青梅竹馬《おさななじみ》

吾妻栄子

第1話

「こんにちは」


 ざわめく胸を抱えた西瓜すいかで押さえつけて私は精一杯笑顔を作る。


 てっきりおばさんが出迎えてくれると思っていたのに、いきなりシン本人との顔合わせだ。


「ああ」


 二ヶ月振りに目にした相手は頭半分ほど背が伸びており、洗い晒した紺地の長袍ちょうほうの肩も背に比例して広くなっている。


 治りかけのニキビの残る頬の線にも子供らしい丸みが消え、大人の鋭さが現れ始めていた。


「カオリ、いや、香珊シャンシャンか」


 耳にする声も一段階低くなった。


「うちで西瓜、沢山貰ったから」


“カオリ”とは誰なのだと思いつつ、何事も無かった風な笑顔で続ける。


「良かったら、皆で食べて」


 去年、届けた時にはおじさんおばさんも家にいて四人で食べたのだった。


 進の背後から流れてきた微かな白檀の香りにふとそんなことを思い出す。


 これはおじさんの好みで買い揃えた白檀の家具や調度品の産物で、この家にお邪魔するといつも嗅ぐ匂いだ。


「ああ」


 相手も何事か思い出した風に私の抱えた暗緑色の人の頭ほどの大きさの球体を見詰めた。


「わざわざありがとう」


 色褪せた紺色の衣の腕を伸ばして重たい果実を受け取る。


 これはおじさんの服だと今更ながら思い当たった。


 恐らく二月の間に体が大きくなり過ぎて元の服が入らなくなったのだろう。


 何だか行方知れずだった二月の間に急に十歳も年を取ったように見える。


 私より一月生まれるのが早いだけだからまだ十七歳と一月のはずなのに(去年までは互いの誕生祝いをしたのに今年は出来なかった)。


 西瓜を抱えていた両腕に重荷がいっぺんに消えた代わりにひやりとした疲れを覚える。


「一緒に食べよう」


 相手の顔にパッと見慣れた人懐こさが戻った。


「入って」


 告げるが早いか長袍の背を向ける。


 あ……。


 私は思わず息を飲んだ。


 進の小さな頭は毬栗いがぐりのように後ろまで短く刈り込まれている。


「誘拐先で辮髪べんぱつを切られて虐待された」という噂はやはり本当だったようだ。


*****

「じゃ、ちょっとテレビでも観てて」


 白檀の匂いが次第に強まる進の家の廊下。


 西瓜を抱えて台所に向かいつつ彼は居間の電視でんしを示した。


「テレビ?」


 口に出してから、そういえばこれは英語で“television”だったと思い当たる。


 だが、英語でそのまま略せば確か“TV《ティーヴィー》”で“テレビ”などという変に間延びした呼び方は初めて聞いた。


「ああ」


 坊主頭の進は“またしくじった”という感じの苦い顔つきで付け加えた。


「電視だったな」


 こちらの言葉を待たずに紺地の長袍の背中が台所に消える。


*****

「これ、今、秀雄シウユウ幼兒園ようじえんでも流行はやってるんだって」


 西瓜を齧りながら、出来る限り、普段通りの話をしようと切り出す。


 電視では「魔法少女白蘭まほうしょうじょパイラン」が佳境に入った所だった。


 鮮やかな青の旗袍きほうを纏った白蘭が手にした魔法棒の先から光線を放っている。


 敵役の暗獅公子あんしこうしに当たった。


 こちらは京劇風の厚化粧をした顔に金に染めて巻いた長髪、暗紫色の漢服を纏い、青竜刀を手にしている。


――アイヤーッ!


