36 僕と彼女のプロローグ。

 カフェを後にした入鹿が向かったのは、薄寒い中庭であった。人はまばらで、院内の喧騒とはどこか隔絶された雰囲気が支配している。


 併設されてあるベンチに腰掛けると、大きく息を吐く。


 白い息が中空へと昇り、冬の寒空に溶けて消える。先程まで暖かいカフェに居たため、まだ寒いという訳ではないが、徐々に冷えていく手先を擦り合わせながら、ふと、先ほどの会話を思い出す。


 より正確には、先ほどの会話に出て来た一人の少女——叶瀬結衣のことを、思い出す。


 ——叶瀬結衣。


 彼女は観月の親友であり、結良の妹であり、しかし入鹿とは友達では無かった。

 叶瀬結衣と榎本入鹿は、交際関係を結んだ恋人同士だった。


 入鹿が中学三年生の時、彼女は中学一年生。別段、気にするほどの年の差ではないが、彼女は妹の親友で、親友の妹。何となく気まずくて、誰に教えるわけでもなく、二人は交際していた。


 と言っても、結良の反応から彼女は薄々感づいているようだったが。


 そして、事件はその翌年。入鹿が高等学校へ進学すると同時に起こった。

 結衣はいじめを受けるようになったのだ。


 入鹿はそのことを観月から知らされるまで知らず——知らされたのは、結衣が学校の屋上から身を投げた後だった。


 全ては後の祭り。やるせない感情だけがただただ肥大化していくのを感じていた。


「……っ!」


 目を見開く。手先が冷たい。息が上がる。

 後悔の思考は、足を掴んで離さない。絶望と地獄の底へ、引きずり込もうとしてくる。


「くそ……」


 一人毒づく。やはり思い出したくない記憶だった。

 あれだけ大切にしようとしていた結衣。そんな彼女にただの一度も相談されなかった彼氏。——死にたくなる。


 入鹿は落ち窪んでいく気持ちを頭を振って吹き飛ばし、思考を切り替える。


 それにしても、薊の言葉には冷や冷やさせられた。

 まさか叶瀬結衣の自殺にまでたどり着くとは、思ってもみなかったからだ。


 何故なら、彼女の事件は、それこそ徹底的に秘匿されていたから。


 入鹿は観月という抜け穴があったから調べることが出来たが、そうでなければ普通の警察は気付くことすら難しい。


 特に、この町の様な田舎では、町民の方が警察より権力が高いこともしばしばあり得ることで、その機密性は極めて高い。


 だからこそ、冷や冷やした。焦った。顔に出さないように、必死だった。絶対にバレてはいけない秘密。入鹿の、九月から続く、ありふれない青春。


 岸田を除く七件の殺人。

 それが全て入鹿の手による・・・・・・・・・犯行である事・・・・・・


 それがバレたのではないかと焦ったのだ。それほどまでに薊の推理は的を射ていた。それこそ、彼女の口を封じたくなるほどに。


 しかし入鹿もそこまでシリアルキラーではない。入鹿はルールを守るタイプの人間だ。守ったからこそ、十四歳以下の虐めの主犯格は殺さなかった。法律では、十四歳以下は罰せられないから。


 入鹿は一つ息を吐く。


 薊がいくら優秀だからと言っても、証拠がなければどうしようもなくて、そして証拠はすべて、信孝の物として使用される。それが、契約だ。


 あの夜――二人目を殺した帰り道、入鹿は偶然出会った。犬殺しの伽耶と、そんな彼女を悲し気な目で見つめる信孝。そんな二人と出会い、そして入鹿は信孝と契約した。


 信孝が依頼したのは、伽耶を普通の女の子にすること、犬殺しを辞めさせること、自身が捕まった時に、彼女の面倒を見てあげること。七人の殺人に、二人を加えること。加えた二人は信孝自身が殺すこと。


 それをしてくれたら、キミの罪をすべてかぶって僕は獄中へ落ちよう。

 だから――あの子を、助けてあげてくれないかな?


