榎本くんのありふれない青春
29 ピリオド――Ⅰ
疲れて眠りこけた伽耶を、ベッドに寝かせて布団を掛ける。
この出来事を彼女は覚えているのだろうか。覚えてないと良いな。
入鹿の表情は、依然として歪んだまま。
しかし対照的に伽耶の表情は晴れやかで、長年のつきものが落ちたような。そんな印象を覚えた。
「ったく、最悪の初体験だ」
濁った感情をため息と共に吐き出す。デジタル時計に視線をやると、二時を十一分だけ過ぎていた。
つまり、伽耶と対峙してから一時間と少ししか経過していないと言うことだ。
濃密な一時間に辟易するべきか、一時間で解決できたと安堵すべきか。
何はともあれ左手が痛い。朝になったら病院へ駈け込もう。
そう、朝になったら。
入鹿は窓の外に視線をやる。
雲一つない快晴は、満月の明かりを直接届けてくれていた。おかげで星は見えにくいが、それでも綺麗な空だと言うのに躊躇いはない。
「はぁ、もう寝かせてくれぇ」
しばらく物思いにふけると、肩を回してスマホを手にする。
入鹿は慣れた手つきで番号を入力し、一言二言告げてから通話を切る。そのまま一度だけ伽耶に視線を移し、自身の頬を張った。
「よし、行くか」
気付かれない程度の声量で告げた後、入鹿は寝室を後にする。
服を着替えて適当なコートを羽織る。そういえば以前お気に入りを汚してから新しいのを買っていない。
これが終われば伽耶と買いに行くとしよう。
スマホと財布、後はカイロをポケットに入れて、転がりっぱなしのバットを手に持ち、部屋を後にする。
外側から鍵を閉めると、寒風が吹き荒ぶ廊下を進み、ほぅ、と息を吐いた。
ゆらゆら歩き、ふらふら進み。
すべてが終わる夜だと言うのに、入鹿の心は憂鬱だ。
それはもちろん、伽耶をおかしくさせた原因に対する怒り。
カラカラカラカラ。バットが音を立てる。
静かな世界に冷たい音を奏でる。
今夜、すべてが終わる。
十年前の事件も。連続殺人も。何もかも。
榎本入鹿の、ありふれない青春が、——終わる。
§
本日は綺麗な月夜だ。星が霞むほどの月光が、ひとつの人影を照らし出す。
人影は両手をポケットに押し込んで、辿り着いた建物を見上げていた。
それは人影が通う高等学校。騒音問題から周囲に住宅は無く、北区の中でも唯一田畑に囲まれている特異な場所だ。
人影は肺一杯に空気を取り込み、吐き出す。乾いた冬の空気が、喉の水分を奪っていった。
あらかじめ購入していた缶珈琲をポケットから取り出し、口に含む。カフェインが好きなのか珈琲が好きなのか。そんなことはもう分からないぐらいに、人影は珈琲をよく口にしていた。
中身を零さないように気を付けながら、肩ほどの高さしかない校門を飛び越える。
「……とと」
着地の際に僅かによろけたが、尻餅を着く様な事はない。両足で大地を踏みしめると、珈琲を一口。独特の苦みが心地良い。
時刻は深夜二時三十四分を指示していると言うのに、眠気は存在しなかった。やはり珈琲は良い。人類が生み出した最高の嗜好品に違いない。
人影はふらり、ふらりとした足取りで昇降口――ではなく、グラウンドへと続く道へ足を踏み出した。
冬の枯れた木々が道沿いに植えられており、草木も眠る丑三つ時も合わさって世界自体が死んでいるのではないかと錯覚しそうだ。
しばらく行くと道に砂が増えてきて、グラウンドに辿り着く。
日中ならば、そこは部活動に励む少年少女が走り抜ける場所。しかし夜ともなれば当然の如く静かで、同じ場所とは思えない程どんよりとした雰囲気が充満していた。
校庭は枯れ木で囲われていた。奥に野球のフェンス、端には片付けられたサッカーゴールがあり、陸上部が使ったと思われる消えかけの白線トラックがぐるっと一周描かれている。
人影は砂を踏みしめグラウンド内に侵入――せず、道を折れて、近くの校舎の壁に背を預けた。
そのすぐそばには校舎内に続く扉があり、そこを抜けると一階廊下に繋がっている。窓越しに付近の部屋のプレートを覗くと、人影には馴染み深い保健室の文字。
しかし人影が校舎内に侵入するようなことはない。入る必要もないし、そもそも鍵がかかっているので入ることすら出来ない。
校舎の壁にもたれかかり、缶珈琲を傾ける。残りをすべて口に含み嚥下すると、足元に空き缶を置いて、スマホを開く。その瞳はデジタル時計を反射して――、次の瞬間、足音。
グラウンドの木々の影。そこから砂が擦れる音を耳にする。
スマホをしまい、視線を上げる。明るい液晶を見ていたので一瞬だけ見え辛かったが、眩い月光がそれを緩和させる。
人影は双眸を細めて視線をやり、木々の隙間に誰かが居るのを確かにとらえる。
その影は、ジッとこちらを見つめて来る。出方を窺うように、ジッと、ジーっと見つめて来る。何度も言うが時刻は草木も眠る丑三つ時。こんな時間に無言で佇む影は、はっきり言って不気味以外の何物でもなかった。
けれど、人影はその影が何者なのか知っていた。知っていたから、身体の奥底から溢れ出す憤怒の情が抑えきれなくなった。
この人間を生かしておいてはいけない。殺さなければいけない。そうしなければ、怒りで自分自身がどうにかなってしまいそうだ。
腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ。
人影は、歩き出す。その影に向かって歩を進める。グラウンドの砂を踏みしめ、早鐘を打つ心臓を叱咤し、荒くなる息を大気に溶け込ませながら近付いた。
そして、その距離が十メートルを切ろうかという頃、ポケットからナイフを取り出す。
これで殺す。皮を剥ぎ取り、肉を削ぎ、苦しみと後悔の果てで無様に死ねばいい。
人を殺すのは初めてだが、問題はない。要は、動かなくなるまで刃を突き立てればいいだけの話なのだから。
はやる気持ちが足に出る。気が付くと、自身は走り出していた。走り出して、ナイフを振り上げ、刃がその首を捕える。――ことは無かった。
影は一歩二歩と後退り、攻撃を回避していたのだ。だから返す手でそいつを薙ぐ。すると虚を付けたのか確かな手ごたえ。
月光の下に鮮血が舞い、影の左小指を切断することに成功した。
「――あぁ、っぐぅ!!」
そいつは患部を庇う様に抱きしめて、さらに距離を取る。何か武器を取り出すかもと思ったが、どうやら何も持ってきていないらしい。哀れというか、無様というか。
人影は呆れたようにため息を吐き、ナイフを構え直す。次は仕留める。そう決意した瞬間のことだ。そいつは右手を突き出した。まるで、待ったをかけるかのように。
「ちょ、ちょっと待ってください。いきなり切りかかって来るなんて……。す、少しくらいはお話ししてもいいんじゃないですか?」
その口調は平素のものと、まったく変わらない。
飄々としていて掴み所がなく、のらりくらりと適当な言い訳で物事を回避し、常に大人を馬鹿にしたような雰囲気を醸し出している。
人影もまた、何度そいつに馬鹿にされたことか。
そんないつも通りの口調だからこそ、思わず止まってしまった。
「そうそう、お話ししましょう。ね、先生」
「その後死んでくれるなら、少しくらいは良いわよ。榎本くん」
そして、人影――後藤清美は榎本入鹿の言葉を受け入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます