3-1 少女


     × × ×     


 評定から二ヶ月後──一六五八年十月。

 ヒューゲル公領の供出兵力を含めた同盟軍が目的地エーデルシュタットに到着した頃には、異教徒の軍勢は完全に撤退していた。

 一足先に来援していたストルチェク兵による騎兵突撃がすこぶる効いたらしく、異教徒たちは包囲の言い出しっぺである指揮官パシャを「捧げ物の形」にして本国に逃げていったという。

 敗戦の責任を取らされた指揮官は皇帝スルタンの前で処刑され、遺体は軍の象徴である鉄鍋で焦げるまで炒められたともっぱらの噂だ。


 一方の勝者、味方の救援で命拾いしたヒンターラント大公――父曰く『問題児』ルドルフは、エーデルシュタット城において『歓喜の宴』を催した。数か月にわたる籠城でまともな食事など用意できるはずがないと思われたが、不思議と城内には御馳走が並べられたという。

 ルドルフ大公は宴席で、救援部隊の指揮官であるストルチェク国王に感謝を述べた後、並み居る同盟諸侯や騎士たちにある提案をした。


「皆さん! 我々の手で三世紀にわたる仇敵である異教徒どもから啓典の民を救っちゃおうではありませんか!」


 諸侯・騎士・傭兵隊長の多くは即座に同意したそうだ。

 せっかく遥々戦場に来たのに土産品の一つも持てないのはつまらない。異教徒を倒せば死後の世界で褒めてもらえる。何より新しい領地を手に入れるためには願ってもないチャンスだ!

 ──そんな好戦的な雰囲気の中で、我が父の名代であるベルゲブーク卿は何を思っていたのだろう。


 翌週。同盟軍とストルチェク王冠領軍による逆侵攻が始まった。キーファー公の与力という扱いだったベルゲブーク卿は参加を強いられ、共に各地を転戦した。そして二年かけて戦力をすり減らし、遠くトゥルジャバの地で矢に当たり戦死してしまった。


 キーファー公の手配でヒューゲルに戻ってきたベルゲブーク卿の遺骸は、先祖代々の墓地に埋葬された。

 五百名の兵と忠臣を失った父親は己の決定を悔やんでいるようだった。イングリッドおばさんに止められるまで粗悪な酒を飲み続けていた。


 同盟軍の逆侵攻自体は引き続き行われていたが、異教徒側が態勢を立て直したこともあり、同盟軍は南東部の隣国にあたるアラダソク王冠領を確保するのみとなっていた。この領地は将来的にヒンターラント大公家が治めると取り決められているらしい。

 かつての巡礼者国家のように諸侯の子弟が新しい国々を建てるような形にはならず、結局のところルドルフ大公だけが得をしたのだった。



     × × ×     



 そんなわけで──一六六〇年。

 マリーは十歳になっていた。

 周りの状況は特に変わってない。

 タオンさんを家庭教師に据えたことで「歯車」が回り始めた気がしたのに、俺は城内での自由のない平穏な日々を相変わらず続けている。


 朝起きて。

 朝飯を食べて。お勉強して。

 昼飯を食べて。お稽古して。水浴びをして。

 晩飯を食べて。復習して。

 布団に入る。

 繰り返し。


 他家のご令嬢に話を伺うかぎりでは、他所の家ではもうちょっと「緩い」らしいのだけど、イングリッドおばさんは持ち前の生真面目さでカリキュラムを組んでくるから遊びがまるでない。

 内容についても、時が経つにつれて求められるレベルが高くなってきており、俺の腕ではついていくのがやっとだった。前世でピアノ(というかチェンバロ)を習っておけば良かったと何度悔やんだことやら。指笛なら上手いのに。


「ほら。キーファー家のヨハン様からお手紙が来ておりますよ」


 おばさんはたまに、さもご褒美かのような扱いでヨハンからの手紙を渡してくれた。

 しかし内容は歯の浮くようなお世辞ばかりの代物で、どう考えてもあのヨハンが記したとは思えなかった。


 ──ああ、マリー。いとしのマリー。今でもあの舞踏会を毎夜思い出す。つややかな君の唇、オパールの如き君の瞳、総やかな胸。美しい君と夫婦になれるなんて僕はどれほど幸せ者だろう。その日が来るのが楽しみで仕方ない……おばさん、誰に発注したのか知らないけど、中身はちゃんと確認したほうが良いと思う。マリーにまだ胸はない。