 いつも通り、この敵役が悲鳴を上げる展開だ。


 白蘭を演じる女優は私たちより一つ上の十八歳、暗獅公子は確か二十四、五歳だが、雑誌で目にした素顔に近い写真だとむしろ地味に整った顔で今の進に何となく似ている。


「そうなんだ」


 明らかに一度思い切り刈られて伸びる途上だと分かる坊主頭の相手は自分で淹れたばかりの鉄観音てっかんのんを啜りながら懐かしげに微笑むと、念を押すように続けた。


「こっちでヨウチエンの女の子たちが観てるのは魔法少女とか神仙公主しんせんこうしゅだよね?」


「そうだよ」


 私は咳き込むのを押さえて鉄観音を流し込む。


 そんな風にして甘ったるい西瓜を嚥下すると、喉の奥にひりつくような痛みが残った。


「今は『魔法少女』だけど、私たちが幼兒園ようじえんの頃には『神仙公主碧釵しんせんこうしゅへきさ』だったでしょ」


 人はあまりにも辛い、怖いことがあると記憶がおかしくなると聞いたことがある。


 私も去年の春先に秀雄と公園に遊びに出た帰りに日傭ひやといのような装いの男たちにワッと囲まれて肩や腕を掴まれた。


 気が付くと、裸足で繁華街の真ん中にいて泣き叫んでいる弟を抱き締めて自分も涙を流していた。


 裸足のまま家に戻って鏡を見て髪に刺した花簪も無くなっていたことに気付いた。


 だが、あの時あの人拐いたちからどのようにして逃げたかの記憶は抜け落ちたように無い。


 進も行方知れずだったこの二ヶ月の間にきっと人拐いたちから散々酷い目に遭わされてこうなったのだ。


 いつもきちんと結っていたあの人一倍太い辮髪を切り落とすような無慈悲な連中なら殴る蹴るも平気でしたに違いない。


 もしかして、このお下がりの服の下には無数の痣や傷跡が……。


 向かい合う色褪せた紺地の長袍の肩を眺める内に胸の奥にゾワッと熱いざわめきが起きた。


 私は強いて何でもない風に笑いながら続ける。


「一緒に碧釵ごっこしたじゃない? 私は買ってもらった緑の漢服着て、おもちゃの神映鏡しんえいきょうを持って碧釵」


「神仙公主」は神仙の世界から地上に落とされたお姫様の設定なので、変身すると普段の旗袍から昔風の漢服に衣装が変わる。


 電池式で音が鳴り灯りの点くおもちゃの鏡はさておき、漢服の方は動くとすぐに帯が緩んで前がはだけてくるのでなかなか難儀な遊びだった。


「俺は木の枝を持って魔境大王まきょうだいおうだったな」


 進に人懐こい笑顔が戻る。


 しかし、次の瞬間、その目が妙に遠くなった。


「懐かしいよ」


 何故そんな遠い昔のように語るのだろう。


 少し離れた画面からは主演の女優の弾けた調子で歌う曲が流れてきた。


 この番組はもう終わりのようだ。


 茶器を置くと進は思い出した風に尋ねた。


「ヒデオ……じゃなくて秀雄シウユウは、今日はまだよう……兒園じえんかな?」


 私の小さな弟の名前につまずいた代わりに、やっと「ヨウチエン」(文字にすれば『幼稚園』とでも書くのだろうか)という妙な言い回しをしなくなった。


 何だか長らく外國がいこくにいて母語を忘れかけた人が手探りで正しい言葉を当てはめようとしているみたいだ。


「今日はお休みだから、お祖父ちゃんと出掛けたよ」


 この言い方なら直に通じるだろうか。


 こちらも不安になってくる。


「『小戒旅遊記しょうかいりょゆうき』の電影でんえいを観に行ったの」


 豬八戒ちょはっかいの息子で可愛い小豬こぶたの小戒が活躍するお話だ。


 幼兒園の女の子たちの間では「魔法少女白蘭」が人気だが、男の子たちが好きなのは「小戒旅遊記」だ。


 うちのおもちゃ箱は一回り下の弟が集めた小戒と仲間たちの人形やら絵本やらで溢れている。


 今日はお祖父ちゃんと出掛けたから、またおもちゃの仲間が増えるはずだ。


