4-2 絶対に結婚したくない


     × × ×     


 午後の授業は取り止めとなった。イングリッドおばさんが弔問旅行の荷造りを始めたからだ。当事者の公女にも服を選ぶ・弔問の作法を習うなどの役目がある。呑気に椅子に座っている場合ではない。

 城のあちこちで使用人たちへの指示と荷物が飛び交う。出発予定は明日なのでみんな急かされている。

 旅路の途中でお世話になる寺院や城にも、さっそく早馬が送り出された。おばさんと祐筆たちが迅速にしたためた手紙を携えて。


 父親と廷臣・有力家臣たちは、そんな城内の喧騒を避けるように丘の別邸に向かった。あちらで今後の対外政策を練り直すみたいだ。

 キーファー公ヨハン二世の死により当主の座はヨハン──ヨハン三世に移る。彼が今後どのような政治をするのか、周辺国は見極める必要がある。それは婚姻同盟を結んでいるヒューゲル公領も例外ではない。


 父親たちが城に戻ってこないので、大広間での夕食は自分たちだけで行うことになった。

 二人の弟は政務の勉強のために父親に同行しており、イングリッドおばさんは「城外で馬車の積み込みを終わらせてからいただきます」と話していた。母親は部屋から出てこない。

 よって、大広間のテーブルに座っているのは公女と二人の家庭教師だけだった。


「……えらく豪勢な皿ばかり並んでいますね」

「明日から旅路ですからな。公女様には気合を入れていただきませんと。ジョフロア料理長には頑張ってもらいました」


 タオンさんはもっともらしい話をしてくるけど、きっと自分が美味しいものを食べたかっただけだろう。

 例の鹿肉だけでなく、豚肉や緑黄色野菜の煮物も並んでいるあたり、タオン邸から秘蔵の食材を運ばせてきたみたいだ。本当に食道楽な人だなあ。そういうところ大好き。


 香辛料をたっぷり効かせた豚肉のローストを頬張っていると、もう一人の家庭教師・シャルロッテが「しょふいふぇばわりーはば」と話しかけてきた。ちゃんと飲み込んでからにしてほしい。


「なんですか、シャルロッテ女史」

「わたくしたちは同行するのですか? それとも城に居残りですか?」

「……あなたは城にいてもいいですよ、シャルロッテ女史。むやみに外出したら借金取りに見つかってしまうでしょう」

「ああ。マリー様のご慈悲は五臓六腑に染みわたります。わたくしの五臓六腑はもはやスポンジです。しかしです。マリー様が嫁ぎ先に出向いたまま城に戻ってこない可能性を考えますと、やはり不肖シャロも旅に同行させていただいたほうがよろしいかと!」

「わたしがあちらから戻ってこない可能性ですか」

「はい。十分にありえる話だと思います。だからアルフレッドもこのように旅立ちを祝うための盛大な料理を用意させたのでしょうし。そうよね?」


 シャルロッテの問いに、タオンさんは困ったような笑みを浮かべる。

 彼らとしても『予感』はしているみたいだ。

 あっちで──公女が強引に結婚させられてしまう未来を。


 なにせタイミング的にはちょうどいいからね。

 この世界の結婚適齢期は十四歳から。公女の誕生日は四月七日だから、今から半年もしないうちに「その時」を迎えることになる。

 ヨハンの宗派である旧教に改宗し、結納金をヒューゲルに送ってもらい、お互いの関係者を呼び寄せる――その程度の時間はあっという間に経ってしまうだろう。あとは四月の吉日に結婚式を執り行うだけ。

 そして床入りへ。

 この世界は医療が発達していないぶんだけ人間が死にやすい。なので、跡継ぎを多めに作っておくことが家を守るためには肝要となる。往年の十五年戦争で血縁がほぼ死に絶えたキーファー家としては、早めにマリーを迎えたいはずだ。子供を産ませるために。

