4-1 影を慕いて


     × × ×     


 この世界の冬は厳しい。

 ガラス窓の外が白く染まると、おのずと生活の中心は室内に移ってくる。

 冷たい空気が壁の隙間から首筋をくすぐってくるので、日常を過ごすのは部屋の中央。それも薪を燃やした暖炉の前が望ましい。


「……そろそろ昼食の時間ですな。料理長ジョフロアが何を作ってくれるのか楽しみです」

「そうですね。わたしは外着に着替えてから向かいますわ」

「では、先に献立を見てくると致しましょう」


 タオンさんは心底楽しみなようで、年甲斐もなくウキウキと部屋を出ていく。

 今日は昼まで詩の授業だった。それも騎士の愛を描いた詩。古典文芸まで語れるとはタオンさんの博識ぶりには恐れ入る。興味を持てないのが申し訳ないほど。


「…………」


 付き人の老女中が何も言わずに服を持ってきてくれる。

 ついでなので水桶も持ってきてもらった。ずっと暖炉の前にいたせいで少し汗をかいていた。水浴びをしたい。


「ありがとうございます」


 もちろんお礼は忘れずに言っておく。

 当たり前と思ってはいけないからね。


 俺は暖炉の前で生活用のワンピースを脱いだ。アンダードレスを脱いでしまえば、白い乳房があらわになる。

 公女は十三歳になっていた。乳歯が全て抜けた頃から、日を追うごとに女性らしさをまといつつある。

 まさか自分が少女の成長を体験することになるとは。昔は思いもよらなかった。

 おかげで毎日が起伏の繰り返しだ。拷問のように感じる日もあれば、奇妙な全能感(自分なら何でもできる気がする)を覚える日もある。気恥ずかしさに赤くなる日も少なくない。苛立ちはいつものこと。たまに楽しい。笑える。

 こういう心身の不安定さを『思春期』と呼ぶんだろう。過去に通り過ぎたはずの道なのに、性別が違うせいか上手に対応できないのが辛い。

 肉体なんて魂の容れ物に過ぎないと、誰よりも自分が知っているだろうに。


 くそう。公女マリーに引っ張られている場合じゃないんだぞ――俺は水桶から柄杓で水を掬う。そして上半身の汗を洗い流す。

 公女として年を取るということは、同時に「破滅」のタイムリミットが近づくことを意味する。

 もう十三年も経ってしまった。あと半分もない。


 相変わらず「破滅」の兆候は見つかっておらず、原因と思われる魔法使いについても数年前にエマと話したきりで有力な情報は得られていない。

 エマを売った商人であるシャルロッテ・スネルには期待したのだけど──新大陸の特産物としての『魔法使い』の価値には詳しくても、彼らの文化や魔法自体には疎いようだった。おそらく金にならないから興味が湧かないのだろう。

 一応、独立商会を営む弟さんに情報収集を依頼してくれているものの、今のところ彼女はあまり役に立っていない。せいぜい家庭教師として低地地方の方言や行ったことのある海外の街について教えてくれる程度。

 エマについても「部下が仲介しただけで会ったこともない」とか言っていたし。詐欺じゃないか。城の部屋を返してもらうべきかな……。


「マリー様! 大広間で昼食が始まりますよ!」


 当のシャルロッテはドアの前で叫んでから、どたどたと走り去っていった。

 もう三〇近いのに子供みたいなことをしないでほしい。


 水浴びを終えて、この世界ではカジュアルな扱いのそれなりに装飾のあるドレスに身を包む。

 付き人の老女に背中の紐を締めてもらい、外見を仕上げてもらえば完成。

 流行だから仕方ないとはいえ、胸元がざっくりと開いているのが気になるけど、大きめのケープをかければ谷間が見えたりはしない。

 公女に谷間かあ……身体が大人に近づきつつあることを改めて自覚させられた俺は、美辞麗句で褒めてくれる老女にお礼を返しつつ、勉強部屋の外に出る。


「うわっ」


 途端に凍てつくような冷気が吹いてきた。廊下には暖炉がない。

 くそう。水浴びするんじゃなかったな。



     × × ×     



 今日の昼食のメインディッシュは『パンをビールで炊いたもの』だった。主に小麦を原料にしたものを小麦を原料にした飲み物で炊くという料理だ。近世テイストな世界なのにディストピア感がものすごい。

 料理長が替わっても厨房の予算は変わらないので、ハレの日でもないかぎりは豪華な食べ物は出てこない。

 ましてや、冬ともなれば新鮮な食材を用意するのも難しい。

 しかしながら、材料が何であれ味を決めるのはシェフの腕。

 メニューは同じなのに前任者より遥かに美味しいものをテーブルに出してくれる。すごい。さすが美食で知られるライム王国出身のシェフだ。


「いやはや。ジョフロア料理長はいつも良いものを作ってくれますなあ。たまらない美味さです。干した鹿肉を刻んで入れることで味に深みが出ております」

「おじ様の言うとおり」

「おお。さすがはカミル様。わかってらっしゃる」

「わかる」

「マクシミリアン様もさすがの舌でございますな。私が狩ってきた鹿肉を楽しんでくださいまし」

「ええっ! おじ様すごーい!」「すごい」


 タオンさんと我が弟たちは楽しそうにご飯を褒め合う。

 かつて彼自身が話していたように、同席者が舌鼓を打つ姿を見るのは微笑ましい。自然とご飯が美味しくなる。まるで皿にスパイスがふりかけられたかのようだ。

 この三人は大広間のテーブルに光を放っていた。


 対照的なのが『誕生日席』の父親と母親だ。

 何も話すことなくスープを口にしている。目も合わせない。牛丼屋でたまたま隣に座っただけのおじさんおばさんみたいになっている。いつも思うことだけど、あれでどうやって三人も生まれたんだろう。

