33 ピリオド――Ⅳ
長く、吐き気を催すような過去を話し終える後藤。
その瞳からは涙が止めどなく溢れていた。
なるほど、その話を聞く限り、彼女もまた岸田文博の被害者なのだろう。典型的なDVカップルの拗れた関係という印象を入鹿は覚えた。
と言っても、彼女の話が何処まで脚色されたものかは分からない。
後藤の話、そのすべてを信じるほど入鹿はお人好しではない。
特に今の彼女は殺されるか否かの瀬戸際だ。そんな状況下における独白を、いったいどれほど信用すればいいと言うのか。
だが、入鹿がどう思おうが関係ない。すべてを決めるのは――と、ちらりと視線を信孝に向ける。彼は涙を流す後藤をジッと、ただジッと見つめる。
何を考えているのだろう。何を思っているのだろう。
今の胸糞悪い話を聞いて、どうするのだろう。
長い沈黙だった。ときたま、後藤のすすり泣きだけが、耳朶を打つ。
何分経っただろう。もしかすればこのまま朝になるまで信孝は動かないかもしれない。そんな予感を抱いてしまうほどに、彼はピクリとも動かない。
けれど、もちろんそんなことは無く。
信孝は大きく息を吐いて、ナイフをしまった。
「……今、彼女に対する怒りはとても小さくなっている。何故だろう?」
信孝の声は、静寂のグラウンドに漂う。
「さぁ、単純に時間が経過したから、ではないんですか?」
先ほどまでは怒っていたのに、少し時間を空けただけで怒りが収まるのはよくあることだ。
「いや、そんなはずはない。だって、だって僕は十年間も犯人を殺したいと憎み続けていたんだ? それがほんの数分で――」
「それじゃあ、同情心を抱いたから、とかじゃないんですか?」
入鹿は淡々と語る。
自身とは無関係だから語る。
そもそも入鹿は十年前の誘拐事件に一切関与していない。
つまり、この状況下において、唯一の部外者であり、完全なる傍観者なのだ。
だから俯瞰した言葉を彼に投げかけることが出来る。
「そう、なのだろうか……」
一瞬、入鹿は彼女の言葉がすべて真実という確証はどこにもないんですよ、と信孝に助言しようかと考えた。もしかすれば、彼が早急な判断を下すかもしれないと思ったから。
しかし、止めた。
迷う信孝の表情を見て、止めた。
言葉も思考も、そのすべてがどうするべきなのか迷っている信孝。
けれど、その表情だけは、もう決まっていると告げていた。
信孝は見つめる。泣きべそをかく後藤を見つめる。
その姿は、自らの行動を咎に思い泣きべそをかく子供と、これ以上償わせるべきなのか迷う父に見えた。そう、見えてしまった。
つまり、信孝は後藤を殺せなくなっていた。
彼の本質が、復讐の灯火が、力尽きたのだ。
「後藤清美」
「……」
後藤は完全に壊れていた。
ぽっきりへし折れた心。依存という形で保ってきた人格。語らないことで事実から目を逸らしてきた現実。そのすべてが消滅し、自我を保てなくなっていた。
いつの間にか、彼女は泣き止んでいた。当然だ、涙も無尽蔵ではない。それだけの時間、信孝は後藤を見ていたのだ。
信孝の言葉に、後藤は反応しない。
「後藤、清美」
もう一度その名を呼ぶも、反応はない。
信孝は後藤に近付き、頬を張った。
乾いた音が響き、死んでいた後藤の瞳が僅かに動き信孝を捕える。
「……ん、……い」
か細い声が、唇の間から聞こえた。
「……めん、なさい。ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――」
謝罪は永遠と繰り返されていた。掠れた声で、虚ろな瞳で。
そんな彼女を見て、信孝は何も言わない。
ただゆっくりと頭を横に振る。
「どうするんですか?」
入鹿が尋ねると、彼は立ち上がりつつ答えた。
「僕にはもう無理だ。彼女を殺せない」
「本当に、良いんですか?」
「あぁ」
「十年間も、恨み続けてたんですよね?」
これが最後の確認。入鹿は信孝を見つめる。
すると彼は目を合わせることも無く「……そうだな」と頷く。首肯する。なのに、一向に考えを改めようとしない。ただ震える哀れな誘拐犯を見つめ続けるだけ。
その顔つきは、とても疲れているように見えた。
いや、疲れているようにしか、見えなかった。