 温かいスープを飲んでいるのに全身に寒気がした。そんなの絶対に耐えられない。ヨハンにベッドまで連れ込まれたら脊髄反射で舌を噛んで死ぬ。


「何とかなりませんか! タオン卿!」

「残念ながら。いつぞやお話しいたしましたが、我々にはどうにもできません」

「シャルロッテ女史!」

「え、というかなんでキーファー公との結婚がイヤなんですか。めっちゃ金持ちでしょ。宮廷の金を使い放題でしょ。わたくしなら半分借りて二倍にしてやりますよ」


 シャルロッテはわけがわからないという目をしている。

 彼女は生まれつき女性だから許容できるのだろう。でも俺はそうじゃない。二十五年分の男性としての過去がある。


 地元の小学校で『神童』『南方熊楠の生まれ変わり』と呼ばれ、中学と高校は私立の男子校で過ごし、大学受験に二度失敗してから第二志望校の社会学部に補欠合格。

 大学では友達と遊び回ったせいで卒業できずに中退してしまい、以降はフリーターとして色んなバイトに手を出してきた。

 そして友達からもらった鯖の刺身に当たった。自分はそんな人生を歩んできた井納純一おとこなんだ。


「……イヤなものはイヤなのです! シャルロッテ女史にはわからないでしょうが!」

「他に好きな方でもいらっしゃるのですか?」

「いえ、まったく!」

「ただ単に結婚したくないのですね。では、いっそ先延ばしにしてもらうのはいかがです?」

「先延ばし、ですか」

「ええ。なにかと理由をつけて結婚式を延期し続けてしまいましょう。そうすれば相手も根負けしてくれるかもしれません。延期を続けるうちにマリー様は『若さ』という取り返しのつかない価値を失いますし。あちらも若い男なら他の女に目移りするでしょう」

「それは……たしかに妙案かもしれませんね……」

「ああ。マリー様から褒められました。ありがたやありがたやっ」


 シャルロッテはワインに口をつける。

 彼女の弁は正しいように思える。別に公女マリーでなくても、キーファー家の子孫を残せるなら他の娘でもいいはずだ。

 ヨハンにとってもマリーとの結婚は親から決められただけの話で、その親が死んだのだからこだわる必要性はない。

 政治的にもキーファーとヒューゲルでは国力に四倍ほどの差があるというし、信仰している宗派も分かれている。あえて両国が手を結ぶ理由は存在しないように感じられる。少なくともあちら側にとっての利点は少ないはず。


「ふん。シャルロッテは平民だからわからんのだろうな。我々の世界ではそう上手くいかん」


 ここでタオンさんがワインを飲み干した。

 シャルロッテも対抗してワインを一気飲みする。


「あらやだ。人好きのアルフレッドも内心では身分で差別していたの?」

「そういうことではない。ただ、我々のほうが窮屈な世界に生きているのだ。ましてや領主の家柄ともなれば国の半身なのだぞ」

「同じ人間だわ」

「我々はそのように見ない。些細な行動にも疑いの目が向けられる。軽はずみに約束を破れば対立を生み出す。相手の面子をつぶせば、たやすく兵どもが死ぬ。公女様はそういう血筋の方なのだ」


 タオンさんの目はあくまでシャルロッテに向けられている。

 なれど、その口ぶりはまるでワガママな子供に「正しさ」を言い聞かせるようだった。彼の温かい気持ちが伝わってくる。

 しかしながら、公女はいつまでも子供ではいられない。なにせ中身はもうすぐ三十九歳になるようなオッサンなのだから。

 スパイス入りのミルクを飲み干してから、俺は口を開く。


「ヨハン様には今回の婚姻にこだわる理由がありませんわ、タオン卿」

「ふむ。公女様が本気で仰っておられるなら、わたしも本気で訂正させていただきます。キーファー公にとってヒューゲルを味方に引き入れることは政治的に非常に重要なのですよ」

「なぜです? ただの小国ですのに」

「千五百の兵を召し抱えられる公領を小国とは呼びません。だからこそ狙われております。北方の彼らにとってヒューゲルは南方に向かうための大切なルートです。ここを敵対者に抑えられては、ヴィラバやヘレノポリスまで大君陛下を助けに行けない」