「そうだ、エイガは電影だったな」


 進は試験で思案する時の顔つきになった。


 これは二ヶ月前まで教室の私の斜め後ろの席でちょくちょく見掛けた表情だ。


「ねえ」


 私は食べ掛けの西瓜と飲み掛けの鉄観音を見下ろしたまま手にした銀の勺子しゃくしの柄を握り締める。


「進はこの二ヶ月の間……」


 ひやりとした金属の柄がたちまち食い込んだ私の掌から熱を奪って固いまま温かくなる。


「俺、頭のおかしい奴に見えるよな」


 毬栗頭の相手がまるで他人事のようにきっぱりと断じた。


「辮髪を切った以外にもさ」


 まだ十七歳で白髪も皺も無いのに妙に老けて疲れた笑いが彼の顔を通り過ぎる。


「俺はこの二月の間、そういう所にいたんだ」


 カチャリと銀の勺子が皿に落ちる音が響く。私ではなく進が自分の勺子を置いたのだ。皿には西瓜の赤い果肉が半分以上も残っているというのに。


「信じてもらえるか分からないけど」


 相手は大きな目を伏せて語る。そうすると、叱られた子供じみた幼さが浮かび上がった。


 白檀の香りがふと鼻先を通り過ぎる。部屋全体を満たしていてもう意識していなかったのに、こんな風にある瞬間、蘇るのだ。


「あの日、功夫カンフーを終えて鳳凰橋ほうおうばしを渡って帰る途中、あんまりにも暑くて倒れたんだ」


「それは」


 私が二胡にこの教室に行く日は進も功夫の塾に通う日だ。


 いつもなら互いの習い事を終えて帰途に就き、途中の太平洋書店たいへいようしょてん前の交叉点で合流して、そこから一緒に帰っていた。


 きちんと約束していたわけではないが、それが習慣になっていた。


 それがあの日の夕方だけいつもの交叉点に彼は現れなかった。


 最初は功夫が長引いたのかと思い、しばらく待っていたが、あまりの暑さに耐えかねて冷房の効いた書店に入った。


 そこで今、流行の「異世界東亞来訪記いせかいとうあらいほうき」を立ち読みして、これで夏期休暇の読書感想文を書こうと思って買った。


 店を出る頃には道はだいぶ暗くなっていた。きっと進は私が立ち読みしている間に帰ってしまっただろうと思いながら、二胡と買ったばかりの本を抱えて家路を急いでいると、夕飯の買い物籠を提げたおばさんに鉢合わせした。


――あら、うちの子と一緒じゃなかったの?


 互いに驚いた顔を見合わせた。


 夜になっても彼は戻らず、「男子高中生行方不明事件」として新聞でも電視でも報道されたのだった。


「目が覚めるとビョウインにいた」


 口にしてから進はまた気が付いた風に言葉を継ぐ。


「そこでは醫院いいんを『病気』の『病』に『院』を付けて『病院』と言うのさ。『醫院』でも通じなくはないけどね」


 再び取り上げた茶器に口を着けると砂でも噛んだように苦い顔になった。


「とにかく、そこは言葉から何から全部、風変わりだったんだ。男は誰も辮髪にしてないし、女でも髪を短くしている人もいるし、服も皆、洋装ようそうだし」


 どこか確かめる風に毬栗頭の額に手を当てる。


 その手が傷もなく荒れていないことにこちらは僅かに安堵した。


日本街にほんまちに連れて行かれたの?」


 極東線きょくとうせんに乗って半時間程のその街なら、住人は概して洋装で、言葉も通じなくはないが単語はかなり違う。


「いや、日本街ではなくて『日本ニホン』という別世界のくになんだ。父さんも母さんも君も皆、いる。俺は『ススム』、君は『カオリ』、秀雄シウユウは『ヒデオ』みたいに同じ字でも違う読み方で呼ばれていた」


 進はまるで信じられないものでも目にしたようにこちらを見詰める。


 そうなると、新しく買った白芙蓉の花簪を挿して仕立てたばかりの朱鷺色の旗袍(この夏期休暇にまた胸とお尻がきつくなったので新たに作ったのだ)を纏った自分が酷く場違いに思えてきた。


