榎本くんのありふれなかった青春

34 アフタータイム。上

 人間、大人になるにつれて怪我をすることは少なくなる。小学生の時分は日々膝小僧から血を垂れ流し、鼻血で服を汚していた。


 しかし成長するにつれて世間の目が気になり始めて、気が付くと突飛な行動を取らず怪我のリスクを負うことも無い。そんなありふれた青春というものを享受するようになる。スポーツや格闘技でもしない限り、血を流すことは殆どないと言ってもいいだろう。


「つまり、今のアンタはとんでもない馬鹿ってことね」


 病院内に併設されたカフェで、正面に座る結良は指を立てて笑った。


「怪我人に対して酷い言いようだな」

「左腕骨折って……そんだけされたのに諦めないとか、どんだけ浜宮にゾッコンなのよ」

「仕方ないよ、伽耶ちゃんは悪くないからね。でも、怪我をするのもこれで最後になるはずだ」


 事件のことは話せないため、入鹿の怪我については少し伽耶と喧嘩したということで片付けた。因みに小指がちょんぱされている件に関しては伝えていない。


 本日は一月一日。つまりは元旦だ。伽耶と過ごす予定だったクリスマスを病院内で一人寂しくやり過ごし、現在。


 入鹿は元旦ということもあって忙しいはずなのに、何とか時間を取ってあけおめを言いに来た親友と朝食を取っているという次第だ。


「ふーん。……それで、色々話を聞かせてくれるのかな?」

「そうだなぁ」


 入鹿は迷う。

 こうしてありふれた青春が戻ってきた今、あの日々を語り聞かせることは、果たして正しい事なのか。


 正直な話、結良は十年前の誘拐事件に一切関与していない。つまり伽耶とも完全なる赤の他人で、その父親の復讐劇は対岸の火事ですらない。


 故に、語る必要はない。


「何よ、相談に乗ってあげたでしょ?」


 そこを付かれると弱い。


「うーん、それでもなぁ」


 言えない。無関係の人間に話すことは出来ない。

 それは伽耶の為ではなく信孝や倉坂、あの誘拐事件に囚われ続けてきた大人たちの為だ。


 言うつもりがないことを悟ったのか。結良は大きくため息を吐くと、視線を逸らして珈琲に口を付ける。


「分かった。入鹿がそう判断したなら……うん、信じる」

「悪いな。……ただ、ひとつだけ言えることがあるとすれば――」


 入鹿は顔を上げて結良と目を合わせると、自然な笑みを浮かべた。

 それは親友であるはずの結良ですらここ最近目にしていなかった、心からの笑みだ。


「今度伽耶ちゃんを紹介するよ」


 すべてが終わったから。長い長い夜の戦いは終わったから、それだけは約束できる。


「うん、楽しみに待ってる」


 入鹿の笑みに応えるように、結良も微笑を浮かべた。


「そう言えば、あの紙は役に立ったの?」

「かみ?」

「ほら、ストレスの原因が云々、ってやつ」

「あぁ」


 伽耶がなぜ犬殺しとなるのか。その原因となるストレスを調べるために、参考までに結良がストレスに感じることを教えてもらった。


 実はあの後、入鹿は一度伽耶の家に帰り、その際今一度紙に目を通していた。


 伽耶の症状、後藤の話、そして結良のメモを参考にしてみると、伽耶のストレスとなっていたものに関して、入鹿はおおよその判断が付いていた。


「参考になったよ」

「それで? 結局何だったわけ?」


 身を乗り出してくる結良に、入鹿はどうして気付かなかったのかと、後悔を胸に抱きながら答えた。


「不安」

「え?」

「伽耶ちゃんは、不安が嫌だったんだ」


 結良は眉間に皺を寄せて首をひねるが、これ以上語るつもりはない。

 入鹿は珈琲に口を付けた。


 しばらく談笑した後、結良は不意に時計に目をやって「ごめん、そろそろ」と荷物をまとめ始めた。


「何かあるのか?」


 尋ねると彼女は珈琲の匂い消しにミントガムを取り出しながら、答えた。


「まぁね。友達に初詣行こうって誘われてて」

「かー、リア充様は違いますねぇ」

「なに? 親友を取られて嫉妬しちゃった感じ?」


 ニタニタ笑みを浮かべる彼女を入鹿シッシと手で追い払う。


「ちげーよ」

「あははっ、そう言うことにしといてあげる。……でも」


 結良はコートを身に纏い、荷物を手にすると立ち上がって、その端正な顔を入鹿に近づけて耳元で囁いた。


「今年最初に会ったのは、入鹿だから」


 それだけ告げて、彼女はカフェを席から離れて行く。


 残された入鹿は未だ甘く残るその声色に、ごく普通の男子高校生らしく若干照れた。

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