2-1 まだ見ぬ人たちへ


     × × ×     


 のどかな川沿いの街道を馬車の列が進んでいく。

 まるで川の流れのようにゆったりと。下手したら川の流れの方が速いかもしれないペースで。

 それでもなお、石にひっかかるたびにぐらぐら揺れる車内で……弟のカミルは安眠にふけっていた。

 おれの太ももを枕代わりにしており、非常に可愛らしい。

 あどけないほっぺを指で突いてみると「吐きそう」と寝言を漏らしてくれた。勘弁してほしい。弟のこめかみに肘打ちするような姉にはなりたくない。

 弟の身体を背もたれまで押し上げて、ひと息ついてから――俺は遠くの街に思いを馳せる。


 大君議会の会期中、舞踏会や晩餐会は毎日のように行われた。

 大君同盟には約三百家もの諸侯が存在するから、互いの旧交を温めるのに一日では足りないとの理屈らしい。

 とはいえ、何日も滞留していると当主・家族・家臣たちの宿泊代がかさんでしまう。

 初日には大勢で賑わっていた舞踏会も五日経てば閑散としていた。逆に言えば、議会の会期末まで家族・家臣を残しておける家はよほどの金持ちということになる。


 我らがヒューゲル家は六日目にヘレノポリスを後にした。

 街に残ったのは大君議会に出席する嘔吐公ちちおやと側近数名だけ。


 街を出る時にキーファー家の兄妹からぶつけられた言葉が忘れられない。


『オレたちは来月までいる予定なのに、なぜお前は途中で帰るんだ? 宿がないなら父上にお願いしてやってもいいぞ』

『お姉様、次は途中で帰らずに済むでしょうから、なるべくお気を落とさず! なるべくお気を落とさずにいてくださいまし!』


 特にエミリアの奴め。

 気を遣っているような口ぶりで、めちゃくちゃ目が笑っていた。


 彼女の言った「次」とは次の大君議会のことだ。日本の国会のように毎年開かれるものではないので、次回は慣例通りなら五年後から七年後あたり。

 その頃には自分マリーがキーファー家に嫁いでいるはずだから、ということだろう。


 この世界の結婚適齢期は十四歳から。

 そう遠くない未来を思うと背筋が凍りそうになる。


「このままじゃ、ダメだよなあ……」


 近くの川は相変わらずのんびりと流れていた。

 同じように流されるままの井納純一としては、早めに何か手を打ちたいところだ。

 婚約の件も、何より「破滅」の件も。


 今まではこの世界について調べることで「任務をこなしている」つもりだったけど、今の自分が傍目からしてみれば好奇心旺盛なだけの公女マリーに過ぎないと気づいてからは、焦燥感が強くなっていた。