 白檀に醒めた鉄観音の交ざった匂いが私たちの間を漂っていく。


 電視からは新たにゆったりした琴の音色が流れてきた。


 いつもの天気預報てんきよほうの曲だ。


 明日はまた学校だが、進は来るだろうか。


「俺のこの頭は向こうの世界で母さんに切られたんだよ。『何でそんな変な頭にしてるの』って。病院でも『ラーメンマン』とか『昔の中国人みたいだ』とか皆、おかしな目で見るし。服も洋装に変えられた」


 相手は窮屈そうにお下がりの長袍の肩を竦めた。


「ちょっと妙な洋装だったけど、着る分にはそっちの方が楽だったな」


「それじゃ」


 にわかには信じがたいが、かといって否定してはいけない気が強くする。


「この二ヶ月の間、酷い目に遭わされたわけでもないの?」


 本当は日本街のどこかに監禁されて辛い生活の中で毎日帰りたいと願った結果、進は別世界で親しい人たちと暮らしていたかのような錯覚に陥っているかもしれないのだ。


「まあ、この世界と変わらず父さんも母さんも君らもいるわけだから、殴る蹴るされたりする暮らしだったわけではないよ」


 カラカラとニキビの残る頬いっぱいに浮かべた笑顔に嘘は感じない。


「向こうでも西瓜や桃は食べたしね」


 その言葉をしおに進はまた銀の勺子を取って赤い果肉をサクリと掬う。


 その様を目にすると、手の中に握り締めて熱くなった金属の感覚が蘇った。


 私ときたら今までずっと勺子を持ったまま話していたのだ。


 進の目にはさぞかし間抜けに見えただろう。


 そんなことを思いながら、食べ掛けの西瓜をザクッと抉る。


 口に入れた赤い果実は舌触りは生ぬるく甘ったるいのに噛み砕くと中途半端に冷たい汁が滲む。


――仲秋ちゅうしゅう明月めいげつには家族皆でおいしい月餅げっぺい!


 誰も見ていない電視からは宣伝動画特有の一段階大きい音量の声が流れてきた。


「これも向こうの世界に同じのがあった。あっちでは『勺子しゃくし』を『スプーン』、『叉子さし』を『フォーク』と言うんだ」


 進は手にした自分の勺子を示して笑った。


 電視からの光を反射して銀の食器が玉虫色に煌めく。


「日本街より日本の方が洋風なのね」


 うちのお父さんも最近は良く日本街に出張するが、「途中の租界區そかいくで洋装を借りて着替えるのが大変だ」とはよくこぼすものの、食器の呼び方まで違うという話は聞かない(ちなみに、私たちと日本街の人たちは互いの地域に行く時は街中で浮かないように途中の藍灯租界區らんとうそかいくで服を借りて着替えるのが普通だ。職場でも出張の際は貸衣装手当が出る。ただ、衣装は変えても、特に男性の場合は洋装でも辮髪だったり長袍でも短髪だったりして、本当はどこの住民か一見して判ってしまう)。


