28 哀するキミへの鎮魂歌。—狂騒—

 依然として、入鹿の中に伽耶への恋心は欠片も存在していなかった。


 伽耶に接近したのも、伽耶に愛を囁いたのも、すべて犬殺しを辞めさせるため。つまり、先ほど並べ立てた言葉もすべて、真っ赤な嘘だと言うことだ。


 けれど、そうして並べた嘘の責任は取るつもりでいた。


 伽耶に付き合うと言ったのなら、彼女が嫌になるまで付き合うし、伽耶に好きだと言ったのなら、伽耶を心から好きになる。


 もし結婚して欲しいと頼まれたのなら、入鹿は彼女にその人生を喜んで捧げるだろう。今は出来なくても、必ずそうする。


 それが、今まで騙し、嘘を吐いてきた入鹿の贖罪である。


「約束通り止めるから」


 状況は単純。犬殺しが目覚めた。


 そう、ただそれだけだ。今まで何度もその姿を見てきた。


 幽鬼の如くふらふら歩き、虚ろな目をしてバットを薙ぐ。獣の首を刈り取り、腹を破裂させ、腹綿を引きずり出して、摺り潰す。


 そうして冷たい肉塊の上で哄笑を上げる。それが、犬殺し。

 大丈夫、大丈夫。何も怖いことなどない。


 浜宮伽耶は犬殺し。ただ、それだけだ。


 入鹿は気分を奮起させると、伽耶に近付きその手を取って引きとどめる。


「伽耶ちゃん、落ち着いて!」


 高校生の男女。当然力は入鹿の方が上だ。このまま落ち着くまで力づくにでも押さえ付ければいい。普段の彼女に暴力を振るうことなどありえないが、今は非常事態だ。


 入鹿はそのまま手を引き、ソファーの方へ彼女を押し倒す。

 先ほどと立場が入れ替わった形だ。


「……っ」


 これで終わり。そう思ったのも束の間。伽耶は身をよじって脱出しようとする。しかしそれが無理だと分かった瞬間、入鹿の顎に頭突きを放った。


「あがっ」


 その衝撃に一瞬力が抜ける。それは僅かな隙であった。しかし犬殺しは見逃さない。


 身体を下から蹴飛ばされ、微かな浮遊感が身を襲い、気が付いた時には全身を床に打ち付けていた。肺の空気が一気に抜けて、目が白黒する。


 慌てて起き上がるころには伽耶は玄関の方へ向かって歩いていた。


「……っ、くそ」


 特に強く打ち付けた腰に手を当てながらその背を追う。


 入鹿が追いついた時には、伽耶は傘立てに刺さっていた金属バットの柄を握りしめていた。

 あとは玄関のドアを開けて夜の町へ徘徊しに向かうだけ。


 外では見失う可能性もある上に、薊のように夜中にパトロールしている普通の警官も居る。


 そのため、出来ることなら家の中だけで終わらせたい。

 慌てて駆け寄り、彼女を後ろから抱き留めようとして――刹那、空気が震える。


 耳元を何かが撫でて、入鹿の足先数センチのフローリングに激突する。


「……は?」


 生唾を飲み込む。

 言いようのない感情が腹の底から這い上がって来る。

 ふざけるのもいい加減にしてくれ、と神に向かって唾を吐きたい。


 伽耶は――犬殺しじゃないのか?


 入鹿の足元を破壊したのは彼女が手に持つ黒々とした鉄の塊。

 それが容赦躊躇いなく、入鹿に向かって振るわれたのである。


 ――世界はどれだけ、伽耶ちゃんが嫌いなんだ。


 昏い瞳と視線を交わらせ、入鹿は静かにそう思った。


 バットを薙ぐ伽耶の表情は冷たい。犬を殺す時の目と全く同じである。

 その目が今は入鹿に向いている。


 状況を理解するのと、伽耶が次に行動を起こしたのはほぼ同時――否、伽耶の方が数瞬早かった。


 伽耶は入鹿の顎をかち上げようとばかりに勢いよく振りかぶる。それを咄嗟に左腕で押さえつけようとするも、込められた勢いは殺しきれず、結果的に左腕を強く殴りつけられる形になった。