深く刻まれた隈、痩せこけ浮き上がった頬骨。不健康そうで、憑かれることに疲れた姿。
それはとても痛ましく思えた。
入鹿には理解できなかった。何故彼が手を止めるのか、何故彼女を生かそうとするのか。
入鹿には、分からない。決して納得は出来ないし、この結末が正しいとも思えない。
けれど何より、入鹿は部外者だった。
全てを決めるのは信孝なのだ。
入鹿は大きく息を吸い込み、吐き出す。
「言っておきますけど、それでも契約は守ってもらいますから」
「……ああ、分かっている」
「ならいいんですけど」
「すまないね。……それじゃあ彼に電話してもらってもいいかな?」
「はぁ。わかりました。――ッ痛!」
入鹿はスマホを取り出そうとして、左手の小指が無いことを思い出す。
右手で電話を掛けつつ、ちょんぱされた小指の先を捜索する。
すると思ったより早く見つかった。自分の指を摘まみ上げると言うのは、正直気持ちが悪いが仕方がない。ため息を吐くのと電話が繋がるのはほぼ同時だった。
「もしもし? あー、はい。はい。そうです。場所は高校のグラウンド。はい。お願いします」
簡単に済ませて電話を切る。あとは相手が来るのを待つだけだ。
左手を骨折したり、指をちょん切られたりといろいろあったがこれですべての事件は一応の解決を迎えたことになる。
「んー! あぁ~! 疲れたぁー」
たまらずその場に座り込む入鹿。
そんな彼に信孝は苦笑を浮かべながら「そういえば」と尋ねた。
「どうして指を切ったんだい? あの場面でキミが油断するとは思えないし、わざと切り落とさせたんだろう?」
確かに、後藤のナイフを避けようと思えば避けることも出来た。
しかし、入鹿は自らの小指を差し出すことに決めた。それは偏に、
「まぁ、ケジメですよ」
「ケジメ?」
入鹿は頬を掻きながら信孝の質問に質問をぶつけた。
「浜宮さんは、僕と伽耶ちゃんが付き合うのは別にいいって思ってるんですよね?」
「あぁ、伽耶が犬殺しを辞める。その為ならばどんなことをしてもいい。それが僕とキミが交わした契約だ。……まさか、付き合うことになったのか?」
「えぇ、まぁ。それでその……」
歯切れの悪い入鹿。しかし、それもそのはず。
今から口にするのは『娘さんとヤりました』宣言なのだから。
アレをカウントするのは非常に胸糞悪いが、行動と結果はセックスである。
入鹿は一度深呼吸すると、意を決して告げた。
「説得の時に、その……一線というやつを超えてしまいまして……」
刹那、ピシっと信孝の動きが止まる。
「……『一線』って、あれか。あの……所謂セックスか」
「……はい」
言葉に出されると罪悪感が湧く。
入鹿は壊れた機械人形のように首肯した。
「そうか……それは、無理やりしたのかい?」
「いえ」
「ちゃんと合意の上かい?」
「はい」
「責任の方は?」
「全力で取らせていただきます」
即答。それだけは迷わない。
信孝は頭を抱えて、溜息を吐き、それから入鹿の指を見て、もう一度ため息を吐いた。
「……なら、後は僕が口出しすることではない。その代わり、避妊だけはしっかりしろよ。デキ婚だけは許さないからね」
「は、はい」
そうこうしていると、何処からか車の音が近付いてきた。
車は校門前にでも停車したのだろう。
僅かにドアの開閉音が聞こえた後、グラウンドに一人の男が現れる。
その顔を、入鹿は知っていた。
三十代半ばと思しき彼は、いつぞや早朝に薊と共に入鹿の家を訪れた強面の男性警官だ。
彼は入鹿と後藤を一瞥してから、信孝に近づいた。そんな彼に信孝は笑みを浮かべて、
「やぁ、ようやく終わったよ」
告げる。
それは震えていた。先ほどまでは何ともなかったというのに、その警官が現れるや否や、涙声になった。
それを受けた警察官もまた、涙声で答える。
「よかった……っ、本当に、よかった……っ!」
彼の名前は倉坂。
かつて、監禁から解放された伽耶を発見した男性警官であり、三人目の協力者。
というより、元々は彼らの復讐だ。入鹿は部外者に過ぎない。
だからこそ、入鹿はそんな二人の様子をどこか遠い目で見届けた。
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