「ああ、でも中途半端に洋式なんだよ。電視を『テレビ』とか変な略語で読んだり米飯と味噌汁に洋風の肉料理付けた食事だったり」


 長袍の肩を竦めて鉄観音をまた一口飲む。


「母さんが冷蔵庫で冷やして作るのも麦茶ばっかり。夏はそれが一番だって。温かいお茶はたまに緑茶を淹れるだけで、後は洋式の紅茶や珈琲コーヒーが多かった」


 思い出しても不満なのか、ふっと大きく息を吐いた。


「おばさん、鉄観音や西湖龍井さいころんじん好きなのにね」


 私もまだふくよかな芳香を放つお茶に口を着ける。


 進がこんな風においしいお茶を淹れてくれるのは母親譲りだ。


「向こうの世界ではダージリンだ、アールグレイだって紅茶ばかり買ってたよ。鉄観音や西湖龍井は買わないのか聞いたら『中国茶は良く飲んだことないし要らない』って」


「カオリ」という向こうの世界の私もごちそうになるのは紅茶ばかりだったのだろうか。西瓜に紅茶では食べ終わった後に口の中が真っ赤になりそうだ。


「さて」


 ガタリと向かいから椅子を立つ音が響く。


「俺、もう少し西瓜貰うよ」


 屈指無く笑う顔はそのままだが、こちらを見下ろす眼差しは少し高く遠くなった。


「香珊は?」


 もう「カオリ」とは呼ばれないことにホッとすると同時に胸の奥が少し熱くなる。


「私は西瓜は大丈夫」


 まだ随分余っている。


 でも凸凹に磨り減らされた緋色の果肉。


「でも、もう少しお茶は欲しいかな」


 まだ彼と話したい。


「じゃ、今度は菊花茶きっかちゃにしようか」


「ありがとう」


 鉄観音の二番煎じを予想していたのと、私は好きでもこのお宅でごちそうになったことはないお茶なのとで二重に驚く。


「昨日、大廈たいかで買ったんだ」


「そうなんだ」


「大廈」こと港未來みなとみらいに去年新しく出来た銅鑼大廈どうらたいかの中では、まだこの旗袍を仕立てた店とSTARBUCKSにしか私も行ったことがない(どちらかというと、大廈は普段の買い物ではなく特別に高い物を買いたい時に行く場所であり、擦れ違う客も明らかな富裕層でなければ他所から来た人が多い)。


 でも、高級茶葉の店も確か入っていた気がする。


醫院いいんの窓から見てずっと行きたかったんだよ」


 そう言えば、彼は三日前に警察に保護されて入院して昨日退院したばかりだった。


 今さらながら思い出す内にも、紺地の長袍の背中が厨房に消える。


*****

「これは良い香りだね」


 透き通った黄金色のお茶からパアッと広がる、幽かに苦みを含んだ菊花の香り。


「だから買ってきた」


 新たに切ってきた西瓜を齧りながら進は笑う。


「向こうの世界だと、君はヴァイオリンを習ってコーヒーばかり」


 彼の笑顔が寂しくなった。


 元の世界の私は今、ここにいるのに。


「でも、たまに向こうの世界でもあちこちに売ってる烏龍茶やジャスミン茶は買って呑んでたかな。あちらでは茉莉花茶まつりかちゃをジャスミン茶とかジャスミンティーとかいうのさ」


「そうなの」


 楽しそうに話す進を観ていると、向こうの世界で二ヶ月一緒にいた「カオリ」の方が私より彼にとって親しい存在に思えて胸の奥がちょっぴり痛い。


「そういえば向こうでは珍珠奶茶ちんじゅないちゃが『タピオカ』って呼ばれて人気だったよ。わざわざ暑い中並んで買ったりして。こっちでは当たり前にあるけどね」


 菊花茶を啜りながら進は苦笑いする。


 珍珠奶茶は私も彼も茶館ちゃかんではあまり選ばない。


 嫌いではないが、特別好きでもない飲料の一つだ。


「こっちでは日本街から来た餡蜜あんみつが大流行だけどね。私も買おうかと思ったけどあまりにも並んでる列が長くて、結局、いつもの杏仁豆腐アンニンドウフのお店で食べたの」


