24 哀するキミへの鎮魂歌。—交際—
伽耶が見つめて来る。その右目には大粒の涙が溜まっていた。
必死に決壊するのを堪えるように、彼女は声を震わせながら、感情の吐露を続ける。
「嫌なわけ、無いじゃん。だって、だってさ、入鹿は、ずっとずっと離れなかった。どれだけ私がおかしくなっても、入鹿は許してくれた。こんな人、他にはいない。入鹿だけだった。入鹿だけが分かってくれた。理解してくれた。私を好きだって、言い続けてくれた」
胸に手を当てて、堪えていたものを吐き出す。
「嫌なわけないじゃん! だって、私も入鹿が好きだもん! 好き、好きに決まってる! 分かんないとか嘘。分かってる。自分の気持ちくらい分かってる。寝ても覚めても入鹿のことしか考えてないし、授業受けてる時も、家に帰ってお風呂に入ってる時も入鹿を考えてる。どうすれば一緒に居てくれるかなとか、どうすればもっと仲良くなれるかなとか、そんなことばっか考えてる! こんな私と一緒に居てくれる人は、この人しかいないって、ずっと妄想してる!」
「だったら何で――ッ!」
「こんな私だからじゃん!」
慟哭。
伽耶は肩で息をして、その場にぺたんと座り込むと、両手で顔を覆う。
「おかしいじゃん! 私頭おかしいじゃん!!」
それは、どうしたらいいのか分からない、迷子の子供のように見えた。
いや、実際彼女は迷子なのかもしれない。ずっとずっと昔から。
迷子は、泣き声を上げる。
「訳わかんないけど気が付いたらカッとして、入鹿に暴力振るうし、夜になったら外に居て、犬殺してるし、とっても気持ち悪いのに、見るのも嫌なはずなのに、殺せば心がスッとして、頭が真っ白になって、とっても気持ちよくなる。入鹿と一緒に居るのと同じぐらい気持ちよくなる」
言葉を区切ると、伽耶は大きく息を吸い、告げた。
「だから、付き合うことはできない。私にそんな資格、無いから」
入鹿は驚いていた。
彼女が、ここまで自身を客観視していたことに。
犬殺しの度に後悔している姿は知っていた。自身に暴力を振るうたびにごめんなさいと謝ってくれているのも知っていた。
しかしここまでとは想像の埒外である。それだけ伽耶も悩んでいたということなのだろう。
冷たいフローリングの上、女の子座りの伽耶は酷く脆く見える。触れるだけで粉々に砕けてしまい、もう元には戻らないような、そんな気さえする。
そしてそれは、何処までも。ごくごく普通の女の子の姿でもあった。
伽耶は壊れているわけではなく、悩んでいたのだ。ずっと、ずっと悩んでいたのだ。情緒不安定になるほどに、言動が支離滅裂になるほどに。
病んでしまうほどに、悩んでいた。
ねじを落としてしまい、人とずれてしまった自分のことを――。
入鹿は膝を曲げて腰を落とす。伽耶同様にフローリングに座り込むと、伽耶の頭に手を伸ばし、壊れてしまいそうな彼女に、触れた。
「伽耶ちゃん」
「……」
返事はない。すすり泣く様な声だけが、響く。
「伽耶ちゃんも、考えてくれていたんだね」
「……」
「その上で言う。――僕は伽耶ちゃんが好きだ。付き合ってほしい」
伽耶の肩が揺れる。
「……だめ」
「だめじゃない」
即答する。
「だめ」
「だめじゃないって」
「だめなの」
何処まで行っても平行線。それに気付いたのか、伽耶は手で覆ったまま少しだけ顔を上げた。
「入鹿は、後悔するに決まってる」
「しないよ。絶対しない」
「だって私、すぐ怒るし」
「知ってる。もう慣れた」
「すぐ手が出るし」
「それも知ってる。もちろん慣れた」
「……偶におかしくなって、犬とか殺すし」
「大丈夫、もう殺させない」
「……無理だって」
僅かな間を、入鹿は見逃さなかった。
「無理じゃない。もし伽耶ちゃんがまた犬を殺しに行きそうになったら、僕が止める。全力で止める」
今までは、止めることがストレスになると思っていた。殺害衝動に至るほどのストレスを溜め込ませると何が起こるかわからなかったから。
