31 ピリオド――Ⅲ
骨が砕け、血が飛び散り、ナイフがグラウンドを滑る。ちょうど足元に来たそれを入鹿が確保。
「殺す」
「――あぁあああぁぁぁぁッ!!」
絶叫がこだまする。
一瞬見えた後藤の指は人差し指と中指があらぬ方向に折れ曲がっていて、彼女は痛みに耐えるように潰れた腕を抱えて背中を丸めた。
その様子は皮肉にも先ほどの入鹿と似た構図であり、しかし入鹿よりも滑稽で無様だった。
後藤は痛みに全身を震わせながらも、爛々と憤怒の焔が宿る瞳で、金属バットを持つ男性に目を向け、それと同時に困惑の表情を浮かべていた。
目は口程に物を言う。とはこのことだろう。『誰だ』という思いが見て取れる。
入鹿は後藤の視線を追い、バットを手にする男性を見た。
年齢は四十台半ば。目の下には気味の悪いくらいに隈が重なっており、頬は痩せこけ、お世辞にも健康とは言えないありさま。そして、鬼のような表情。
見知った男性の、見知らない姿。普段の温厚な表情を潜めた彼は、後藤を睨み、そして彼女の表情の意味を理解したらしい。
「お前も、僕を知らないのか……っ!」
怒りに震えた声。彼は腕の血管が浮き出るほどに金属バットを強く握りしめると、それを振り上げ、弱弱しい姿で彼を見上げる後藤へ振り下ろす。――寸前。その手を後ろから入鹿が掴んで制止させた。
「待ってください」
「止めるなッ! こいつは殺す! この場で殺す!」
「待って、まだ、聞かなきゃいけないことがあります」
「知るかッ! この女はっ、こいつらは揃いも揃って……ッ! 岸田の奴も覚えていなかった! あの糞も、この糞も! 嗚呼!! 嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ッッ!! こんなことがあって堪るか! 許されて堪るものか! こんな気持ちの悪い害獣が存在していいのか!? 否ッ! 答えは断じて否だ! 今すぐ殺す! もういい! もうどうでもいい! ただ無様にそこで死ねば、それでいい!!」
癇癪を起す子供の様だった。
事実そうなのだろう。
年を取る過程で得た常識も理性もすべて怒りの前で蒸発し、消滅している。
嫌いだから殴る。嫌いだから殺す。
ただそれだけの、単純明快な思考回路。
そんな彼を入鹿は必死に止める。
「よくない! それじゃあ何も分からない! あの時、伽耶ちゃんに何があったのか!」
「……っ!」
男性は入鹿の言葉を受けて動きを止め、殺意の籠った視線を後藤へ向けながら震える手をゆっくり下ろす。
余程悔しいのだろう。下唇を噛み切り、口の端から血が流れている。
後藤へ視線を向けると、彼女の表情は変わらない。男性の正体が分からずに、混乱し続けている。
これ以上待っても時間の無駄だろう。そう判断した入鹿は、背を丸める後藤を無理やり起こす。胸ぐらを掴み、自身にできる精いっぱいの軽蔑のまなざしを彼女に向ける。
「よく、考えろ」
「……?」
「伽耶ちゃんが誘拐された。その犯人に対してこうも怒りを向けられる人間なんて、この世にたった一人しか居ないに決まってる」
「…………だれ?」
その瞬間、入鹿の頭が真っ赤に染まる。
胸ぐらを掴む手が震え、せり上がってきた感情の暴流をとぼけた面の女に吠えた。
「そんなの、父親に決まってんだろうがッ!!」
後藤の目が見開かれる。
その視線は入鹿から男――浜宮信孝へ。
「ちち、おや……」
単純明快な浜宮伽耶との関係性。
目の前の男性が、浜宮伽耶の父親。
かつて、後藤と岸田が強盗に入った家の家主。
娘を誘拐され、金も失い、帰ってきた娘は犬殺しになっていた。
それが、浜宮信孝である。
後藤は理解する。理解して理解して、理解した。
そして、悟ったのだろう。彼の怒りは自分を殺すと。
彼女の表情が絶望に染まる。右手の痛みと、明確な殺意を伝えて来る男。その手には凶器が握りしめられていて、心の支えだった岸田文博は死んでいる。
「…………」
『心が折れた』とは、このことを言うのだろうと入鹿は思った。
後藤は何も語らない。誰も見ない、何も見ない。
自分勝手な後悔の後、現実から逃避している。
が、もちろんそんなことを彼は許さない。許せるはずがないのだ。
どこか遠い目をする後藤の脛を、信孝が金属バットで殴りつける。
「あぐぅうああああぁぁぁぁぁッ!」
獣のような雄叫びであった。
そこに平時の美しさは微塵も感じられない。
痛みで意識をはっきりさせた後藤は震える。
その身をガタガタと、まるで犯される直前の生娘のように震わせる。歯をカチカチと打ち鳴らす様は、先ほどまで入鹿を追い詰めていた人物と同じとはとても思えなかった。
「ご、ごめん、なぁ、さいぃ……」
震える涙声に、信孝が青筋を立てる。
しかし先ほどのように取り乱したりはしなかった。
彼は冷静に深呼吸する。入鹿の知る限り、ここまでの流れはほとんど岸田の時と変わらない。そしてその時は拷問の準備もしていたというのに怒りに任せて殴り殺してしまったらしい。
だからこそ、今度こそそれを行うのだろう。
信孝は後藤の前まで近付くと、膝を曲げて腰を下ろす。すると、懐からカード型のナイフを取り出した。
お世辞にも切れ味が良いとは言えないそれを後藤の肌にあてがう。
「あの時、お前たちは伽耶に何をした?」
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ、ごめん、なさいぃ……」
それを聞き、後藤は彼女のふくらはぎの皮を削いだ。
三度目の絶叫が響き渡る。
「謝罪など聞きたくない。もう、そんな時は過ぎた。今は憎しみをぶつけ合うだけだ」
「……っ」
冷徹な声音に、後藤の体の震えが加速する。
やがて彼女は唇を真っ青にして、ゆっくりと動かす。
「な、なんで、こんな……。違う、違うの」
「違う? 何が違う」
刃を突き立て、彼女の皮膚を軽く裂く。
真っ赤な血液がプクリと膨れて、刃を沿って流れた。
「わ、私じゃない。私は望まなかったの。でも、文博が、大丈夫、って」
「だから誘拐したのか?」
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙を流し、ぼそぼそ呟きながら額をグラウンドに押し付ける。ずりずりずりずり。額の皮がむけて血が大地に染み込む。
後藤は見るからにおかしくなっていた。
入鹿は彼女のことを詳しく知らないし、知ろうとも思わないが、おそらく岸田文博の死がそれに関係しているのだろう。
しかしこれ以上彼女について考えるのは無駄なことだ。
あの日、誘拐されていた七日の間に、彼女らが伽耶に何をしたのか。それを聞いたのならば、その時は――。
「お前たちは、何をした? どうして伽耶は、犬殺しになった?」
信孝は怒りを押し殺し、何とか絞り出す。
「それ、は……」
後藤は荒い息としゃくりを繰り返し、両の目から滂沱の涙をこぼしながら、
「文博が、犬殺しだったから」
真実を語った。
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