 なので、ごく稀に「本物」が届いた時には逆に安心させられてしまった。


『まだわからん』

『マックスは大家族で来ている』

『マックスが出征してるから家族が不安がっている』


 ヨハンの手紙はあらゆる美辞麗句が省かれている。しかも、ほぼ箇条書きだ。

 本来なら祐筆(文章の専門家)がきちんとした形にしたためるところを手書きで済ませているみたいだ。何にせよありがたい。


 俺はヨハンからの魔法使い情報に期待を寄せつつ、同時にもう一つのチャンネルが形成されるのを「今か今か」と待ち望んでいた。

 なので、勉強部屋で会うたびに訊ねてしまう。


「タオン卿、まだ甥の方とは連絡が取れないのですか?」

「今しばらくお待ちいただけると幸いです」

「もう二年になりますよ」

「公女様こそ、城の料理長を交代させると約束されてから二年になりますぞ」

「ぐぬぬ……」


 タオンさんからはなかなか吉報を聞かせてもらえない。彼の甥とのコネクションは新大陸の魔法使いと結びつくために肝要なのに。

 もしや城の料理長を交代させないかぎり、俺とは会わせないつもりなのかな。くそう。料理長が母親の同郷じゃなかったら楽に追い出せたのに。


「お姉ちゃんとおじ様は城の料理がお嫌いなのですか。カミルはとても好きです。それに食べ物に文句を言ってはいけないとお坊様が仰っていました!」


 カミルが無邪気に正論を用いてくる。

 姉としては無碍にもできないので「そのとおりね」と答えておいた。

 ……たしかに食べ物に文句を言うのは道徳的に良くない。この世界には未だ飢餓が存在しているわけだし。ご飯に困らない身なのはありがたいことだ。

 ありがたいとは“有り難い”ことであって、決して当たり前ではない──と、前世でお寺のお坊さんに説かれたっけ。


「カミル様。聖書の『創世記』には知恵の実を食べてはならないとあります。つまり聖書は好き嫌いを公然と許しているのです。ならば福音主義者の我々は従うべきではございませんか」

「なるほどー!」

「タオン卿、弟に変なことを吹き込まないでもらえますか」


 この世界の宗教を心から信仰しているわけでもない自分の耳でさえも屁理屈だと受け取れたので、きっと広言したら阿呆扱いされてしまうはずだ。将来のヒューゲル公としてそんな誹りは受けるべきじゃない。

