3-4 マリーとエヴリナ


     × × ×     


 いずれ決着をつけねばならない相手だとは思っていた。

 公妃エヴリナ・フォン・ヒューゲル。

 マリーにとって、もっとも近い間柄でありながら、もっとも心理的に遠い存在。同じ城に住んでいながら声を交わすことは滅多にない。あったとしても文句をぶつけられるくらい。お世辞にも健全な母娘関係とは言いがたい。


 心のどこかで互いに折り合いをつける必要性を感じていたのに、そうしてこなかったのは――ひとえに彼女が「破滅」とは関係ないように思えたからだ。

 ストルチェクの中堅貴族シュラフタ階級の娘、社交性の欠片もない彼女に何ができよう。

 ヨハンとの結婚問題についても彼女は一切口出ししていないと聞いていた。だから別に後回しにしてもいいはずだった。


 早朝に彼女の部屋を訪れると、懐かしい匂いがした。

 部屋の主が公女マリーを産み育てた者であることを体感させられる。


「お母様」

「なんだい。朝っぱらからせわしない子だね」

「酷い夢を見ました。少しだけ一緒に寝てもらえませんか」

「はあ?」


 もう十歳になる娘が阿呆なことを言い出した、とばかりに眉間にしわを寄せる母親。

 俺は有無を言わさずに彼女のベッドにもぐりこんだ。温もりがある。

 布団の中で身を丸めれば、薄暗い空間に母親の寝間着があり、脈打つ温度があり、わずかに埃っぽく……そして匂いで充ちていた。

 子供を安心させる匂いだ。


「……どんな夢を見たんだい」


 彼女の背中が訊ねてくる。


「厨房の奥から女の子の声がする夢です」

「厨房? ……お前まさか会ったの。料理長タデウシュに訊いたね?」

「わたしが見たのは夢です。厨房の奥に外国人の女の子が隠れていました。勇気を振り絞って話しかけましたら、化け物に変わったので、必死で逃げました」

「何かされたの?」

「いいえ。目が覚めました」


 俺は母親の背中に身を寄せる。混じりけのない安心と温たかみが眠気を誘う。

 俺自身はともかく、公女マリーにこのような時間が足りなかったのは間違いない。

 母親にもきっと足りていなかった。


 今の彼女がどう感じているかはわからない。そんなのはエマでもなければ読み取れない。

 ただ母親の身体は染み渡るほどに暖かった。


「……もう一度だけ訊くよ。あの子に何かされたのかい」

「何もされてません。ご飯が不味いから料理長を代えろと叫んでました。怖かったです」

「そうかい」

「わたしはもうあの化け物の夢を見たくありません。何とかして下さいませんか」

「…………お前、何が目的なんだい」


 母親は緩やかに寝返りを打った。

 公女とよく似た顔が近づいてくる。目の前に母親がいる。なのに遠く感じられる。


「目的……?」

「あたいとお前はまるで似ていないけど、ただ一つだけ似ているところもあるんだよ。あたいもお前も、利用できる奴にしか近づかないのさ。だから友達が少ない」


 彼女はこちらを抱き締めてきた。

 温もりとは裏腹に、吐き出される言葉は冷たい。


「……そうだろう? そんなお前がわざわざベッドに来て、こんなふうに弱々しく、あたいに甘えてくるんだ。笑えるじゃないか。それで、何が目的なんだい。あの魔法使いをあたいが隠れて飼っていると知って、あたいを脅すつもりなんだろ」