 そんな二人を心配してか、イングリッドおばさんが時折共通の話題を繰り出しているものの、芳しい反応は得られていない。


「エヴリナお姉様。私は昨日、ボルン家の若き当主と会食してきました。先代と比べてあまり社交的な方ではありませんが、我が家への忠誠心は受け継いでおりましたわ」

「そう」


 お母様、仮にも旦那の妹に対して塩対応が過ぎませんか。嘔吐公ちちおやも返事してあげたらいいのに。

 そもそも母親が大広間で食事を取ること自体が極めて稀なので、日頃からこんな寒々しい会話が繰り広げられているわけではないのだけど、正直なところ家族でも見るに堪えない。来世は円満な家庭に生まれたくなる。


 臣下たちのテーブル(タオンさんは特別扱い)に目を向ければ、シャルロッテが隣席の若い武官に話しかけていた。

 お互いの息がかかりそうなほどに顔が近い。

 これはもしや。俺は耳を澄ましてみる。


「……なんと! 今ならたったの五タイクンマルクでケープ航路直送のスパイスセットが七箱も手に入ります。さらにこれらを相場価格の一箱あたり一マルクで売ってしまえば! どうなりますかティーゲルさん」

「二マルクの利益が出ますね、シャロさん」

「そうなんです。しかもです。ティーゲルさんがスパイスセットを売られたお相手をわたくしどもに紹介していただければ! なんと一人紹介していただくたびに、特別にスパイスセットを一箱半額で売らせていただきます! どうですかティーゲルさん!」

「すごい、夢が広がりますね! シャロさん!」


 目をキラキラさせる武官。

 色香で若者をたぶらかしているのかと思いきや、あいつマルチ商法まがいの商品を売ろうとしていやがった。

 後で注意しておかないとまずいな。もう本気で追い出すべきかもしれない。



「――失礼つかまつる!」



 賑やかな昼食の場に、男性の野太い声が響き渡る。

 城の衛兵の制止も聞かず、大広間の中央に入り込んできたのは軍服姿の中年男性だった。

 緑地に赤線を配されたジャケットはヒューゲル兵のデザインではない。灰色の外套の肩には雪が乗っていた。どうやら外からそのまま入ってきたみたいだ。髭も白くなっている。


「ヒューゲル公はいらっしゃるか! 我が名はアダム・ブロクラット大尉! 我が主より親書を預かっております。どうぞお読みくださいませぇ!」


 野太い声を発した胸板は、装甲のように膨れ上がっている。

 衛兵たちが取り押さえようと周りを囲んでいるけど、男性の体躯の迫力に気圧されているようで誰も手を出そうとしない。というのも、城の衛兵のほとんどは上流階級の末弟などの『お飾り』であまり強くないからね。扱いとしては小姓に近い。


 大広間の入り口あたりでは「本職」であるヒューゲル兵たちが五名ほど小銃を片手に集まりつつあった。

 テーブルに座っていた武官たちもサーベルの柄に指を当てている。タオンさんもナイフと共に席から立ち上がっていた。


「ヒューゲル公! どちらにおわす!」


 ジャケットの胸元から白い封筒を取り出し、中年男性はまたもや父の名を呼ぶ。

 ここでついに呼ばれたほうが立ち上がった。


「……どこの誰だか知らんが、今はナイフとフォークで両手が埋まっている。お前が読んでくれ」

「了解しましたぁ!」


 中年男性は白い封筒の封蝋ふうろうを引きちぎると、中から手紙を取り出した。

 そして、さながら卒業証書を読み上げる時のような姿勢を取る。


「パウル・ゴットリープ・ヘルツォーク・フォン・ヒューゲル殿へ。

 我が父が死にました。

 ヨハン・カール・アレクサンダー・フォン・キーファー」


 中年男性は手紙を封筒に戻した。

 大広間の面々が途端にざわつき始める。


 ヨハンのお父さん、あの武蔵坊弁慶のような偉丈夫が死んだ。そうなるとヨハンがキーファー家の当主を継ぐことになる。

 まだ十六歳なのに大変だなあ……と他人事のように思ってもいられない。

 彼は公女おれの婚約者なんだから。


「……報告ありがとう。ジョフロア、その者にも温かい料理を。マリーとイングリッドは食べ終えてから出発の用意をしてくれ。私の代理としてキーファーに向かってもらうぞ。マリーは旦那を慰めてやれ」


 嘔吐公は言い終えてからまたスープを口にする。その隣の母親はまるで我関せずといった目をしていた。

 俺は「わかりました」と答えて、ビールで炊かれたパンをフォークで突き刺した。


 人生初の嫁ぎ先への旅行。相手は領主の座を継いだばかりの未婚の十六歳。

 非常に嫌な予感がする。

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