じているものよりも、遥かに高度で生々しい話し合いをしているに違いない。なにせ演者が領主同士になるわけだし。


 カフェに寄ってから定宿に戻ると、エマの姿が消えていた。

 イングリッドおばさんに訊ねてみるかな。


「おばさん、エマはどちらにいますか?」

「エマならあなたのお父様とアウスターカップに向かいましたが」

「えっ」

「本当にえっですよ。いきなり言い出すものだから。まったくパウルお兄様は昔から……」


 たぶん荷造りを手伝わされたのだろう。

 おばさんは珍しくぶつぶつと文句を垂れていた。目尻のしわに疲れが出ている。

 エマ、アウスターカップに行ったのか。またもや別れてしまったな。


「北部連盟の公議所にはハイン宰相が出ているのですか」

「そうです。あの人もいきなり全権を委ねられてビックリしていました」

「本当に急な話だったのですね」

「あなたのお父様は常に動いていないと死んでしまうのでしょう」

「ふふふ」


 イングリッドおばさんのマグロみたいな例えに笑ってしまう。

 仕方ないので今日も定宿で本を読んで過ごすことにした。エマがいたら今後の相談もできたのにな。


 夕食を近場のライム料理店(ライムの内乱から逃げてきた料理人が経営している。この世界で酒場以外の外食店は珍しい)で済ませたら、あとは水行をするだけで一日が終わる。

 この世界の人たちはたまにしか身体を洗わないけど、俺には我慢のできないことだった。

 定宿の女中に汲んできてもらった水をタライに入れて、濡らしたタオルで全身を拭く。


「ハリのある肌が羨ましいわね。つくづく若い頃を思い出すわ」

「おばさん、別に見せ物ではないですよ」

「私が見張っていないと不埒者が覗きに来るかもしれないでしょう」


 おばさんはドアにもたれかかって笑みを浮かべる。

 おばさんの若い頃か。まだ公女が子供の頃にはお姉さんだったな。あれから十数年も経つだけに今は年相応の容貌になっている。四〇過ぎだっけ。未だにモテてるけど。

 逆にシャルロッテは出会ってから十年以上になるのにまるで年を取らない。あれも一種の魔法使いだと思う。あまりモテてないけど。


「……あなたのお母様に似てきましたね」

「よく言われます」

「その乳首をあなたが吸っていた頃が懐かしいわ。いずれ、あなたが吸わせる側に回りますけど」

「勘弁してください」


 いきなり乳首とか言わないでほしい。

 ビックリするし、もう見慣れたから平気なのに色々とぶり返してくる。


「あと六年でしょう。あの約束は未だに理解できませんが、その時は来ますからね。あなたもヒューゲルの女である以上は」

「おばさんこそ、お子様は?」

「私はあの人以外と結ばれるつもりありませんから良いのです。あなたは幸せなのですよ。結婚相手がこの世にいるなんて」


 おばさんはしみじみと語る。

 その背後で、コンコンとドアを叩く音がした。


「……誰です」

「キーファー家のヨハンだ。その声はイングリッドか?」


 ドアの向こうから聞こえてきた声に、俺とおばさんは目を合わせる。

 あいつ、使者を送ればいいのに自分から来たのか。まあ宮殿から遠いわけでもないからなあ。ずっと忙しいから、こんな夜しか空けられなかったのかもしれない。

 俺は乾いたタオルで全身の水滴を拭き取る。

 おばさんは鍵をかけていた。


「おい。なぜ鍵を掛けた。オレが来たんだぞ」

「もうお休みになられています。マリーには明日向かわせますから」

「イングリッド、そもそもの話だが、なぜ我が領地に来たのに宿を取った。オレの城に部屋がないとでも思っているのか。バカにしているなら心を改めろ」

「お引き取りくださいまし!」

「ええい。せっかく新しい魔法使いを連れてきてやったというのに!」


 ヨハンは不作法にもドアにローキックをかましてから、定宿の階段を降りていく。足音の数からして傍らに他の者もいるようだった。


 くそう。会いに行きたいけど、ネグリジェで会うのは作法的によろしくない。髪の毛は濡れたままだし。

 ヨハンたちが去ってから、おばさんはため息をついた。

 そして、こちらをちらりと見やると、


「……いっそ中に受け入れたほうが、万事上手くいったかもしれないわね」

「どういうことですか?」

「その格好ならヨハン様も理性を堪えられないでしょう」


