30 ピリオド――Ⅱ

 まったくもって現実とは理不尽だ。

 入鹿は今まで経験したことのない痛みを、歯を食いしばって耐える。


 脂汗が止まらない。痛い。辛い。気持ちが悪い。吐き気がする。強烈な痛みとはそれだけ単純に、苦しかった。けれど、ここで折れるわけにはいかない。


 痛いぐらいに鼓動を刻む心臓を騙し、大丈夫だと自分に言い聞かせ、入鹿は虚勢を張る。


「聞いてくれてありがとうございます。いやぁ、それにしてもいきなり切りかかって来るなんて、本当に驚きましたよ。おかげで……ほら、指が寂しいことになったじゃないですか」


 入鹿は痛みで震える左腕を前に突き出し指を広げる。親指、人差し指、中指、薬指、そして、第二関節より先が消失した小指。本日だけで左腕自体は骨折し、散々痛めつけられた挙句指ちょんぱ。世界はどれだけ左手が嫌いなのだろう。


 患部が外気に触れるが、寒さのおかげだろうか。徐々に痛みは麻痺していった。


「ごめんなさい。でも、抵抗するから」

「そりゃあしますよ。死ぬのは嫌ですから」


 飄々と言っているつもりであるが、その声は僅かに上ずっている。


「よかったら応急処置だけでもしてあげましょうか? 話の間、痛くて仕方がないでしょう?」

「あははっ、遠慮しますよ。死にたくはないですから」

「でしょうね、ジョークよ」


 全く笑えない。


「楽しそうですね」

「そう見えるかしら?」

「そうとしか見えませんよ」


 彼女の微笑を視認して、楽しんでいないと語る者などいないだろう。本当に楽しそうで、日常の一片で不意な出来事に笑ってしまったような。そんな印象すら抱く。


「うーん、そんなことは無いんだけど……まぁ、すっごく気持ちいいから、似たようなもんか」

「気持ちいいんですか?」

「ええ、とっても」

「どうして?」

「キミが嫌いだから」


 後藤は閑散とした雲一つない空を見上げる。


「ほら、誰しも一度くらいはさ『こいつ殺してぇなぁ』って、思ったことあるでしょ? ちょっかい掛けてきた同級生とか、説教をする小学校の先生とか、第一志望に通ったことを自慢してくる友達とか、セクハラしてくる教授とか、延々と自慢を続けるくだらない男とか、口臭いくせに話しかけて来る同僚とか――、ね?」

「一度じゃねえのかよ……。まぁ、無きにしも非ずって感じですけど。それにしてもやけに生々しいですね、特に後半」

「まぁ、事実だし」


 後藤は大きく息を吐く。


「大体、彼氏いるって言ってんのに『大丈夫』とか『関係ないよ』とか言って寄って来る奴って何考えているのかしらね。普通にあなたが嫌だと言っているだけなのにね。特に三井」


 思わぬところで担任の汚点を耳にしてしまった。全力で聞き流させていただく。


「まぁでも。そんなことも些細な事なのよ。我慢できる範囲だし」


 後藤は空から視線をずらすと入鹿を見つめ、淡々と言ってのけた。


「ただ、その彼氏を殺されたらさ、さすがに耐えられないわよね」

「それで僕を殺そうと?」

「自分から殺されに来たんでしょ?」

「まさか、確かに今日ここに先生を呼び出したのは僕です。ですが、殺しはしてません。それは、僕じゃあない」


 両手を上げて降参の構えを取りながら語る入鹿を、後藤は不審な目で睨みつける。


「そもそも、今回呼び出すにあたってきちんと要件は伝えたはずですよ?」

「要件……」


 そう、後藤をこの場に呼び出したのは入鹿自身。


 今からざっと一時間ほど前――即ち、伽耶が犬殺しになり入鹿を襲う、その直前。


 すべてを終わらせるために、入鹿は後藤に電話を掛けた。

 その内容である十年前の遺物を手にして。


「どうして先生たちは、十年前に伽耶ちゃんの左目をくり抜いたんですか?」


 十年前、伽耶を誘拐した犯人――後藤清美に電話を掛けたのだ。

 返って来るのは沈黙。後藤の双眸が狭まり、その顔から薄ら寒い笑みが消失する。


「そうねぇ」


 後藤はナイフを右手で弄びながら、当時を思い出す。


「まぁ、正直言うと私は分からないわ。くり抜いたのは文博だもの」


 岸田文博――それは、後藤が彼氏と言っていた人物で、連続殺人犯により殺害された被害者の一人。

 そして、十年前のもう一人の犯人。


「文博は死ぬ間際に何か言ってなかったの? 殺したんでしょ?」

「だからそれは僕じゃないと何度言えば分かるんですか」


 呆れたようにため息を吐く。


「じゃあどうしてキミが電話を掛けてきたのかしら? 愛しの彼女の処女を奪った私のダーリンをぶっ殺してやった宣言をかましたかった訳じゃないの?」


 殴ってやりたくなったが、何とかこらえる。


「違いますよ。僕は……まぁ、何というか、仲介役というか、呼び出し役というか」

「どういう……本当にキミが連続殺人の犯人じゃないの?」

「当たり前ですよ。というか、そのクズ野郎岸田が殺されたのって、平日の昼間のことですよね? 僕の場合、その時間は普通に学校に居るんですよねぇ」


 以前、薊は日中に殺された被害者も居た、と言っていたが、それは岸田のことだ。


「こっそり抜け出すとか、方法は沢山あるでしょう?」

「そんな怪しい事とするわけないって……」


 あんまりにも杜撰な推測に、思わず苦笑を漏らす。


 後藤はそれが気に入らなかったのか「――チッ」と舌打ち。彼女はコートのポケットに片手を突っ込み、ナイフを持つ手で眼鏡のブリッジを押し上げる。


「もういい。ていうか、どっちみち殺す予定だったし。何か知ってるみたいだけど、さっきから調子乗りすぎよ。榎本くん」


 その瞳は冷酷に煌めいている。


「指切られて半ベソかいてたけど、耳とか鼻を削ぎ落せば、キミはどんなリアクションをしてくれるのかしら。それとも――」


 後藤は意味深に言葉を区切ると、自身の左目を瞼の上から指さし、


「彼女とお揃いにしてから殺してあげようかしら?」


 不敵に笑った。その瞬間、入鹿の後方――グラウンドを取り囲む木々の間から人影が現れる。


 突然の闖入者はカラカラ音を出しながら月光の下に進み出て来た。入鹿の背後。校庭を取り囲む木々の影から低い声が二人の耳朶を打った。


「……殺す」


 底冷えするような重低音。

 木々の影より現れた男は、金属バットを手に鬼のような形相で後藤を睨みつけている。


 やがて、状況を理解出来ずにいる後藤の傍まで近寄ると、金属バットを振りかぶり、ナイフを持つ右腕を容赦躊躇いなく殴り潰した。

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