28 哀するキミへの鎮魂歌。—破壊—

 激痛に叫びそうな喉を引き締めて、入鹿は伽耶に体当たり。伽耶は避けようとするが間に合わない。縺れ込むように倒れた。


 入鹿は右手でバットを奪い取ると、その後方――玄関の方へと放り投げる。バットはフローリングを傷つけながら転がり、上がり框から転がり落ちて停止した。


 これで余程油断しない限り伽耶が再度武器を手にすることは出来ず、そして入鹿はもう油断などしない。


 互いに見つめ合う。

 月明かりだけが二人を照らす。


「伽耶ちゃん」


 入鹿は呼び掛けた。それに意味があるとは思えなかったが、それ以外に方法も思いつかなかったからだ。


「……っ!」


 伽耶は身じろぐ。入鹿を退かそうと手足をばたつかせる。


 だがもう逃がすつもりはない。彼女の両手両足を完全に抑え込み、馬乗りの形で彼女を拘束する。


 そして考える。ストレスの原因――いや、もうそんなことを考えている余裕はない。


 とにかく今は現状の打開を考えろ。この場に置いての最悪は、伽耶が人を殺すこと。それ以外なら何でもセーフだ。


 伽耶の暴力を抑えるために今までやってきたことは、伽耶を満足させること。


 しかし伽耶の望みだと思っていた『交際』という現状に至ったところで、彼女は変わらず『犬殺し』となった。


 つまり交際は伽耶の望みではなかった、ということだ。

 ふと、そう言えば伽耶の抵抗が弱まっているのに気付いた。


 視線を向けると、彼女の揺れ動く瞳と結び合う。


「……」

「……」


 互いに無言で見つめ合う。

 そうしていると、伽耶は一切の抵抗を見せなかった。

 一切の抵抗を見せず……試しに入鹿は彼女の手を握る。


「……っ」


 すると、今度はあろうことかうっすらと笑みさえ浮かべた。

 安心しているような、悲しんでいるような、怯えているような。


 入鹿はその笑顔を、どこかで見たことがあった。


 それは、普通に話しているときでは絶対に浮かべない笑顔。

 入鹿と交際がスタートした際のそれともまったく別種の笑顔。


 それは、犬殺しの彼女が、バットを振るっている時と同じ、歪な笑顔。


 ふと、入鹿の脳裏に先ほど交わした言葉が再生される。


『訳わかんないけど気が付いたらカッとして、入鹿に暴力振るうし、夜になったら外に居て、犬殺してるし、とっても気持ち悪いのに、見るのも嫌なはずなのに、殺せば心がスッとして、頭か真っ白になって、とっても気持ちよくなる。入鹿と一緒に居るのと同じぐらい気持ちよくなる』


 暴力を振るって犬を殺せば気持ちよくなる。一緒に居るのと同じくらい気持ちよくなる。


 それは言い換えれば、


 ——『一緒に居ることは暴力を振るったり、犬を殺すのと同じくらいに気持ちがいい』


 と、いうことなのではないのだろうか。


 ならば――、と入鹿はさらに記憶を掘り返す。


 伽耶が不安定になった時、入鹿はずっと伽耶に愛を囁いた。安心させる言葉を囁いてきた。


 それは階段から突き落とされた卵焼きの一件の時も同じ。

 伽耶ちゃんは悪くない、悪いのは全部僕だ。要はそんなことを入鹿は何度も何度も、何度も何度も何度も何度も囁いてきた。


 ――彼女の手を、握りながら。


 犬殺しが終わった後も、彼女は手を握ったり、抱擁を求めてきたり。

 いつだって彼女を慰める時、入鹿は伽耶に肉体的に接触してきた。


 無意識だった。無意識で、入鹿は伽耶に触れていた。

 けれど、その無意識こそが、伽耶の本当に求めていたものなのでは?


 気分が落ち込んでいくのを自覚する。

 そうだ、思い返せばずっとそうだ。

 伽耶はいつもいつもずっとずっと、肉体的接触ばかりを望んできた。


 そうじゃないか。どうして、気付かなかった。

 今朝だって、さっきだって、伽耶は言っていた。


『私と、せっくすしよ』


 と。


『私、わかんないんだ。わかんない。でも入鹿とせっくすしたい。ぐちゃぐちゃだから、もっとぐちゃぐちゃになりたいから、せっくすがしたいの。入鹿、入鹿、いるかぁ……』


 伽耶は本心を口にしていた。


『いいじゃん、嫌なの? 入鹿は私のこと好きなんでしょ。いいよ、好きにしていいよ。好きにしてよ。一緒に居てよ。何してもいいから、何でもするから。お願いだから。一生のお願いだから――、私とせっくすしよ?』


 そもそも交際関係など、必要なかった。

 愛だの恋だの。

 そんなものは必要ない。

 入鹿の思いなど関係ない。

 ただ肉体的接触が、犬殺し同様に気持ちがいい。

 だから、それでいい。


 それで――代用できる。


 伽耶は、そう言いたかったのではないか?


「…………」


 嫌な気分だ。

 最悪の気分だ。

 これほどまでに、不快に感じたことはないかもしれない。嘘、在る。

『あの時』と同じくらいに気持ちが悪い。


「伽耶ちゃん」


 その名を呼び、入鹿は自重を支えていた腕の力を抜き、全身を伽耶と密着させる。


「……あっ、んぅ」


 嬉しそうな声が返って来る。

 入鹿は身体を密着させただけなのに、伽耶の腕が背中に回される。

 頬を押し付けてきて、猫のようにすりすり。


 ――嗚呼、伽耶ちゃん。


 絶望とは、こんな気分なのだろうか。

 否、別に絶望すべきことなんて何もない。

 これに応えることで伽耶は犬殺しを辞められるのだから。


 だから、悪い事ではない。


 何も悪くない。伽耶は相も変わらず悪くない。大丈夫、悪くない。


 ただ、入鹿の救いが伽耶の救いではなく、伽耶の救いが、絶望的に薄汚いだけなのだ。


「伽耶ちゃん」


 再度名前を呼ぶ。

 伽耶が見つめ返してくる。

 顔が近付き、互いの鼻息がぶつかり合う中、唇を重ねた。

 大丈夫、伽耶ちゃんは悪くない。


 悪いのは――。

 悪人なのは――。

 クズ人間なのは――。


 あいつだ。あいつらだ。あのふたりだ。


 入鹿は伽耶のパジャマのボタンを外す。寝る時はノーブラなのだろう。そのすぐ下には豊満な乳房。綺麗な肌。誘拐当時は酷い痣だらけと聞いていたが今はそんなことはない。


 神様が作り出した石像すら跪き、自壊を選択するほどの美しさだ。

 その神域を入鹿は侵し、犯す。


 伽耶が嬌声を上げる。甘ったるい声が脳を反芻する。

 その度に胸中に苛立ちが込み上げてくる。


 そんな自分に気が付くと、単純に驚いた。自分で自分に驚愕した。

 伽耶の為に怒っている。

 伽耶のねじを抉り取った人物に、怒っている。


 こんな感情――、××以外に抱くなんて、驚きだ。


 それは良い事なのか、悪い事なのか。

 分からない。分からないけれど、そもそもどうでもいい。

 何が良い事なのか、悪い事なのか。そんなのはもう、どうでもいいのだ。

 ただただ不快。不愉快。伽耶を誘拐した人間は、死ねばいい。


 そして――そんなことを考えながら彼女を犯す自分も、死ねばいい。


 伽耶が満足するまで、入鹿はその芸術品を壊し続けた――。

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