 彼女は公女の服装を指差した。

 乾く前に急いでネグリジェに身を包んだものだから、色んなところが濡れたままで透けてしまっている。

 他人の身体なら拝みたいけど、自分だと恥ずかしいだけだ。


「おばさんは阿呆ですね」

「阿呆なのはあなたです。逃した幸運を悔やみなさい!」


 そんなラッキースケベは体験したくないからいいです。



     × × ×     



 一夜明けて、公女おれは改めてヨハンの宮殿に招待された。

 他の建物と同じく飾り気のないシュバルツァー・フルスブルク城本丸宮殿には、独特の熱気が漂っていた。

 街中の草莽の若者たちが発する「気」が、宮殿の大広間に設けられたドーム天井にこもっているかのようだ。


 その下で行われている各国幹部たちの会議が、熱を帯びないはずがなかった。

 彼らはルドルフ亡き後の絵を描いていた。


「戦後は南部諸侯の領地を全て大君直轄領に塗り替える方針で進めるべきです。大君中央集権国家の建設が北部連盟の至上目的なのですから!」


 キーファー公領代表のヴェストドルフ大臣は力強く主張する。

 各国の代表たちは負けじと声を張り上げた。


「否! 血を流した者には報酬があるべきだ!」

「南部の土地を割譲してもらわんと、収支が合わん!」

「せめて金銭だけでも! ただでさえ借金があるのに、賠償金も無しでは戦費だけで破産してしまう!」


 北部連盟の加盟国には貧しい国が多いらしい。元々寒いから収穫量が少ないし、バルト海・北海の交易権益は低地地方の商人たちに牛耳られている。

 例の不作と一揆で追い打ちをかけられたのもあって、彼らの訴えは真に迫っていた。


「あんちゃがた」


 ここで手を挙げたのがインネル=グルントヘルシャフト伯ルートヴィヒ。

 相変わらずの未亡人めいた容貌は、立ち上がるとさらに周目を引いた。今日はゆったりとした緑色の服をお召しになっている。他の代表たちと比べると格段にお洒落だ。

 逆に言えば、他の領邦の代表たちは衣服にお金をかけられるほど余裕がないのかな。

 ルートヴィヒ伯は一旦間を置いてから、くすりと笑ってみせる。


「んふふ。お金のことはうちに任せれば大丈夫よ。おいの子飼いの商人たちが貸してあげるからのー」

「おおっ!」


 ここの領主たちの中では唯一お金持ちのルートヴィヒ伯からの申し出に、他国の代表たちからは安堵の声が上がった。

 そんな会議の様子を中二階から眺めていたヨハンは、ため息をついた。


「あいつらは阿呆だ」

「まだ勝ってもないのに戦後処理を話し合っているからですか?」

「そこではない。今のうちに戦後の計画を決めておくのは大切なことだ。後々絶対に揉めるからな。話し合いがまとまらずに混乱をきたして、そこを南部の残党に攻撃されたら目も当てられないだろう?」


 ヨハンは手すりに彫られたみぞに人差し指を添わせる。


「さらに北部から南部に鞍替えする奴が出てきたら、もう笑うしかなくなる。諸外国から介入されてみろ。悪夢の十五年戦争再びだ――オレは同じ轍は踏まん」


 彼は指先についたホコリをズボンで拭った。

 そして、おもむろに廊下へ歩き始める。追いかけないと怒り出しそうだな。



     × × ×     



 彼が向かった先は宮殿の中庭だった。

 まるで装飾性がないのは他の区域と変わらないものの、生垣はきちんと手入れされていた。

 中庭の中央には私服姿の少女が立っていた。羽飾り付きの帽子にズボンというボーイッシュな出で立ちだ。その隣には野戦砲がある。


「マリー。見せてやる。ルドルフ大公を倒すために入手した新兵器だ。右手の大砲はスカンジナビア帝国から貸与してもらった。左手の女は……」

「昨日の魔法使いですね」

「飲み込みが早いのは良い傾向だな。褒めてやる。特別に挨拶をさせてやろう」


 ヨハンは少女を手招きした。

 まだ高校生くらいの女の子がトテトテと近づいてくる。レンガの舗装がまばらなので、たまに「わっ、あっ」とつまづいていた。

 やがて俺たちの前まで来たところで、ついに足をひっかけて前のめりに転んでしまった。

 慌てて、抱きしめるような形で受け止めてあげたら、彼女は公女の胸元で「あわわ」と焦っていて――なんかドジっ娘みたいだ。シャルロッテよりあざとい。あの人より天然ものの匂いがする。


