22 哀するキミへの鎮魂歌。—誘惑—
「……じゃあ、しよっか」
それぞれ入浴も済まし、時計の針が夜十時を過ぎた頃。
並んでソファーに腰掛けテレビを見ていると、伽耶が言った。
声に反応して彼女へ視線を向けると、息を荒くした伽耶が入鹿をじっと見つめている。
「ゴム、あるよね?」
「……うん」
コクリと首肯して、肩掛けポーチから箱を取り出して見せる。すると、それを確認した伽耶は入鹿をソファーへ押し倒し、その胸へ鼻先を埋めた。
「すー、はー」
呼気の温もりが服に染み込むのがくすぐったい。同じシャンプーを使ったはずなのに、とても良い匂いが彼女の頭部から香る。惜しげもなく押し付けられる胸はぐにぐにと形を変えて、脳が沸騰しそうだ。
「く、くすぐったいんだけど……」
「えー、いいじゃん。我慢してよぉ」
ぎぅぎぅ、ぐりぐり。
甘えるように抱き着いてくるその様は、犬殺しの後の姿に似ている。
と言っても、ここまで露骨な態度ではないが。
「同じ匂いするね」
「同じボディーソープ使ってるからね」
「……今度、一緒に入る?」
「嫌だったんじゃないの?」
意地悪く返すと、伽耶は顔を上げて頬を膨らませた。
「……馬鹿」
子供か。心の中でツッコミを入れる。
無言の入鹿だったが、伽耶は特に気にした様子を見せず、再度顔を胸に押し付けて来た。
同じ年の女子。それも学内でも頭一つ飛びぬけた美少女であり、官能的な肉体の持ち主。入鹿の感情ではなく、本能が今すぐその肉体を貪りたいと訴えかけてくる。
一昨日なら一切抱かなかった感情が、沸々と煮えたぎってくる。
「……」
このまま本能に任せて、肉欲に溺れたい。
それはとても気持ちのいい事だろう。
入鹿は童貞であるため、その快楽のほどを測るすべはない。
しかし、物理的な問題ではなく、精神的な問題として、彼女と溺れてしまうのは、ぬるま湯につかるように享楽的に違いないだろうことだけは、確信していた。
ゆえに、それはできない。
肉欲に溺れるということは、問題解決からの逃避以外の何物でもないからだ。
入鹿は意識をしっかりと持ち、伽耶の肩に手を宛がう。
「伽耶ちゃん」
声を掛けると、彼女は顔を上げた。
眼帯は外してある。縫われた左目が露出している。だけどそれだけ。彼女の容姿は整っていて、そんなデメリットをものともしない程に美しく、完成されているのだから。
だから入鹿は、縫われた左目に視線を向けることも無く、伽耶を見つめる。
視線が交差し、混じり合い――伽耶は「ん……」と目を閉じて、顎をしゃくった。
桜色の唇が押し出されたそれは、所謂キス待ちというやつだ。
けれど、入鹿は応えない。応えずに、言葉を放つ。
「伽耶ちゃん」
「……むぅ、な、何よ」
さすがに恥ずかしかったのか視線を逸らす伽耶。
そんな彼女に向かって、一瞬躊躇しつつも尋ねた。
「伽耶ちゃんは、僕が好きなの?」
伽耶の動きが止まる。表情が消失し、照れも何も存在しない能面の如き表情になる。
しかしそれも刹那の間のこと。すぐに彼女は見つめ返して――そのまま入鹿の唇を奪った。
「んぐっ――」
唇を割って伽耶の舌が口内に侵入する。生暖かい軟体動物の様なそれは入鹿の口腔を這いまわり、舌に絡みついた。
伽耶の鼻息は荒く、見開いた眼は入鹿から片時も逸らされない。
ワンテンポ遅れて状況を理解し、彼女の肩を押さえていた手に力を入れて、引き離す。
二人の間に唾液の橋が架かり、途切れる。
「……はぁ、はぁ。ま、待って伽耶ちゃん」
「そう言う話はあとでいいよ」
そう言って、無理やり口をふさがれる。
「ん、んむ!」
柔らかいし、良い匂いを無理やり吸わされるし、エロいし……って、そうじゃない。
「お願いだから、ほんと!」
忘れていた呼吸を再開しつつ、彼女に進言する。と同時。
「五月蠅いなぁ!」
怒気を多分に含んだ声色が、入鹿に向かって放たれる。
出会って当初ならいざ知らず、ここ数ヶ月に渡っては一度として口にされることのなかった声色に、心臓が締め付けられる感覚に陥った。
「お、落ち着い――」
「五月蠅い……五月蠅い五月蠅い……!」
伽耶は拳を振りかぶり、入鹿の頬を殴りつけた。
馬乗りになられている都合上、それを回避することは不可能。
慌てて両手でガード。彼女の殴打が腕越しに響く。
「何で……何でッ! 黙っててくれたらいいじゃんッ!」
殴打。殴打殴打殴打。ガードする入鹿に向かって、怒りを爆発させる伽耶。入鹿はただただ耐えるしかない。別にこんなことは珍しい事ではない。
伽耶と一緒に過ごした約三ヶ月の中で、何度も経験したことである。そういう時は一方的に殴らせ続けて、ストレスをすべて発散させる以外に方法はないのだ。
しばらく経って殴打が終わったかと思うと、伽耶は入鹿の両腕を無理やり引きはがす。
「伽耶ちゃ――んぐ」
かと思うと、再度唇を押し付けてくる。
貪るように押し付けられ、舌が侵入し、唾液を直接流し込まれる。
正直、不快に感じるが、表情には決して出さない。出せるはずがない。今この場で彼女を拒絶する態度を取ると言うことは、すなわち入鹿の死を意味する。
華奢な伽耶の拳ならいざ知らず、金属バットによるフルスイングはさすがに遠慮したい。
だから、抵抗しない。
「――飲んで」
一度口を離し、告げられる。
入鹿は二度三度頷いてから、口に溜まっていたものを嚥下。
「ちゃんと飲んだ?」
首肯。
「開けて」
口を開く。
中を覗き込んだ伽耶は満足そうに笑って――すぐにその顔をくしゃくしゃに歪めた。
「……ごめんね」
ぼそりと呟き、入鹿の上で横になる。情緒不安定で、いつもの伽耶だ。
彼女は入鹿の心音を聞くように胸に顔を押し付け、その両の手を背中に回す。
「ごめんね、痛かったよね」
当たり前だ。
「気持ち悪かったよね」
当然だ。
けれど、それらの言葉は形にせず、胸の内で清算を済ませる。
代わりに喉を震わし音として外界に放出したのは、いつも彼女に告げる音。
「大丈夫、伽耶ちゃんは悪くないから」
自分で言って空々しいと思う。そこに感情は込められていない。
ただ、決まりきった定型文を繰り返すだけ。
馬鹿みたいで、茶番でしかなくて、どうしようもなく問題を先延ばしにするだけの、腐りきった言葉。
だと言うのに、伽耶はそれを聞いて「ほぅ」と安堵の息を零す。
「うん、うん……ありがとう。ありがとうね、入鹿」
――嗚呼、まったくもってくだらない茶番だ。
そんな愚痴も、やはり言葉には出さないのだが。
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