 そうして差し出された手を……逡巡しながらも入鹿は取ったのだ。


「……入鹿」


 突然声を掛けられ思考の海から浮上する。

 声の方へ視線を向けると、そこには伽耶が立っていた。


 一応、あの事件の後に一度だけお見舞いに来てくれたが、直ぐに入鹿の家族が来ることになり落ち着いて話し合うことが出来なかった。

 なので、かなり久しぶりな印象を覚える。


 正直、伽耶の犬殺しの原因が『不安』であると判明し、父親である信孝も逮捕された今、彼女を一人にしておくのは心配なのだが……彼女の表情は、どこか憑き物が落ちたように見えた。


 伽耶は入鹿の座るベンチの前に立つと、手にしていた鞄から一枚のハガキを取り出して、差し出した。


「明けまして、おめでとうございます」


 年賀状だ。


「お、おめでとうございます」


 いきなりのことでたじろぐも、居住まいを正して年賀状を受け取る。


 表面には『榎本入鹿さんへ』とだけ、達筆な字で書かれており、住所などは乗っていない。そう言えば教えていなかったなと思い出す。


 裏返すと、今年の干支である鼠のイラストと、これからも末永くよろしくお願いします、という少し重めなメッセージと共に、これでもかとふんだんに盛られたハート。


「み、見ないで……」


 伽耶は顔を赤くしながらそんなことを言うが、止めるつもりはないらしい。

 嫌よ嫌よも好きの内、という奴だろうか。違うだろうな。


「嬉しいよ、ありがとう」

「ううん、好きでやったことだから」


 薄く微笑んだのも束の間、伽耶は一瞬入鹿の左腕に視線をやって、その表情を曇らせる。


「腕、大丈夫?」

「まぁ、折れただけだしね」

「……ごめんね。私、またおかしくなっちゃったみたいで」


 隣に腰掛けながら、伽耶は口にする。

 僅かにしゃくりが含まれた彼女の吐露を、入鹿は瞑目して静かに聞いた。


「ほんと、なんでかなぁ……。い、意味わかんない、よね……。入鹿が、受け止めてくれるって言ってくれたのにぃ……、なのに、おかしくなって……」


 それは何て悲劇なのだろうか。

 伽耶も女子だ。やはりロマンチックを求めるのだろう。

 しかし現実は非情で、恋愛感情は欠片ほども必要とされなかった。


 幸いなのは、伽耶があの日の夜――犬殺しになっていた時のことをあまり覚えていないと言う点か。

 入鹿は『大丈夫、伽耶ちゃんは悪くない』と、決まり文句を口にしようとして、その前に伽耶が口を開いた。


「――でも、うん。今は大丈夫だって思う」

「伽耶ちゃん?」

「よくわかんないけど、心があったかいから……。あの日から、入鹿と心の中で繋がってるって思ったら、前みたいに辛くなることが少なくなって……。なんて、そのすぐ後に入鹿を襲ってるのに、何言ってるんだろうね」