 どこの世界でもその地域では稀少なものが持て囃されるのだろう。


「それは」


 進が言い掛けた所で、唐突に悲しげなしょうの音色が響き渡った。


 古い影像えいぞう特有の、薄い膜を通したようなくぐもった調子を帯びた音色だ。


「誰と行ったの?」


 別に観たくもないのに逸らした視線の先では、夕陽の沈む湖の背景に「越女記えつじょき」と黒い毛筆書きの題名が浮かび上がっている。


 この時間帯にいつもやる時代劇の再放映だ。


 私たちが生まれるより前に作られたので影像にも音声にも微妙に傷が入っている。


俊甫シュンホは……」


 思わず振り向くと、潤んだ光を宿した大きな目とぶつかった。


「半月前、一緒に電影を見に行ったけど」


 向かい合う瞳が涙を宿したまま空ろになる。


「私は彼を友達としてしか好きじゃない」


――足掻あがいたところで、人の心はどうにもなりませんわ。


 電視から女性にしては低いが澄んだ声が流れてきた。


 これはきっと劉蘭慶リウ・ランチン西施せいしではなく王雅鳳ワン・ヤーフォン鄭旦ていたんだ。


 けっぱなしの電視を振り向けないまま当たりを付ける。


 西施と共に呉王夫差ごおうふさの下に送られた越の美女で、祖国への忠誠と夫差への愛情に苦しむ役どころだ。


 演じた王雅鳳が若くして癌で亡くなったせいもあり、今でも別な女優が鄭旦を演じると、「彼女には及ばない」と約束事のように貶される。


 後に演じた女優たちもその時々で持て囃された美少女麗人揃いなのだけれど、雛鳥が最初に目にした動くものを追い続けるようにこの“薄命佳人”に軍配を上げる人は減らない。


 小學生しょうがくせいの頃に買った歷史漫画れきしまんがでも西施は目の大きいはでやかな顔立ち、鄭旦は切れ長い瞳の中性的に端正な面差しで、この「越女記」の劉蘭慶と王雅鳳に似せて描かれていた。


 史実の本人たちがどうかは確かめようがないが、私の中でも繰り返し目にした鮮やかな別人の面影が刷り込まれてしまっている。


「そう、君はそう言うんだ」


 向かい合う進は目に涙を溜めたまま再び十歳も老けた風な笑顔になる。


――自分を偽るのは、嫌いです。いつかは皆に判る。


 後ろから流れてきた甘く優しい声は劉蘭慶の西施だろう。


 この女優さんは五十を過ぎた今は西施を演じた頃の柳腰の美女から風貌も体型も随分貫禄が付いてしまったけれど(若くして病死した王雅鳳の鄭旦が根強く称えられるのは、生き続けた西施の方があまりにも変わってしまったせいもある気がする。お父さんお母さんによると目立った恋の噂もないまま独身で亡くなった王雅鳳に対して劉蘭慶は西施を演じた頃から艶聞の多い人だったそうで、結婚も今の夫で五回目だそうだ)、蜜のように艶のある柔らかな声だけは変わらないので一声聞くとこの人と分かる。