「あなた、お名前は?」

「ゆ、ユリアと申します! 奥様にお目見えできて光栄です!」

「マリーでいいわ。あなたは……失礼。本当に魔法使いなの?」

「もちろんです!」


 彼女は自信まんまんに言ってのけると、目をつぶって「ふんっ!」と気張り始めた。歯を食いしばっているのが可愛らしい。何を見せてくれるのやら。


 刹那、俺はふわりと浮き上がるような感覚を覚えた。

 地球から引力が失われている? でもヨハンは腕を組んで平気そうにしている。浮き上がっていない。

 足元に目をやれば、ユリアと公女だけが三〇センチほど宙に浮いていた。


「すごい! もっと上がりますか?」

「上がれます……雲までは……! でも多分、途中でカロリーが切れて落ちちゃいます……空中で落ちるのは怖いです……」

「降ろしてもらえますか」

「はい……!」


 ユリアは能力を緩めてくれた。顔の表情筋もゆるゆるになってて面白い。

 やがて公女おれたちは再び引力の従者となる。急に落ちたものだから、高度三〇センチとはいえ着地の衝撃で足首が痛かった。


 ユリアのほうはさすがに慣れているみたいだけど、ぜえぜえと息を荒くしている。


「ぜえ……ぜえ……やっぱり人を持ち上げるのは大変です……」

「大丈夫ですか?」

「お気になさらないでください……あたしの魔法、あまり重たいものを浮かせると体力とカロリーをごっそり取られちゃって……」

「重たい?」

「あわわ! 奥様、そういう意味じゃないんです! 例えるなら本より軽いものしか持ち運べないという話ですから……うっ」


 ユリアは弁解を終えてから、またガクッと地面に膝を突いた。よほど体力を使わせてしまったらしい。

 ちなみに公女は別に太っていないし、井納純一は女性ではないからその程度の話でショックを受けたりしない。


「どうだマリー。こいつがオレたちの切り札だ」


 ヨハンはユリアの様子を気にかけることなく、こちらの反応を伺ってきた。

 どうだと言われてもなあ。


「空を飛べるのでしたら、空中から砲弾を落としたりできそうですね」

「ははは。女は戦いというものを知らないな。砲弾を持たせたところで空中でカロリー切れを起こすだけだ。お前すらまともに持ち上げられないんだぞ」

「では何をさせるのです? 大空から情報収集ですか」

「なんだ、わかっているではないか」


 ヨハンはつまらなそうにつむじを曲げる。

 そりゃ飛行機が普及している世界から来たからね。

 まともに武器を持てないなら、偵察機・連絡機の代わりをやらせる形になるのは予想がつく。

 まだ気球が存在しない時代だし、空中偵察は大きなアドバンテージになるはずだ。敵の戦列歩兵の陣形を把握できる。

 というか、気球か――あれって今の時代でも作れたりしないかな。ヒューゲルに戻ったら、工務方に依頼してみよう。


「……あの! あたし、ちょっと元気になりました!」


 ユリアが右手を挙げている。左手には黒パン。カロリーを摂取したから回復したみたいだ。

 妙な話だった。食べてすぐにカロリーを吸収できるなんておかしい。人間の胃腸にあるまじき勤勉さだ。

 前々から気になっていたけど、魔法使いという「生き物」は人間とは別の方法で魔法用のカロリーを摂取しているのだろうか。

 そもそも、彼らって何者なんだ。

 人間とは別種なのか? アメコミのXMENみたいに進化した人類なのか?

 風説では「新大陸の部族から稀に発生する」とされているけど、逆に同盟の住民から魔法使いが出てこない原因は誰も知らない。

 その風説にしても、目の前の彼女の存在が否定材料になってしまっている。


「ユリア。元気になったのなら、次は一人で飛んでみせろ。あの雲まで行けるか?」

「了解です、若様! あたしにお任せあれ!」


 ヨハンの指示を受けたユリアは、可愛らしく敬礼をしてから遥か大空に旅立っていった。

 ラジコンより速い。みるみる上昇していく。

 あっという間に見えなくなる。


「速いだろ。あれを連れてくるためにキーファーの宮廷予算の五分の二をつぎ込んだからな。おかげで毎日の晩餐が兵隊並になってしまったが」

「……あの子、新大陸生まれではありませんよね」


 俺はずっと気になっていたことをヨハンに訊ねてみる。

 先ほど抱き止めてあげた時から、ユリアが明らかに奥州ヨーロッパ系の顔立ちをしているのが気になって仕方なかった。

 日焼けに弱そうな肌と碧眼、ブラウン系の髪なんて同盟の女性にありがちなパターンだし。

 近くの街で拾ってきたと説明されても納得できる。


「ん? ああ。あいつか。外見は奥州系だからビックリしただろ。奴隷商人の話だと、向こうに移住した低地系の家庭で生まれたそうだ。あっちで現地人と仲良くしていたら、あんな力に目覚めたらしい」

「それはつまり、新大陸に生まれたら民族に関係なく、異能力が芽生えるということですか?」

「知らん」


 ヨハンは話をバッサリ切ると、またそそくさと歩き始めた。だんだんうちの父親みたいになってきたな。

 ヨハンにとっては「大金を叩いて新大陸から連れてきた兵器」でしかないから、出身民族には特段の興味が無いのかもしれない。

 もしくは、過去の彼のように無邪気な好奇心を抱けるほどの余裕は失われてしまっているのか。


 彼が向かったのは先ほどの大広間だった。

 北部連盟の公議はまだ続いている。


 ヨハンはその中に乱入すると、キーファー代表のヴェストドルフ大臣を押し退けて自分が席についた。


「オレは長話を好かん。単刀直入に言わせてもらう。ルドルフ大公に忠誠を従いたくなければ、我が家の旗下で剣を掲げろ! 二者択一だ!」


 ヨハンの強い言葉に各国代表は頭を抱える。うちのハイン宰相も例外ではない。

 彼の後ろでは、いきなり主君に席を追い出されたヴェストドルフ大臣が泣きそうになっていた。あの人は本当に苦労してるなあ。


 中庭に目を向ければ、地上に降りてきたユリアが「わかぎみー」とヨハンを探し回っている。

 何というか……心配になる光景だった。

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