「……」


 伽耶が繋がりと思っているのは入鹿との交際であるが、実際はあの日、身体を交わしたことが効いているのだろう。

 しかしながら、その時の記憶が伽耶にはないため、彼女はこうして混乱している。


「私、また、おかしくなっちゃうのかな……」


 そう言って、伽耶は肩と肩が触れ合うほどの距離まで入鹿に近づくと、ギプスのない右手を握りしめた。ぎぅぎぅ。


 全てが分かった今、これも恋愛感情ではなく不安をぬぐうための代替行為と思うと、どこか寂しさを感じたが、入鹿は黙殺。伽耶と指を絡ませて、恋人繋ぎに移行する。


「大丈夫、伽耶ちゃんはもう犬殺しにならないよ」

「……うん、ありがと、入鹿」


 甘えた声色で呟き、肩に頭を乗せる伽耶。


 完全に犬殺しが消え去ったのかと言われると、入鹿には調べようがないので分からないが、しかし確実に回復傾向にあるのは間違いないだろう。


 話も一区切りついたところで、そろそろ院内に戻ろうと声を掛けようとして、その前に告げられた言葉に入鹿の思考は一瞬奪われる。


「お父さん、捕まっちゃった」

「……」

「なんで、あんなことしたんだろう」

「……さぁ」

「……だよね、ごめんね」


 彼女の問いかけに、意味は無い。入鹿に答えを求めているわけでもない。だから入鹿は、誰よりも理解できる彼の想いをはぐらかす。


 信孝の想い。それを最も理解できるのは、入鹿である。約十年間信孝と手を組んでいた倉坂ではなく、榎本入鹿。


 何故なら二人とも、大切な人を傷つけられたことに対する復讐なのだから。


 殺してでも怒りをぶつけて後悔させたい。そんな思いがただひたすらに肥大化したのが二人だ。


 留まるところを知らない感情は、おそらくそれを止める器官が壊れてしまっていたのだろう。伽耶が十年前の誘拐事件でねじを落としたように、入鹿も信孝も、感情抑制のブレーキが破損したのだ。修復不可能なほどに。


 否、信孝は最後、後藤を許した。それはおそらく、全てを知ったことでブレーキの修復に成功したのだろう。


 対する入鹿はどうしようもない。七人を殺し、信孝に罪を被って貰ったと言うのに、そこに一切の罪悪感を抱いていない。


 未だに残る僅かな不快感は、いつか後藤が更生し、自身を告発するのではないか。ということに対する不安。


 入鹿は堪らず自己嫌悪。


「入鹿?」

「ううん、何でもない」


 そうやってはぐらかし、右手で伽耶の髪を梳く。

 くすぐったそうに目を細める彼女を見て、優しい気持ちになる。


「お父さん、どうなるのかな?」

「さぁ、まだ何とも。今度、面会にでも行ってみる?」


 裁判が開かれるのはまだ先のことだろう。

 今から心配し続けていては心が持たない。


「……いいのかな?」

「いいんじゃない?」

「その時は一緒に来てくれる?」

「もちろん。正式にご挨拶もしないといけないしね」

「その時は私に任せて! この人が旦那さんです! ってちゃんと紹介するから!」

「わぁ、楽しみ」

「うん、私も! あっ、でもその前にクリスマスのやり直ししなきゃだね」

「それもそうだ」


 結局どこにも出かけていない。


「どこに行きたい?」


 首を傾げて尋ねてくる伽耶。頬を朱に染めて幸せそうに爛漫の笑顔を浮かべている。


 それは見惚れてしまうほどに可憐であり、見慣れたいと思うような、自然の笑顔だ。


「そうだね。まぁ、とりあえずは病室に戻ろうか。冷えて来たし」

「あっ、ご、ごめんねっ!」

「いいよいいよ」


 入鹿が立ち上がると、伽耶も立ち上がる。

 二人で歩き始め——「入鹿」と、呼び止められた。


 そこには、優しい笑みを浮かべた伽耶。


「好きだよ、入鹿」

「……あぁ、僕も好きだよ」


 入鹿も笑顔で返し、右手を差し出す。

 伽耶はぱちくりと見つめてから、口元をニマニマさせて差し出された右手に自身の左手を重ねた。


 榎本入鹿のありふれない青春が、終わりを告げる。


 そして、始まる。


 ——入鹿伽耶彼女のプロローグが。







———————————————



あとがき


 これにて本編完結でございます。

 ここまでお付き合い下さった皆様には感謝を。


 伏線は全て回収したつもりですが、何か疑問がございましたら遠慮なく質問下さいませ。


 また、楽しんでいただけたのなら、☆(レビュー)、応援の方を頂けると今後の執筆のモチベーションとなりますので宜しければお願いします。


 続編に関しましては、分かりませんが、番外編をポツポツと投稿出来たらな、と考えております。


 本当はもう少しお話したいですが、長くなり過ぎるのもあれですので、この辺で。

 最後に改めて、お読みいただき、ありがとうございました。

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