26 —過去2—

《九月十七日》


「浜宮さんおはよう。昨日は急にあんなこと言っちゃってごめん。キモかったよね?」


 入鹿の言葉に、伽耶は右目を大きく見開いた。

 何故、話しかけて来たのか理解できないという表情だ。


「……」

「あー、えっと……浜宮さん?」


 無言の彼女に入鹿は困り顔で頬を掻く。


「……んで?」

「え?」


 聞こえなくて聞き返した瞬間――鼻っ柱に激痛。

 一限目すら始まっていない朝、入鹿は鼻血を出して地面に倒れ伏した。

 その光景を見ていた他の生徒たちは、馬鹿を見る目で見つめていた。


《九月十八日》


「浜宮さんおはよう。――ぐへっ」


《九月十九日》


「今日も暑いね――ぐべっ」


《九月二十日》


「おーい。おは――ふがっ」


 結局、その一週間。入鹿は一度として伽耶から右ストレート以外のレスポンスを貰うことは出来なかった。最初は面白がっていた周囲も、気付けば飽きており、「浜宮さんが可哀想」や「あれはキモすぎ」といった声が散見されるようになっていた。


 しかし土日を挟み、さすがに頭が冷えてもうその光景を見ることはないだろう。と誰もが考えていた。――入鹿を除いて。


 あくる月曜日。


 入鹿は接触方法を変えてみた。つまりは、放課後にお話を試みたのだ。

 ようやく気温が落ち着いてきた放課後、入鹿は校舎から出て来る伽耶を見つける。


「こんにちは、浜宮さん。今帰り?」

「……」


 返って来るのはいつも通りの無言&パンチ……ではなかった。


 伽耶は入鹿を見つけると、大きな右目を見開く。

 そこには明確な憤りと、少しの混乱が窺えた。


「どうして、ですか?」


 どうして。何に対する言葉なのかは明白。

 どうして言葉を掛け続けて来るのか、という意味だ。


「最初にも言った通り、好きだから」

「……変態なんですか?」


 その質問に思わず苦笑。

 まさか当の本人から言われるとは思いもしなかった。


「いや、好きだから耐えられるだけ」


 嘘である。本当は、彼女がねじを落としていることを知っているから、許容しているだけ。


 入鹿は伽耶に対して好意を抱いていない。


 ひと欠片も、その胸中には存在しない。誰の存在も介在する余地のないほどに、そこは埋まりきっていたから。


 だから、すべてが出まかせ。

 しかし、それを受けた伽耶の表情が僅かに変わった。


「……名前」

「ん?」

「お名前、なんていうんですか?」


 態度が急変したことを不審に思いつつも、入鹿は応える。


「最初会った時にも一応言ったんだけど……改めて。一年三組、榎本入鹿です。趣味は散歩で、好きなものは珈琲です」


 合コンで口にしたなら速攻で相手にされなさそうな自己紹介文を並べ立てる入鹿。

 当然、伽耶も入鹿の趣味嗜好には一切興味を示さず、唯一食いついたのは、


「……いるか? うみぶた?」


 入鹿→いるか→イルカ→海豚。

 そんな変換過程が容易に想像できる。


「入るに鹿で入鹿です」


 納得したように頷いた伽耶は、入鹿に倣って口を開く。


「浜宮、伽耶です。趣味は無くて、好きなものは……新喜劇」


 まさか返してくれるとは思わなかった。しかしそれ以上に、


「…………え、新喜劇!? って、アレだよね? 休日のお昼にやってる……」

「……うん」


 意外どころの話じゃない。

 暴力魔女にして犬殺しの彼女が、まさかのお笑い趣味。

 悪い事ではない、悪い事ではないが……。


 反応に困った入鹿はとりあえず、ツッコミを入れてみた。


「な、なんでやねんっ」

「うーん、よくわかんないタイミングでのツッコミはNG」


 中々辛辣である。

 しかし次の日から、伽耶と話すようになった。

 たびたび暴力を振るわれるが、分かっているので許容できる。


 もちろん痛い物は痛いが。


 日々増えていく青あざに、観月が気付いて騒ぎ立てた時はどうしようかと思った。


「最近DV気質の友達が出来たんだ」

「そ、そっかぁ~」


 悲し気な視線で見られ、気まずくて逸らす。

 そんな日々を経て、入鹿は伽耶と距離を縮めていった。


 ある程度話せるようになったら、偶然を装い犬殺しの場面に遭遇する。


 それでも許容することで、さらに彼女の心の奥へと侵入する。

 例えそれがどれだけ、どろどろでぐしゃぐしゃで深い闇に覆われていたとしても。

 入鹿は引き返せない。引き返すことは許されない。


 そうして、短くも長い三ヶ月がようやく終わった。

 そう、思っていたのに――。

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