 こちらの台詞に、タオンさんは「過保護ですな」と笑っていた。



     × × ×     



 その年の九月。

 俺はたった一人でタオン邸に招待されていた。

 イングリッドおばさんとカミルには「外部に持ち出しできないボロボロの古本を読ませてもらうため」と方便をついておいたけど、本当の目的はある人に会うためだ。


「どうぞ、こちらへ」


 タオンさんの案内で訪れた部屋は来客室のようだった。

 彼らしい遊び心を感じさせる、されど穏やかな調度品の数々には心を惹かれる。カーペットの柄もこだわってそう。


 ソファに座らせてもらい、俺は出されたホットミルクを口にする。

 ラミーヘルム城内だと近くの水源地から古代水道が伸びているので井戸の水(それほど綺麗ではない)も飲めるけど、郊外となれば他のものを飲まざるを得ない。

 ゆえにほとんどの民家では子供でもビールを飲んでいるらしい。

 南の地方ではワインの搾りかすに水を加えたものを飲んだりするそうだ。うーん。いつも思うけど、やっぱりこの時代は現代人には向いてないな。

 ここで牛乳を出してもらえたのは本当にありがたい。美味しいし。


 カップのへりに付いていた牛乳の一粒が、ぽとりと自分のスカートに落ちる。別に気にしなくていい。旅用の服だし、おばさんに怒られたりしないはず。


「領内の牧場で作っている牛乳です。お口に合いますかな」

「美味しいです」

「そう言っていただけると嬉しいものですな。さて……あの件についてですが」


 タオンさんはさっそく切り出してきた。

 あの件。いよいよ甥さんに会えるわけだ。でなければ、タオン家に呼ばれていないだろう。

 久しぶりにワクワクしてきた。こんなの前世で漫画の最新話の更新を待っていた頃以来かもしれない。


「おい、入れ!」


 タオンさんの呼び出しに合わせて、来客室のドアが開く。

 部屋に入ってきたのは──こげ茶色のローブをかぶった、若い女性だった。

 旅人のように見えるけど、ローブの下はそれなりに金のかかった身なりをしている。紺色のドレスがよく似合う。でかい指輪は殴るためにつけているのかな。

 首元からはふわふわのブラウンヘアがこぼれていて、ちょっと手触りが気になる。


「お初にお目にかかります」


 彼女はローブを外すと、人好きのする笑みを浮かべた。もっと正確に言うなら、紛れもない『営業スマイル』だった。

 その目は柔らかいが、されど奥底には欲を抱えているように見える。だからこそ表面的には信用できるようで、心の底からは信用できそうにない。

 何にせよ、その胸の膨らみは間違いなく「甥」のものではなかった。


「あの、どなたですか」

「わたくしは低地地方で商いをやらせてもらっております、スネル商会のシャルロッテ・スネルと申します。お気軽にシャロとお呼びくださいますれば」


 おかしい。発注したはずの商品が届いていない。

 タオンさんに目を向けてみると、彼は何とも申し訳なさそうな顔をしていた。

 どういうことなんだろ。


「ああ。マリー様を困らせてしまいました! 失礼いたしました。お話はアルフレッドから伺っております。あなたはホルガー・フォン・タオンを探してらっしゃったそうですね。すみません。彼はもう死んでおります」


 シャルロッテ女史は死を悼むように目の前で十字を切る。

 ホルガーとはタオンさんの甥の名前だ。


「死んでしまったのですか……?」

「はい。三年前にバルト海の某商館に海路で出向いたきり帰ってきません。わたくしどもの組合でも行方を探したのですけれど、いえ借金返済をごまかすために逃げることが“まま”ありますからね。ホルガー君はどうも船ごと水底に行ってしまったようです」


 なるほど。だから長らく連絡が取れなかったのか。

 納得と悔しさが胸に押し寄せてくる。来るはずのない便りをずっと楽しみにしていたようなものだ。


 もっと辛いのはタオンさんだろう。

 家族が死んでしまったのだから。


 俺は彼を慰めるべく立ち上がった……ものの、当のタオンさんはシャルロッテに近づいていた。老いた肩を怒らせて。


「……お前がホルガーを誘わなければ、そうはならなかった話だ」

「あら。あの子が自分からついてきたのよ」

「色香で惑わせたろうが。おかげで我が家はホルガーを勘当せざるを得なくなった。死んだのに墓すら作ってやれない」

「そんな風に世間体ばかり気にする社会だから、自由になりたかったのでしょうね」

「お前!」


 シャルロッテは迫り来るタオンさんの怒りを平然とかわす。

 そして公女の所に歩いてくると、なぜか今さら足元に跪いてきた。

 えっ。なんで。


「マリー様に提案したいことがあります」

「あ、はい」

「ホルガー君の件は残念でした。彼は果敢な冒険心の持ち主であり、バルト海から新大陸まで股にかける偉大な商人でした。しかしながら、不肖シャロは彼を超える商人を知っています」


 こちらを仰ぎ見る両目に自信がみなぎっている。口元には不敵な笑み。

 そんな彼女を、タオンさんが羽交い締めにするような形で床から引き上げる。


「シャルロッテ……わざわざホルガーの件を話しに来たのはそのためか! 不埒者には出て行ってもらおう!」

「アルフレッド、わたくしへの営業妨害はやめてくださる? これからマリー様に我が身の売り込みをかけようというのに」

「いけませんぞ公女様。この金の亡者をヒューゲル家に引き入れるなど。きっと何か企んでいるに違いありません」

「根拠のない誹謗なんて、年寄りはつまらないことをするわね」

「公女様。よくお考えください。この女はお金を儲けることにかけては天下の才の持ち主です。現にスネル商会は低地地方では名の知れた大商会。そんな奴がわざわざ港のない田舎の家庭教師になろうとするでしょうか。他に目的があるに決まっております。そうだろう、シャルロッテ!」


 タオンさんの理路整然とした問いかけに彼女は答えない。

 老人に気圧された風でもなく、ただ得意げにこちらを見つめている。

 ならば、訊ねてみよう。


「どうなのですか、シャルロッテ女史」

「それはもう。しっかり私的な目的はごさいますわ」

「やはりな」


 シャルロッテの答えにタオンさんがうなづく。

 それを耳にしてか、彼女は底意地が悪そうに笑った。


「ふふ。まさか厚意や酔狂で家庭教師になるとでも。よろしいですか。お互いの利益が合致した時に取引は成り立ちます。わたくしはあなたが欲しがっている人材です。逆もまた然りでなくては、話になりません」


 彼女の説明は正しかった。

 彼女を手に入れたいなら、こちらも彼女の求めるものを差し出すべきだ。でなければ片思いになる。


「なるほど。では、シャルロッテ女史は公女に何を求めますか?」

「差し当たっては、借金取りから身を隠すための城壁を」

「えっ」


 彼女の後ろでタオンさんが目を丸くしていた。

 えーと……あなた、低地地方では名の知れた大商人だったはずじゃ……?

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