1st Lap・五里霧中編

プロローグ 二十五歳の別れ


     × × ×     


 まさか自分が食あたりで死んでしまうとは思わなかった。

 油断した。スーパーで売っている刺身ならまだしも、友達が釣ってきたサバを生で食べるのは危険だった。

 おかげで吐いても吐いても収まらなくなって、ついには吐瀉物を喉に詰まらせてしまい、あえなくトイレでご臨終。

 上方落語『地獄八景亡者戯じこくばっけい』じゃあるまいし、冷蔵庫に残したサバの半身を惜しいだなんて少しも思わないけれど……いや少しは惜しい気もするけど……我ながら、あまりに情けない最期だった。


 俺の死体を見つけたアパートの大家さんは、どんな顔をするのだろう。

 家族からはどんな言葉が寄せられるだろう。

 お通夜には友人・知人が何人来てくれるだろうか。好きだったあの子は顔を見せてくれるかな。


 後悔は尽きず、気がかりも無くなりそうにないけれど、もはやどうにもならない。

 井納純一いのうじゅんいちの人生はたった二十五年で終わってしまったのだから。




 ところで……今いる「ここ」はどこなんだろう?

 何も見えない。布団の中のように生温かい。体の自由が効かない。

 体育座りで拘束されているような気分。


 上方落語じゃあるまいし、死後の世界が存在するとは思わない。

 肉体から分離された「記憶と思念」――魂の実在を科学的に立証した例は、自分が知るかぎりない。

 ダンカン・マクドゥーガルの試みはマユツバだとウィキペディアに記されていた。ウィキペディアの記述なら七割は正しいはずだ。

 ただ、もし仮に自分が「二十一グラムの魂」となり、あの世に向かっているのだとしたら――次の行先が気になる。

 天国? 地獄? 冥道筋?


『気になりますか。

 そうでしょうね、そうでしょう』


 どこからともなく、子供のような可愛らしい声がした。

 両耳の鼓膜に届いているわけではない。脳内に直接話しかけられている。

 こいつ……何者だ。


『わたしは、ある世界の管理を任されている者です』


 迷いのない語り口は、それゆえに奇妙な真実味を帯びていた。

 アルコール抜きでは到底信じられそうにない与太話なのに、なぜか受け入れてしまえる。

 まさか「ここ」って日本酒を入れてレンジアップした徳利の中なのかな。生温かいし。


『あなたは熱燗の中にはいません。話を進めます』


 目の前に徳利が割れる映像が浮かんできた。これも実際には出てきていない。視神経を経由せずに脳内に流し込まれている感じだ。

 ただの冗談だったのに、本気で対応されてしまって少し恥ずかしいな。

 それにしても、本当にこの声は何者なんだろう?


『わたしの管理する世界は、井納さんの住んでいた世界の隣にあります。とてもよく似ています。それが今、大変な危機に晒されています』

「大変なことって何ですか」

『いわゆる世界の「破滅」というやつです』


 別の映像が自分の中に流れ込んでくる。

 大陸の草原に古めかしい格好をした人たちが並んでおり、それぞれ杖や指先を大空に向けて、先端から光を放っていた。

 空中で結束された光は、巨大な五角形の魔法陣と化した。徐々に拡大しながら空と地球を包み込んでいく光の紋様。

 やがて「それ」は、月も太陽も、宇宙の何もかもを巻き込んだ末に――消滅した。

 何もなくなった。無すら広がっていない。


『別に核戦争で文明が消えるくらいなら許せるのですが、このままだと世界ごと消えてなくなってしまいます。そうなりますと、他の並行世界との間に真空が生まれてしまい、巻き込まれて連鎖的に消えてしまうのですよ』

