8 浜宮伽耶の正体。
隣でごそりと伽耶が起き上がったのを、入鹿は鋭敏に察知していた。
寝室に設置されているデジタル時計に目をよこすと、時刻は日付を跨いだ深夜二時。丑三つ時である。
彼女は寝室を出て行くと、電気も付けずに玄関へ。そのまま傘立てに立てかけてある金属バットを手にすると、カラカラと引き摺りながら外へ出て行った。
「……理由は、何なんだろうな」
一人呟く。
入鹿はお気に入りのコートに袖を通して彼女の後を追った。
ふらふら、ゆらゆら。伽耶は幽霊の如く歩を進める。
冬の深夜にも関わらず、靴を履いていない。
もこもこした靴下をコンクリで痛めつけながら何かに導かれるように歩いている。
そうして辿り着いたのは庭の広い一軒家。一目で裕福な家庭と分かるが、それだけ。
少なくとも入鹿の知らない家だった。
伽耶はその庭に侵入しようとして――寸前、何処からともなく一匹の犬がやってきた。野良犬だろうか。リードは無く、しかし小綺麗な犬だ。
そいつは伽耶に向かってひと啼き。
――刹那、金属バットが犬の頭蓋を打ち砕く。
陥没したようで、その一撃で犬はその場に倒れ伏す。全体を激しく痙攣させているが、それだけ。以降は無抵抗の犬を一方的に甚振る殺戮が繰り返された。
入鹿はそれを確認すると伽耶から見えないところに姿を隠し、スマホを取り出して暗記している電話番号を打ち込む。数コールの後、声が聞こえた。
『もしもし?』
「伽耶ちゃんが、犬を殺しました」
『……分かった。住所は?』
現住所を伝え、電源を切る。
スマホをポケットに押し入れて、もう一度伽耶を見る。気分が悪くなりそうな光景だ。
寝巻き姿の少女が、金属バットで犬を殺戮する。
その顔は安心しきっており、口元の笑みは狂気じみたものを感じ、不気味で仕方がない。
やがて彼女はバットを振る事を止め、嗤い、屍を前に「許してください」と涙を流し始めた。
いつもの光景。どこまでも自分勝手でどうしようもなくズレて壊れた虫唾の走る光景。
――ここだな。
入鹿は物陰から飛び出し、伽耶を抱きしめる。
「大丈夫、伽耶ちゃんは悪くない」
べっとりとした血液が付着する。端的に言って気持ちが悪い。
けれどここで彼女を突き放すことは出来ない。入鹿は伽耶を強く抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫だからね。伽耶ちゃん」
「…………ありがとう、入鹿」
しばらく抱きしめた後、胸中で犬に黙祷を捧げてから歩き出す。
犬の骸は放置となるが、気にしない。
二人は無言で帰宅すると、シャワーを浴びる。伽耶が浴室に居る間に、入鹿はタオルを濡らして付着した返り血を拭った。
あとは頭を軽く洗えばそれで終わり。血まみれのコートも脱ぎ、寛ぎながら明々と部屋を照らす蛍光灯に視線を這わせる。しばらくすると浴室の扉が開いて伽耶が姿を見せた。
「……入鹿、ごめんね」
彼女はその身に何も纏っていなかった。
髪から滴り落ちる雫が絹の様にキメ細かな肌を流れ、フローリングを濡らす。
入鹿の視線が上から下へと流れていく。形の良い乳房に、きゅっと引き締まったウエスト、そしてさらにその下へ――。
自然と、入鹿は生つばを飲み込んだ。
しかし、そんな自分を自覚した瞬間に、興奮はすべて消失。劣情も何もかも、既にその胸中から霧散した。
「ごめん、バスタオル用意するの忘れてたかな?」
入鹿は身を預けていたソファーから腰を浮かすと、タオルを準備しに寝室へ向かおうとして――その前に伽耶が動いた。
フローリングを足音を立てて移動し、入鹿に強く抱き着く。
脇の下から腕を背中へ回し、入鹿の胸に顔を強く押し付け、そのまま押し倒した。
仰向けに倒れた入鹿の上から伽耶がその全身を強く押し付けるように抱きしめている。