 ショックだった。

 夢の話を見破られたことだけじゃない。母親の目には自分マリーがそんなふうに映っていたことに。

 そして上手く反論できないことに。


「酷いわ、お母様」

「泣きマネなんてみっともない。目的を話しなさい。あたいにとっての唯一の身内、料理長タデウシュを追い出して何がしたいの」

「わたしは夢の話をしただけですのに……」

「……正夢にしてやろうか」


 母親は布団をめくり上げる。

 暖かい空気が外気に触れて消えていく。外の仄かな明るさに目を驚かせていたら、おもむろに母親が手を引っぱってきた。

 彼女は紅いカーペットの上に娘を立たせると、適当なガウンを肩にかけてくる。自身の身体にも同じものを。

 そして、また強引に手を引かれ……二人は部屋の外に出た。


 行き先の予想はつく。

 エマに公女おれの心を読ませるつもりだ。


「お母様、怖いです。化け物がいそうで怖いです」

「そうかい」


 まだ誰もいない大広間から厨房に入る。

 料理長が朝食の用意をしていた。パンの焼ける匂いがする。

 母親は彼にあの部屋の鍵を出すように母国語で命じた。


「あたいが化け物に会わせてあげる」


 例の食料保管室の南京錠が外される。

 室内では、新大陸出身の娘がベッドの上で体育座りをしていた。


「……エヴリナ様」

「朝から悪いわね。娘があんたに会いたがるもんだから」

「そうなの?」


 エマはこちらを見つめてくる。

 別に今すぐに会いたかったわけじゃない。

 反応に困って目を逸らしたら、彼女はおもむろに近づいてきた。

 手が伸びてくる。


「ひぃっ!」


 逃れようにも母親に両肩を抑えられてしまった。


「どうして逃げるんだい」

「だ、だって」

「本当はこの子を知ってたんだろ。能力もわかってるんだろ。しゃらくさい子だよ。ちょうどいいわ。お前があたいに何をさせようとしていたのか、エマの力ではっきりさせてもらおうじゃないの」


 まずい。心を読まれてしまう。夢だと嘘をついたことがバレる。それだけじゃない。エマを通じて俺の正体が知られてしまう。やめてくれ。

 そんな哀願が通じたのか、エマは手を引っ込めてくれた……なんて。能天気だな自分は。それこそ、まだ触れてもないのに伝わるはずなんてないじゃないか。

 彼女はゆっくりとおでこを寄せてきた。


「や、やめて……お母様……」

「どうだいエマ。この娘はあたいに何をさせようとしていた? あたいの手足を奪って何を企んでいた?」


 母の問いかけに、彼女は答えない。

 ずっと目をつぶっている。

 生き地獄のような時間が過ぎていく。いっそ、もう楽になりたくなる。


「……お姫様は悲しんでいます」

「悲しんでいるだって?」

「怖い夢を見ただけなのに、エヴリナ様に疑いをかけられたから」

「……バカな」


 エマの説明に母親は納得いかないようだった。

 助かった。助けてもらった。

 ありがとう。本当にありがとう。

 おでこから伝えたら、目の前の彼女は笑みを浮かべてくれた。

 安心のあまり抱き締めたくなるのを俺は必死でこらえる。


「マリー。あんた、エマに何か伝えたね。外に出してやるとでも言ったのかい」

「お母様!」


 代わりに母親に抱きついてみたけど、特に反応はない。

 どうも根本的な部分で受け入れてもらえていないようだ。

 その疑り深い目が公女を見つめているのは、公女の役を演じる身としても悲しい。


 やがて食堂がざわつき始めた。そろそろ朝餉が始まる。


「×××、××××!」


 彼女は母国語で吐き捨てて、足早に去っていった。

 残念ながら内容はわからない。

 ストルチェク語、勉強しておくべきだったかもしれないな。


「……同盟人は信用ならない」

「え、わかるのエマ」

「初めてエヴリナの手を触った時に多少覚えた」


 すごい。勉強する気が完全に失せた。


「それよりエマ! 助けてくれてありがとう! 本当に助かったよ!」

「別に井納を助けたつもりはない」

「え?」

「エマが料理長を辞めさせてほしいと依頼したからああなった。エマにも責任」

「まあ、そうだね」

「それに……お姫様は日本から来た成人男性だと説明してもエヴリナには理解できない。ホラ話をしていると疑われる。エマの信用が問われる」

「なるほど」


 彼女は他人の心を読めるけど、その内容が本当であると彼女以外から確かめる術は今のところない。

 母親が疑ったように(そして実際そうだったように)、エマが嘘をつくこともありえるのだ。


「でも、それならさっきの嘘だって信用が」

「あれは本当かもしれない嘘だから平気。エヴリナも今ごろは悩んでるかも」


 エマはベッドに座った。

 もっとありがとうを伝えたいところだけど、あいにく自分も朝食に行かないといけない。

 少しでも遅れたらイングリッドおばさんに怒られてしまう。


「行っていいよ」

「あ、うん。ありがとうエマ」

「また来て」


 彼女は小さく笑った。

 もちろん、こちらも「すぐにね!」とできる限りの笑みを返したけど……残念ながら、次に彼女と会うのは、かなり月日が経ってからになってしまう。


 なぜなら、母親が料理長に命じてエマをストルチェクの実家に移してしまったからだ。

 料理長も監視役としてストルチェクに移ることになり、ラミーヘルム城にはライム王国出身の料理人が新たな料理長として就任。タオンさんを大変に喜ばせることになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る