「よくわかりませんが」

『ジェンガを一本抜いたら崩れるような感じです』

「わかりやすいですね」


 つまり、その世界が終わると他の世界もヤバくなってしまうわけだ。

 もちろん俺が生きていた世界も。

 何とかしないといけないのはわかる。

 ただ、そんな話を死者である自分に持ちかけられても、正直なところ……困るなあ。

 手助けしようにも、街頭で募金の呼びかけすらできない。


『井納さんに声をかけているのは、別にお金欲しさではありません』

「ああ、はい」

『欲しいのはあなたの時間です』

「死者から時間をせびりますか」


 例えるなら、赤ん坊から現金をカツアゲするような話だ。

 もっと持てる者からくすねてきたほうがいい。今の自分ではジャンプしても、小銭いちびょうも出せそうにない。


『あなたにはまだ時間があります』

「ないですよね、死んでるのに」

『あなたのいた世界の管理者――わたしのセンパイの話によると、井納純一には元々百年の時間が宛がわれていたそうです』

「四分の一になりましたが」

『たしかに肉体は粗末になりましたが、あなたの魂には七十五年分の時間が残されています。それをわたしの世界の保全に使わせてほしいのです』


 まるで途上国の子供を救おう! と浄財を求める広告のように、一から十まで正しさに溢れた声色だった。

 そのわりにはいまいち内容に具体性を欠いている。目的だけが先走って中身を詰めきれていないプレゼンのような空気を感じる。プレゼンなんて受けたことないけど。

 協力を求めるなら求めるで、きちんと内容を話してほしい。でないと回答できない。

 よくわからないままハイと答えて、他人の借金を背負うことになった伯父と同じ目にはあいたくない。


 この人は、井納純一おれに何をしてほしいのか。

 俺は具体的に何をすればいいのか?


『井納さんには世界の流れを変えていただきたいのです』

「まだ抽象的なので、もっと具体的にお願いできませんか」

『あなたの魂に残された時間を使い、本来なら死ぬはずだった赤子に成り代わり、二十五年後に訪れてしまう「破滅」を阻止してもらいたいのです』

「俺に赤ん坊になれと仰いますか」

『はい。この子になってもらいます』


 また映像が流れ込んでくる。

 川と湖に挟まれた街の中央にそびえる石造りの城で、生まれたばかりの赤ん坊が両親と思しき者たちに祝福されていた。

 だが、数日後には土の下に埋められてしまう。


『あの赤子には命数が足りなかった。でもあなたには七十五年もある』

「俺があの子になれば、世界の破滅を止められるんですね」

『可能性があります』


 微妙に言葉を濁された。つまり失敗することもありえるようだ。


『あなたの魂に残された時間からして、三回はチャレンジできるはずです。何とかやってみてください』


 目の前に表示された「75」の数字が三つに割れる。

 それぞれが「25」の形に変わった。

 小学生で習うレベルの計算を見せつけられて、若干バカにされているような気もするけど……つまりは「破滅」までの二十五年を三回まで繰り返せる、ということなんだろう。


 取るべき行動を間違えてしまっても、次回で取り返すことができるわけだ。

 それなら、ただのフリーターでしかない井納純一でも上手くやれるかもしれない。

 これといって特技のない自分でも、その世界の未来を変えられるかもしれない。

 なにせ、もし自分の人生をやり直せるなら、絶対に一周目より上手く立ち回る自信がある。

 伯父の借金を防げるし、好きだったあの子に振られて心に傷を負うこともなくなる。


『納得いただけましたか』

「やってみてもいいかなとは思います。ちなみに参考程度にお尋ねしておきますけど、断ったらどうなりますか」

『あなたの来世がこの世界の大腸菌になります。わたしの権限で』


 やるしかなさそうだ。

 うんこ作りのプロになるくらいなら、人間の赤ん坊になったほうが絶対にいい。


『では、契約成立です。上手くいこうが上手くいくまいが、次は二十五年後に会いましょう』

「ところであの赤ん坊は何者なんですか?」

『それは本人として知るべきです』

「生まれてから具体的には何をしていけば? 向こうで指示してもらえるんですかね?」

『あなたが主体的に考えてください。では、次は二十五年後に』


 正しさに満ちた声が途切れて――急に目の前が明るくなった。


 ぼやけて、ほとんど何も見えない。

 周りから声をかけられているのはわかる。

 でも何を言っているのかさっぱり理解できない。日本語を話してほしい。


「うえぇぇ……」


 悲しくもないのに泣けてくるのは、自分が赤ん坊だからか。

 新生児が泣くのは呼吸を練習するためだとネットの記事で読んだことがあるので、とりあえずしばらくは本能に任せることにした。

 それにしても、二十五年ぶりに吸う乳首がまたもや母親のものだとは。前回とは別人とはいえ何とも言えない気分になる。

 いやまあ、必死で吸ってるから本当に何も言えないんだけど。

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