コートを脱いだ入鹿は薄いスウェットのみ。それすなわち、彼女の肉体の感触を布一枚で味わうということ。
柔らかな胸が形を変えるほどに強く押し付けられ、彼女の足がするりと絡みつく。
「……伽耶ちゃん?」
「入鹿、興奮する?」
余りにも直球な言葉に、何と返していいのか迷う。
ただ入鹿の『正直な気持ち』を彼女は望んでいないだろうことは分かった。
「うん。だから理性がある内に退いてくれると嬉しいかな」
「やだ」
即答。
入鹿は逡巡して、彼女の顔を上げさせると、その濡れた髪を撫で、手の平全体で頬を触る。
何かを期待するように潤んだ瞳を真正面から見つめ返し、唇を親指でなぞった。
伽耶の頬が上気していく。
呼吸が荒くなっている。
やがて彼女は唇にあてがわれた入鹿の親指を口に含んだ。
唇で甘噛みし、舌先で軽く突き、愛おしげな表情を浮かべて指を舐める。
生暖かい唾液が口の端から零れて入鹿の腕を流れ、ぴちゃぴちゃと厭らしい水音が部屋に響いた。
しばらくはそれを続けていた伽耶であるが、次第にその『先』をねだるように、押し付ける身体を前後に揺らす。
入鹿は伽耶の瞳から目を逸らすことなく尋ねた。
「……続きしたい?」
指を口から引き抜くと、粘度の高い唾液が橋となり、切れる。
伽耶は息を荒くしながらも、明確な言葉で答えた。
「したい。入鹿と……最後まで……」
長い空白。
それが続くにつれて彼女の瞳が不安に揺れる。
「…………そっか。じゃあ僕もお風呂に入って来るから、そのあとにしよう」
「いい、お風呂なんか後でいい」
「ごめん、僕の方が嫌なんだ」
軽く拭いたとはいえ、髪の毛からは血の匂いが薄っすら香っている。
初体験が返り血を浴びた後というのは気持ち的に嫌であった。
「……で、でも」
「すぐに出て来るからさ」
そう言って伽耶の肩を押して上から退かす。
寝室からバスタオルを取って来て彼女の髪を拭き、身体に掛ける。
加えて、冷えないように暖房を付け、ココアを用意。
ソファーに座らせるとテーブルの上にコップを乗せた。
「これでも飲んで待ってて、ね?」
「うん……」
寂しそうに目を伏せる伽耶。その頭を優しく撫でる。
「ありがと。それじゃあサッとシャワー浴びてくるからね」
踵を返し浴室へ向かおうとすると、背後から袖を掴まれる。
足を止めて振り返ると、唇に柔らかいものが押し付けられた。
目と鼻の先に伽耶の綺麗な顔が見える。今は眼帯も付けておらず、縫われた左目がむき出しの状態であるが、それでも綺麗だと口にするのに躊躇いはない。
入鹿は一瞬、自分が何をされたのか理解できなかった。
甘い香り、生暖かい温度、柔らかい感触。時間にして約数秒。
伽耶は一歩、二歩と後退り、ソファーに腰を下ろす。そして入鹿を見上げてへらっと笑みを浮かべた。
「待ってる」
「あ、あぁ。うん」
動揺しつつも返事して、浴室に入り脱衣。シャワーを頭上から浴びながら、入鹿は自らの唇を指でなぞった。
入鹿には以前恋人がいた。故にそれはファーストキスではなかった。
しかしながら、動揺しないかと言われればするに決まっている。
伽耶との約束通り急いで全身を洗いシャワーを終えてリビングに戻る。
すると――。
「入鹿ぁ……すきぃ……」
起きてる時では絶対に口にしないだろう気持ち。
それを寝言として吐露しながら、バスタオル一枚ですやすやと眠る伽耶の姿があった。
時計を見ると深夜三時二十四分。
「まぁ、こうなるか」
入鹿は穏やかな笑みを浮かべる伽耶を抱きかかえると寝室のベッドへ。
新しい下着と寝巻きを着せると、布団を被せた。
「おやすみ、伽耶ちゃん」
入鹿も横になると、一気に疲れが押し寄せてくる。
眼を瞑ると睡魔が全速力でやってきて、死神の鎌の如く入鹿の意識を刈り取った。
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