だから、いつも犬殺しが終わった後のケアばかり、入鹿は行ってきたのだ。
しかし、先ほど彼女の口から述べられたのは、犬殺しに対する深い後悔と止められない自身への嫌悪の言葉。
そうとなれば、入鹿にはそれを応援して殺させないように手助けする以外、選択肢はない。
ずっと止めさせたいと思っていた犬殺しを、彼女自身も止めたいと望んでいたのだから。
不意に、結良に言われた言葉を思い出す。
『ちなみに、本人に聞いたりはしてないの?』
それはストレスの原因についての話であったが、それ以上に、伽耶自身は犬殺しをどうしたかったのか。
それを直接聞いて居れば、こうまで回り道をする必要もなかったのだ。
……いや、少し考えれば分かるはずだった。入鹿が今のように伽耶に対して真剣になっていれば、気付けたことだった。
ここまで遅れたのはすべて、単純に伽耶のことを見ていなかっただけなのだ。本人の協力が得られたのなら、ストレスの原因を突き止めるのも幾分か楽になると言うのに。
胸中に後悔の念が去来する。
けれど、今はそれに縛られるわけにはいかない。
後悔も懺悔も、すべて後回し。
今重要なのは、伽耶と向き合うこと。
「伽耶ちゃん」
入鹿はそっと、彼女の手首を掴み、顔を覆っていた手を退かす。
「……」
右目が赤くはれ、涙と鼻水でお世辞にも可愛いとは言えない。
でも、そんなことは関係ない。
伏せ目がちの顔を上げ、視線を交わらせ、
「伽耶ちゃん、好きだ」
告白する。何度でも、何度でも。
「……めて」
「好きだ」
「…………やめてよぉ」
伽耶はぽろぽろと涙をこぼす。
「伽耶ちゃん。僕はキミが好きだ。浜宮伽耶が大好きだ」
「やめて、やめてやめてやめてぇ……っ。私、おかしいからだめなのぉ……」
言い訳を連ねる伽耶に、入鹿はついに怒鳴った。
「そんなの知らない! 言い訳なんか、聞きたくない!」
「……ッ!」
「伽耶ちゃん、僕はキミの答えが聞きたいんだ。それ以外は、必要ないし、どうでもいい」
入鹿は「だって」と挟み、
「伽耶ちゃんの問題は、僕が全部解決する。怒りやすいのも、手が出やすいのも、もちろん、犬殺しのことも、全部だ! だから……答えだけを聞かせてくれないかな?」
優しい声音で、語り掛ける。迷子の少女に、手を伸ばす。
ゆらゆら揺れる黒い隻眼。ぱくぱくと唇が動く。しかしそれは音とならず、僅かな呼気が漏れ出るだけ。
入鹿は待つ。手は伸ばした。あとは伽耶がそれを掴むかどうか。
伽耶が手を伸ばす。入鹿の手に触れる。指をなぞり、恋人繋ぎへ。
同時に、伽耶の瞳は入鹿の顔をまっすぐ見たまま定まった。
「…………すき」
「僕も」
「後悔、しない?」
「すると思う?」
「……うん」
「そっか。じゃあまずは、そんなこと思わせないように頑張ろうかな」
格好をつけると、長い空白。
滑ったかな? と冷や汗。
しかし、彼女の瞳は入鹿を見つめたまま。やがて、ゆっくりと唇が動き、
「…………ほんとに、いいの?」
最終確認。考えるまでもない。
「それはこっちが言いたいぐらいのセリフかな。――伽耶ちゃん、僕と付き合ってください」
再三に渡る告白は、
「……私でよければ、喜んで」
ようやく、彼女に届いた。
「やったぁ……っ!」
ガッツポーズする入鹿、はにかむ伽耶。
その笑顔はやはり、彼女の体液でべとべとである。
しかし、今まで見てきた笑顔の中で、一番に可愛いと、そう思った。
入鹿は伽耶を強く抱きしめる。
「もう、喜びすぎ。苦しい」
「ごめん、でも嬉しくて」
伽耶の華奢な背中に手を回す。
すると伽耶もおずおずと、入鹿に応えるように手を回してきた。
互いの温もりを感じる。心音が、息遣いが、腕に込められる力が、そのありとあらゆるものすべてが、互いに安らぎを与え合う。
「入鹿、すき」
「うん」
「すきすき」
「ありがと、僕も好きだよ」
二人はしばらく抱きしめ合った。
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