泡となって、消えた彼女は……。

「——ぷはっ!」


 水面に飛び込んだ後、海面に浮かんだ俺は、肺一杯に空気を吸い込む。そしてそのままプカプカと水の上に浮かびながら、ジッと空を見上げた。


「やっぱりいないか、陽子……」


 陽子に教えてもらった、思いが集まる秘密の場所とやらで、一人で泳いでいる俺。彼女と出会ったあの夏から一年が過ぎて、俺は再びこの海へと返ってきたけれど、もう陽子の姿はどこにもなかった。


 一年前のあの日、人魚となって姿を消した陽子。家に帰る前にもう一度海に行って、どこかにいないか探してみたけど、やっぱり見つからなくて。それでもまた会いたくて、一年越しに来てみたけれど、結果は……。


「陽子……俺、もうすっかり前みたいに泳げるようになったんだぜ。お前のおかげで……」


 ここに来るようになってから、陽子を探すようになってからもう3日が経つけれど、未だに収穫は無し。ただ、ここは思いが集まる場所だからかな? ここにいると、陽子の事を感じられる気がする。陽子と手話で話していた時、一緒に泳いでいた時に感じたのと同じ気配を、全身に受け止める。

 陽子……泡となって消えてしまったであろう、人魚の女の子……。


 アンデルセンの、『人魚姫』と言う童話を知っているか?

 人魚の女の子が、海で溺れた王子様を助けて。その王子様に恋をした人魚は、美しい声と引き換えに人間の足を貰って、王子様に会いに行く。だけどその恋は実らなくて、人魚は最後、海の泡になって消えてしまうという……悲しい話だ。


 正体は人魚のはずなのに、足があった陽子。そして彼女は、声を出すことができなかった。俺は王子様なんかじゃないけど、これはまんま、アンデルセンの童話と同じじゃないか。だとしたら、陽子はもう……。


 水面に浮かびながら、もういない陽子を感じる。泡となって消えた陽子は海と一つになったのだろうか?

 一昨日ここに帰ってきた時も、陽子を感じた。昨日は少し感じ方が弱くなっていたけれど、今日は一番強く感じられる。だけどもしかしたら、だんだんとこの言葉に表せない『感じ』も、薄れていくのかもしれない。そう考えると、寂しく思う。


「陽子、お前は今も、ここにいるのか? それとも、残り香があるだけなのか? 教えてくれよ……陽子」


 目に映る太陽の煌めきは、あの日と何も変わらない。四年前に姉貴が亡くなってからも、陽子が海の泡になってしまっても、世界は何も変わらずに、回っていく。


 陽子、お前はもう……いないんだな……。












 どれくらいそうして、水面を漂っていただろう?

 陽子は消えてしまったけれど、ここにいると陽子を感じることができる。今日は昨日よりも、強く陽子を感じられていて。こうして浮かんでいる間にも、陽子の気配はだんだんと強くなっていって……。


「…………いや、違う」


 ふと違和感に気付いた。気付いてしまった。

 おかしい。もしもあの日、陽子が海の泡となって消えてしまったとして、一年経った今でも、こんなに強く感じる事なんてできるものなのだろうか? 

 確か前に、姉貴が俺を怨んでるんじゃないかって言った時、陽子はこう言っていた。


『三年も前の想いなんて、もう残ってるはずが無いもの。想いはだんだんと、薄れていくものなんだから』


 三年前の想いは残ってるはずがない。なら一年前の想いだって、相当薄くなっていておかしくないんじゃないのか? なのにどうして、こんなにも強く陽子の事を感じられる? それに徐々に薄れていくのなら、昨日よりも今日の方が、強く感じられたのは何故だ? もしかして、陽子はまだ……。


「……はは、そうだよな。よく考えたらアイツは一言も、泡になるだなんて言ってねーもんな。そんなの童話に影響された俺の、ただの妄想じゃねーか」


 声を失った人魚が、泡になるだなんて誰が決めた。アイツは今だってこの海のどこかで、元気に泳いでいるに決まっている。だってこんなにも、陽子の事を強く感じることができるんだから。


「陽子、本当は近くにいるんだろ! 出てこいよー!」


 入江いっぱいに響く大きな声を上げると、離れた所でパシャと、何かが水面を跳ねる音がした。

 慌てて水の中に潜ってみると、一瞬……ほんの一瞬だけど、そこには魚の尻尾を持った女の子の、後姿が見えた気がした。すぐに視界から消えて、どこかに泳いでいってしまったけれど、アレは間違いない。

 海面に上がった俺は、堪えきれずに声を上げた。


「は……ははっ、陽子だ。アイツ、やっぱり近くにいたんだ!」


 ヤバい、泣きそうになる。陽子が生きていてくれたことが嬉しすぎて、おかしくなってしまいそうだ。

 けど近くにいるのに、陽子はどうして会いに来てくれないのか。もしかしたらそれは、前に言っていた掟とやらに、関係あるのかも。

 難しい事はよく分からないけど、向こうが会おうとしないのなら、もしかしたら会うべきじゃないのかもしらない。だけど……。


「悪い陽子。それでも俺、やっぱりお前に会いてーよ」


 それはただの独りよがりかもしれない。会ったところで、迷惑をかけるだけかもしれない。だけど俺は……。


「陽子―!俺、絶対にお前を見つけて、会いに行くからなー! お前の事が好きだからー!」


 どこかで聞いているかもしれない陽子に向けて、思いっきり叫ぶ。

 陽子が会おうとしないのなら、見つけるのは難しいかもしれない。何せ相手は人魚なんだから、それを泳いで探すなんて、無茶もいいところだ。けどそれでも、諦めるなんてできるもんか。

 すぐには無理かもしれないけど、今日がダメなら明日。明日がダメなら明後日。見つかるまで何日でも……いや、何年でも探してやる。


「絶対に見つけるさ……俺の人魚姫」


 ……必ず、陽子探し出す。会って好きだって、伝えるために。

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