 しかし、それでもいい。ガードが無ければ今頃犬と同じくコロコロされていただろう。

 コロコロなんて漫画雑誌で十分だ。


 バランスを崩し尻餅を着いた入鹿は、そのまま後退って洗面所に入り、扉を閉める。


 そうして、伽耶がどう動くのかドアに耳を当てて確かめる。玄関のドアを開ける音がすれば追いかけながら策を練り、もし入鹿に執着するようなら、この場で籠城し策を練る。


 いや、策を練るばかりでは駄目だ。それでは現状を維持するだけなのだから。

 つまり、今するべきことは――。


「ストレスの、究明……」


 呟くと同時に、――ガンッ!! と音と衝撃。どうやら伽耶は、入鹿を殺すことを優先するらしい。


「くそっ」


 悪態をつきながら、頭を働かせる。


 先ほど伽耶に殴られた左腕が、今すぐ病院行こうぜとささやきかけて来るのを必死に無視して考える。


 伽耶は何故、犬殺しになったのか。否、何が原因で犬殺しになるのか。


 しかし考えど、そう都合よく答えが出て来るはずがない。そんな簡単に分かったらここまで苦労していないし、左腕は悲鳴を上げていないのだから。


 ――そういえば。


 入鹿は浴室のドアに鍵を掛け、洗濯機に放り込んでいたシャツを引っ張り出す。


 それは今日の昼間、結良と会うために着替えてきたものだ。

 ガサゴソと胸ポケットに手を突っ込み――果たして、それは確かに存在した。


 入鹿が手にしたのは一枚のメモ用紙。そこには結良に羅列してもらった『ストレスに感じるもの』がずらっと並んでいる。


「ありがてぇ」


 メモ用紙を開いて、その中身に目を通す。ストレスを感じること、転じて怒りを感じることが主にそこには記されていた。上から順に目を通す。


 ・浮気されたとき。

 ・友達が自分以外を優先したとき。

 ・誰かに怒られたとき。

 ・生理の時。

 ・不安なとき。

 ・自分の行動が失敗だったなと思ったとき。


 他にも確かにと思える内容がずらり。その中で一際入鹿の目を引いたのがあった。


 ・相手が、嘘を吐いていると分かったとき。


 頭が真っ白になるのを感じる。嘘をついている、嘘を吐いている。嘘つき、嘘吐き。


 当然の内容のはずだ。


 誰しも嘘を吐かれていると分かって喜ぶ人間などいない。普通怒るし、そうでなくても気分は良くない。入鹿だってそうだ。嘘を吐く人間が大嫌いだし、真実を隠す人間はもっと嫌いだ。


 だからこそ、その一文が脳裏に張り付いて離れない。

 入鹿が伽耶に対して吐いている嘘。


 つまりは、伽耶と接してきた三ヶ月間そのもの。


 嘘と虚実に塗り固められた歪んだ現実。

 伽耶は、それが嫌だから犬殺しになった?

 入鹿の思考が渦となる。ぐるぐるぐるぐる回っている。堂々巡り。出口の存在しない奈落。


 ――だからこそ、もう脱出方法は知っている。


 入鹿は思考を断ち切る。強制的に切断し――俯瞰する。


 俯瞰俯瞰俯瞰。現状を俯瞰する。すると、見えて来るのは先ほどの思考の粗。


 まず伽耶の犬殺しは入鹿と出会うよりも前から続いている。つまりは入鹿が強く関係しているというわけではない。普通に生活を送る上で、必ず経験する何か。それがストレスの原因になっているはずだ。


 それが、今日も起こった。入鹿と恋人になった今日も、発生したのだ。

 それはいったい何なのか。分からない。分からない。入鹿には分からない。

 今の今まで、伽耶以外のことを考え続けてきた入鹿は、何も分からない。


 分からないけれど、分からないからと逃げるわけにはいかなかった。


 入鹿は考えて――ふと気付く。

 ドアの外から物音が消えているということに。


「まずっ――」


 玄関の外に向かったのかもしれない。


 分かるや否や、引っ張り出したシャツを左手に巻いて緩衝材にしてから鍵を開けて洗面所から飛び出す。リビングの電気は消えていた。部屋をうっすらと照らすのは洗面所の電機と月明かりだけ。


 玄関の方へ視線を向ける。しかし、玄関の戸は閉まっていた。もちろん鍵もチェーンもしっかりかかっている。


 手品師でもない限り、扉の外からそれらを成し遂げるのは不可能。

 つまりは、


「――っ!!」


 振り返ると同時、洗面所のドアが閉じられ、月明かりだけが唯一部屋を照らす光源になる。驚く入鹿は、しかし暗闇の中で何かが動くのを鋭敏に察知した。


 それは上段から振り下ろされた金属バット。


 そう。伽耶は外になど出ていなかった。ただ物音を立てずに身を潜め、入鹿を誘き出したのだ。

 彼女は理性を持って思考をし、明確な殺意を持って入鹿を殺そうとしている。


 避けるのは間に合わない。流すには勢いが付きすぎている。


 入鹿は逡巡し、左腕をバットに対し垂直に構えて、真正面から受け止めた。

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