1-1 この国に生まれてよかった?


     × × ×     

 

 生まれてから半年間はほとんどベッドから出してもらえなかった。

 常に布を巻きつけられたまま眠り、たまに抱き上げられて母乳を与えられる。タオルで身体を拭かれる時だけが楽しみな生活が延々と続いた。


 首が座り、まだ自由自在とはいかないが四肢を動かせるようになると、ようやくベッドの上を這い回ることが許された。

 この頃には、目や耳がはっきりしてきたので、俺は周りの会話をなるべく聞き取るように努めた。

 おかげで初めはまるで理解できなかった両親の言葉も、二年過ぎた頃には理解できるようになった。ジョン万次郎方式は別世界でも通用するらしい。

 歩けるようにもなり、早めの母乳断ちもできた(こちらの世界では日本より長く母乳を与える傾向にあるようだ)。


 三歳になると弟が生まれた。

 おのずと母親や廷臣たちの注意がそちらに向いたので、その隙を突く形で俺は城の中を探索するようになった。

 なにせ、この時まで自由に歩き回れるタイミングが一切なかったから。

 石造りのラミーヘルム城は昼夜を問わず暗かった。領主たる両親の住まう部分だけはガラス窓を贅沢に使っていたけど、他はみんな牢獄のようだった。回廊にはじめじめしたところもあり、虫やコウモリにビックリさせられたこともしばしば。


 身体が成長するに従って、俺の探索範囲は広がっていった。

 幼児の頃にはこちらを見つけると「いけません」と身体を張って通せんぼしてきた衛兵や廷臣・僧侶たちが、時を重ねるうちに自由に通してくれるようになった。

 たまに城の隅で父親と鉢合わせした時には怒られたけど、母親からは特に咎められたりしなかった。

 ただ「お父様によく似ているわね、無駄に徘徊するところ」と嫌味を言われた。


 六歳。城の尖塔に登った俺は、初めて外の世界を一望した。

 蛇行する大きな川と三日月湖に挟まれた城と都市が足元にあり、その外では麦畑と草原が一面にゆるやかな傾斜を描いている。遥か遠くには街道が見えた。人が歩いている。

 どこまでが父親の領地なのだろう。


 前世で父の仕事(溶接工)を知ったのは小学生の頃だったけど、こちらで父親の地位を知ったのは七歳の時だった。

 我らがラミーヘルム城に「大君たいくん」とやらの使いがやってきたのだ。その場に同席を許された俺と弟は、使者にひざまずく父の姿にビックリさせられた。

 我ながら阿呆な話だけど、この世界で父親より偉い人がいるとは想像していなかったから。


「ヒューゲル公パウル。我が君が三職さんしきによる議会の招集要請を認められた。よって来年の四月末に──」

「はっ」


 父親が恭しく使者の令状を受け取る。

 使者はふてぶてしく帰っていった。廷臣たちが話すには、大君の従弟で、北部地方の有力大司教なのだという。


 会見が終わった後、父親は令状について弟に説明を始めた。

 俺もそれに聞き耳を立てたが、家庭教師のイングリッドおばさんに「お邪魔をしてはいけませんよ」と引き離されてしまった。

 あれほどの理不尽を覚えたのは、前世で服が似ていたというだけで万引き犯と間違われて殴られた時以来だった。

 あの店員だけは絶対に許さないけど、イングリッドおばさんは文字の読み書きを教えてくれたので感謝している。

 おかげで本が読めるようになり、父親が弟に語っていた内容も後から理解することができた。


 この世界には大君という皇帝のような存在が君臨しており、その下で我が父のような諸侯が領地を治めている(大君→諸侯→領民という支配・被支配関係)。

 使者が話していた議会とは、各地の諸侯が大君のもとに集まって話し合う場のことだ。

 主に世間話から税金の話、外交の話が中心で、大君が死んだ時には古来のしきたりにより次の大君を決める選挙を行うらしい。

 日本とは異なり、必ずしも皇帝の係累が地位を継ぐわけではないようだ。

 他にも本棚はこの世界の色んな知識を教えてくれた。本来なら転生する前に管理者が伝えておくべき内容だと思わなくもないけど、まあいいや。


 そして──八歳。

 いよいよその時が来た。


 城の北門が開かれ、四月の春風が馬車の窓から入り込んでくる。

 俺は初めて城の外、街の外に出る。否応なく心は弾んだ。

 街道沿いでひれ伏す領民たちの姿には妙な気分にさせられるけど、それは自分だけのようで、父親と弟は当たり前のように無視していた。


 馬車はゆっくりと大君議会のある都市に向かう。

 あまりにのんびりとした速度と座席の揺れに辟易させられるけど、周りの衛兵たちが徒歩であることを思うと贅沢は言えない。

 でも、せめて馬車にまともなサスペンションは付けてほしい。お尻が辛い。


「お前たちにとっては初めての社交になるな」


 揺れに抗って本を読んでいた父親が、俺と弟に話しかけてくる。

 俺たちが同行しているのは顔見せのためだ。他の諸侯やその子供たちと交流を持っておくことは将来のためになるとのこと。

 自分としては十七年後に訪れる「破滅」についての情報収集の機会でもある。父親の蔵書では「破滅」の知見が得られなかったので、何か手がかりを手に入れたいところだ。

 あとはその時のために仲間を作っておくのもいいかもしれない。共に対応できれば、破滅を防げる可能性は高まるだろう。きっと。


「カミルは緊張するんじゃないぞ」

「はい、お父様」


 弟はしっかりと返事をした。両手をぎゅっと握りしめているのが微笑ましい。

 次に父親の目はこちらに向けられる。


「お前は婚約者と初めて会うことになるから、くれぐれも粗相のないようにな」

「えっ」

「キーファー公の息子は好青年だそうだぞ、マリー」


 言い終えた口元が、わずかに寂しさを帯びる。

 そうか。そうなるのか。

 父親に「はい」と返してから、車窓に目をやる。

 牧歌的な風景が広がっている。前時代的な世界。住まう者たちの社会も然り。

 だから、領主の娘に生まれた者などは当たり前のように家同士のつながりの道具になる。

 さすがは隣の世界。過去の風習さえも似ているらしい。


 俺は管理者に問いたくなる。なぜ、あの赤ん坊を選んだのですか。なぜ自分を公女マリー・フォン・ヒューゲルの役に宛がったのですか。次期当主のカミル役では駄目だったのですか。

 具体的な理由を教えてもらいたいのに、脳内でいくら問い合わせても返答は来なかった。

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