 滅びの歴史を変えるために生まれてきたのに、まだ何も状況を変えられていない。


 幼い頃に行動より言語学習を優先したのは今でも正しかったと思うものの、あまりに行動を抑えすぎていたのではないか。

 元来の石橋を叩きがちな性格もあって、自分は幼いから、と内心で言い訳して行動に踏み切れなかった部分もある。

 それでは「本当のマリー」が生きていた場合と何も変わらない。

 いや、単純に自分がマリーとして生きるだけで「破滅」が回避される可能性もあるけれど……とにかく。

 将来のために今のうちからできることをやっておくべきだ。千里の道も一歩から、料理の肝は下ごしらえ。


 問題は何をするか。

 世界を「破滅」から救うために現状できること。

 そして、ヨハンと結婚せずに済ませるための方法。


 前者については「破滅」の直接的な原因とみられる魔法使いのことをまだまだ調べないといけない。

 マックスは魔法を過小評価していたけど、俺としては他に世界を滅ぼせるような要素が思い当たらない。きっと彼の知らない、あるいは彼が教えられない「何か」があるはずだ。

 それを調べた後に対策を練ろう。お父様に大君議会で魔法使いの輸入禁止を提言してもらうとか。


 婚約の件は……現状、自分の発言力では抗えそうにないなあ。

 抵抗しても強引にキーファー家に連行される気がする。そういう時代だし。

 いっそ城を逃げ出すのも手だけど、逃亡先に宛があるわけでもなく。のたれ死ぬか、物乞いになるか、追っ手に捕まるかの三択になりそう。

 仮にどこかの家に匿ってもらえたとしても、そこで嫁にされたら元も子もない。


 うーん。歯痒い。どうしたもんかな。

 そもそも、行動を起こそうにも今の公女マリーにできることは限られているからなあ。

 自由に使えるお金は少ないし、自由に使える時間も少ない。あるのはヒューゲルの家名だけ。

 マンガの白い犬は「配られたカードで戦うしかない」とうそぶくけれど、さすがにカードを配ってもらわないと何もできないよ。


「ずいぶんとお悩みのようですが、どうされたのです」


 対面のイングリッドおばさんが心配そうに話しかけてくれる。

 彼女に話したところで妙案が浮かぶとは思えない。

 破滅の件はともかく、良家との縁談を断るなんて教育係として絶対に許さないはずだし。父親の異母妹いもうととしても許せないだろう。


 そうとわかっていながら、不思議と自分の口は開いていた。


「……少し、自分の力不足を痛感しておりましたの」

「力不足?」

「はい」

「よもやヨハン様と会われて自信をなくされたのですか。私の目からはお似合いの二人に見えましたよ」

「ありがとうございます、おばさま」

「それに、不足を感じたなら私に何でも言ってください。あなたの不足を補うために私はヒューゲルにいるのですからね」


 おばさんは安心させるような笑みを浮かべる。

 そうか。

 自分が至らないなら他人に補ってもらえばいいんだ。

 この世界に来てから、ずっと孤独な戦いをしていたから思いもよらなかった。


 今の自分に足りないのは──まずは説得力。

 これについてはおばさんには期待できない。ヨハンと結婚しないで済むように周りを説得してほしいなんて依頼を受けてもらえるはずないし。

 だから第三者の協力が欲しい。できれば名望家が良いな。顔が広い貴族とか。


 もう一つは魔法、新大陸、世界全般についての知識。

 こっちもおばさんよりは専門家の協力を仰ぎたいところだ。例えば新大陸に行ったことのある商人とか。


 そういえば、ヨハンは八人の家庭教師がついていると自慢していたっけ。エミリアには四人。

 それならマリーだって三人くらい抱えても良い気がする。


 俺は息を整えてから、おばさんに自分が求めている新しい先生像を語ってみた。


「おばさん、そんな方々をご存知ありませんか」

「……私に不満がございますか」

「そうではなくて」

「まさかエミリア様に対抗したいとか。あっちは四人でしたね」

「そうでもなくて!」

「ではなぜ、そんな方々を先生に呼ぶのです。社交界の有名人と、冒険心あふれる商人から何を学ばれるおつもりですか」


 イングリッドおばさんは困ったような顔をする。

 うーん。もしかすると今、自分が求めた先生は次期当主カミルにつくべき人なのかもしれない。

 嫁に行くだけの身ならば、あえて学ぶ必要はない。歴史や詩・楽器・茶など、今までどおり領主の子女としての教養を学んでいれば大丈夫。幸せになれる。

 そんな考えがおばさんから透けて見えた。

 俺は上手い言い訳を考える。


「――ヨハン様が、世界情勢を語れる女が好きだと仰っておられましたので」

「あらあら!」


 おばさんは一転して、手を合わせて喜んでくれた。

 良かった。下手な嘘をつかずに済んだ。


「わかりました。古い知り合いにツテがありますから訊ねてみましょう」

「ありがとうございます」

「うふふ。そうね。あなたもそんな年だものね」


 彼女から恋する少女のような扱いを受けるのは非常に恥ずかしいけど、とにかく手は打った。

 流れに抗うための小さな一歩。布石。どんな先生じんざいを紹介してくれるのかな。楽しみ。



     × × ×     



 ひと月かけてラミーヘルム城に戻ると、新たに生まれた末弟の泣き声が出迎えてくれた。

 父親が不在なので、名前はまだ決まっていない。

 この世界は新生児の死亡率が非常に高く、生まれたとしても予断を許さないけど、無邪気に汚い手で触ろうとしたカミルのこめかみには肘打ちを喰らわせておいたので、当面は大丈夫なはずだ。


「あんたは相変わらず落ち着かない子だねえ、マリー」

「失礼いたしました」

「少しはあたいに似てくれてもいいのにさ」


 母親は末弟を抱き寄せる。乳をあげている姿はとても美しい。そして懐かしい。

 俺は何も言わずに部屋を後にする。


 大君同盟の隣国・ストルチェク連合共和国生まれの母親は、娘を身内に育てるつもりだった。

 子供の頃に彼女から聞かされた言葉には少なからず非同盟語が混じっており、おそらくあれが彼女の母語なんだろう。

 同盟語を覚えるのに必死だった俺は彼女が独りで話す言葉を不確定要素として切り捨てた。絶対に真似しなかった。

 その結果が今の冷えきった関係だ。

 別に累計三十三歳にもなって母親に甘えたいなんて思わないけど、もっと上手く母娘関係を作れた気がしなくもない。


 もし次があれば……いや、次なんてあってたまるもんか。

 破滅から世界を救おう。彼女の母国を含めて守りきろう。

 それがマリーにとって一番の親孝行になるはず。

 自分自身にそう言い含めて、俺は勉強部屋に向かう。

 イングリッドおばさんに新しい家庭教師を紹介してもらうのだ。

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