 タオンさんはグラスや皿を地図に見立てて説明してくれる。

 ヒューゲルは南北街道沿いの領邦なので、キーファー公が自由に兵を進めるためには是が非でも抑えておきたい土地なのだそう。

 ヒューゲルとしてもキーファー公を味方につけておけば、他の国に攻められる危険性が小さくなる。

 そこまで考えての婚姻同盟だったわけだ。


「あの十五年戦争を再発させないための婚姻同盟なのです。どうか民のためにもヨハン様を受け入れてあげてくださいまし」


 タオンさんは立ち上がり、とても深々と頭を下げてくる。

 年寄りにここまでさせてしまうなんて。


「……別に受け入れないとは言っていません。結婚式を先延ばしにするだけです。その『予定』があるかぎり、相手方も同盟関係を破棄したとは受け取らないと思います」

「ええっ!? この期に及んでまだ駄々をこねられますか!?」

「はい」


 こちらが折れると踏んでいたのか、やたらとビックリしているタオンさん。

 公女おれのほうからなるべく感じよく笑いかけてみると、彼はまた困惑気味の笑みを浮かべ……ため息を吐いた。そして注がれたばかりの赤ワインを一気飲みしてみせる。

 グラスがテーブルの上で跳ねた。


「……わかりました。このアルフレッド、公女様のために結婚を先延ばしできるよう微力ながら力添えいたしましょう」

「本当に良いのですか、タオン卿」

「ええ。パウル公の老臣としてはともかく、公女様の家庭教師としては結婚の延期は大歓迎ですからな。なにせ今はラミーヘルム城から出て行きたくありません。ジョフロアの洗練された料理が食べられなくなる」

「よほど気にいってらっしゃるのですね」

「あの者を我が家に連れて帰りたいほどには……ああ、その協力の件ですが、一つだけ条件を付けさせていただけますかな」

「条件?」

「何があっても絶対にヨハン様から嫌われないようにしてください。婚約の破綻は地域の安定を崩すことにつながります。結婚を先延ばすにしても、相手に気を持たせるようにするのです。ひょっとすると相当に難しいやもしれませんぞ」


 タオンさんは豚肉のローストをフォークで刺すと、それを対面のシャルロッテの口元に持っていく。

 とても嬉しそうに「あーん」といただこうとするシャルロッテ。しかしタオンさんはなかなか彼女の口に豚肉を入れようとしない。

 ついにはフォークを自分の手元に戻してしまい、彼女を涙目にさせている。

 どうでもいいけど、タオンさんって実はシャルロッテのことめっちゃ好きなんだろうな……孫みたいな扱いで。


「わかりました。ヨハン様に失望されないよう、なんとかしてみます」

「公女様ならきっとあの方の心をつかめると信じております。なにせ魅力的な女性に成長されましたからな」

「ありがとうございます」

「さあ、政治の話は終わりです。次の料理を持ってきてもらいましょうぞ。ジョフロア!」


 タオンさんの合図で厨房から新しい皿がやってくる。

 それはジャガイモを蒸かした料理だった。この世界では初めて見る食材だ。懐かしい香りが食欲をくすぐる。


「ふふふ。さしものアルフレッドも初めて見るでしょうね。マリー様、こちらは不肖シャロが弟に持ってきてもらった新大陸の根菜でございます。タルトゥッフェルといいます。淡白な味ですがクセになりますので、ぜひぜひ」

「ほほう」


 シャルロッテの自慢げな説明にタオンさんが関心を示している。

 久しぶりの味を期待して口に入れてみると――うーん。あの味ではないなあ。マクドのポテトには程遠い。すごく淡白。


「ちなみにタルトゥッフェルは性欲増進に効果があるそうです。アルフレッドなんて年甲斐もなく元気だから、眠れなくなってしまいそうね?」

「もう枯れとるわ」

「え、六十三は早くない?」


 二人の丁々発止はさておいて。

 ジャガイモの性欲増進効果というのは少し気になる。

 子供も食べるようなありふれた食材にそこまで強い効果はないだろうし、この世界にありがちな迷信の類だと思うけど……。

 なんだか怖くなってきたので、俺は蒸かしイモの皿を下げてもらった。


「ああ。あらら。マリー様のお口には合いませんでしたか」

「ごめんなさい、もうお腹がいっぱいで」

「うむむむ。どうもタルトゥッフェルは上流階級の人たちには好かれませんね。アルフレッドもスプーンが止まってますし、もっと美味しい調理法を見つけないと高く売れそうにありません。バルト海沿岸では凶作対策に作付けが進められているのですが、所詮は非常食扱いですし……売るならブランド化したいな……」

「バルト海沿岸といいますと、もしやキーファー公領ですか」

「いえ。もっと東の辺境伯領でございます」


 シャルロッテは先ほどの政談の名残で地図のようになっていたタオンさんのグラスや皿を指さすと、キーファーより“東方”にあたる皿から大麦のパンを盗み取ってみせた。

 作法もクソもない姿に、タオンさんは呆れている(ついでに俺も呆れている)。

 シャルロッテはそんな彼に見せつけるように、右手でパンを掲げてから、


「──キーファー公領は今それどころではありませんからね」


 もごもごと噛みついた。

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