「向こうの世界のカオリもシュンスケにそう言うんだ」


 私やシンと比べると、俊甫シュンホは向こうでもさほど変わらない名前のようだ。


「友達としか見られないとね」


 首を横に振る進の瞳から光る粒が尾を引いて溢れ落ちた。


 何故、彼が泣くのだろう。


 あの時、言われた当の俊甫だってそんな顔はしなかったのに。


「俺、君らが話しているところ、見掛けたんだよ」


 それは私と俊甫ではなくカオリとシュンスケのことだ。


 そうとは知りつつ何故かぎくりとする。


「向こうの世界で二月経ってようやく慣れてきた、もしかすると俺の記憶違いで昔からあの世界の『ススム』だったのかもしれないと思い始めた矢先だった」


 俊甫から「異世界東亞来訪記」の電影を観に誘われたのは、今から半月前、進が行方不明になって一月半を経た頃だ。


 おじさんおばさんと私は必死で探したけれど、彼の消息は全く掴めなかった。


 おじさんも疲弊の色が見えたが、おばさんに至っては急速に髪に白い物が増え、一月で十歳以上も老けたようになった。


 周りの皆は知っていて敢えて進の名を口にしないような、互いに彼のことを言い出さないよう目配せする風な薄暗い空気になった。


 皆、もう彼はこの世にいないと諦めていたのだ。


 それまで行方知れずになった子供の殆どは生きて還れなかった。


 進もそのような一人なのだと。


「あの世界で、初めて自分から一人で外に出掛けたんだ」


「そう」


 半月前のあの日も、私は進の最後に目撃された鳳凰橋に出向いた。行方不明になって以来、それが日課になっていたのだ。


 そこにやって来た俊甫に「鑑賞券が二枚あるから」と誘われ、電影版の「異世界東亞来訪記」を観に行った。


 正直、さほど観たくはなかった。進が姿を消してからは「異世界東亞来訪記」を含めてどんな面白い読み物や見世物を目にしても白々しい絵空事としか感じなくなったのだ。


 だが、俊甫は組こそ違うが私たちと同学であり、また進とは同じ功夫の塾に通う朋輩でもあるので、飽くまで穏やかな笑顔で話し掛けてきた彼を無下にはできなかった。


 もっと本音を言えば、行方不明になった当日も進と一緒に功夫の塾にいたはずの俊甫から何らか有益な情報が得られるかもしれないという期待がどこかにあった。


――気晴らしをする時は、共に過ごす相手を良く選ぶものだ。


 誰も観ていない電視から苦く重々しい男の声が響いてきた。


 これは多分、呉王夫差ではなく越王勾踐えつおうこうせんだ。


 この歷史劇では、西施と鄭旦の二人から愛される夫差に対して、最終的に勝者になるものの狷介孤高な悪役めいた役どころだ。


 演じた俳優の名は忘れたが、苦味走った声には聞き覚えがある。


「その世界にもクイーンズタワーって銅鑼大廈みたいな大きい建物があって、そこの書店に行ったんだ」


 サクッと進は思い出した風に再び勺子を取って赤い果肉を抉る。


 私も義務のように菊の香りを放つ茶器を口許に運んだ。


 菊花茶の舌触りはまだ熱く、ふくよかな芳香も変わらないのに、飲んでも体の温まる気がしない。


「向こうのパソコン、電脳でんのうはまだ俺には使い辛かったから専ら書籍を読んであちらの歷史や何かを覚え直していたんだ。字で読む方が色々楽だったしね」


 耳で聴くと珍妙な言葉が多いが、字にすればそうでもないのだろうか。


「向こうの小説でも主人公が異世界に行く話が人気なんだけど、どれもこれも西洋のおとぎ話みたいな服や怪物や魔術が出てくるのばっかりでさ」


 進は苦笑いして菊花茶を口に運ぶ。


「小さな女の子たちが観るのも『プリキュア』とか『ファントミラージュ』とか西洋のお姫様みたいな格好で戦う魔法少女なんだよね」


 大流行して電影になった「異世界東亞来訪記」は唐衣や和装、韓服の人たちの異世界に主人公の少年が迷い込む話だし、洋装のお姫様や王子様は「魔法少女白蘭」ならむしろ敵役だ。


「現実の世界が違うと、夢物語の景色も変わっちゃうのね」


 自分でも驚くほど沈んだ声が出た。


「俺もそう思うよ」


 私たちの間を雑音混じりの琵琶の音色が忙しい調子で流れていく。


 電視ではまだ歷史劇が続いているらしい。


「それで、結局、書店では小説や漫画じゃなくて日本や俺の住んでいたヨコハマという街の歷史についての本を買ったんだ」


「そうなの」


 私にとっては日本もヨコハマ(『横濱』とでも書くのだろうか)も小説や漫画に出てくる架空の土地にしか思えないが、その時の進にとってはそれが現実そのものだったのだろう。


 鼻先をまた菊花茶と白檀の混ざり合った香りが通り過ぎた。


 あちらの世界ではおばさんが紅茶ばかり買っていたようにおじさんも白檀ではなく西洋風の家財でも揃えて、家の中も別な匂いがしていたのだろう。


――見よ、もう芽が出ている。


 電視から穏やかで温かな男性の声が流れてきた。


 これは夫差役の梁偉華リャン・ウェイホアだ。


 この俳優さんは今はもう白髪でおじさんというよりお爺さんに近い風貌だが、この頃は美青年で西施と鄭旦の二人の美女から愛される役どころだった。


――姑蘇こそにも今少しで春が訪れる。


 私たちは向かい合って西瓜を食べているが、画面の中は冬らしい。


「書店を出てクイーンズタワーの下の階で何か食べようかとぶらついていたら、アイスクリームの店の所で君たちを見つけた」


 こちらの世界で私と俊甫が「異世界東亞来訪記」を観た後に立ち寄ったのは銅鑼大廈近くの櫻桃樓いんとうろうだ。


 流行りの餡蜜の屋台はあまりにも長蛇の列が出来ていて、そこでいつもの杏仁豆腐や珍珠奶茶の食べられる店に行くしかなかったのだ。


 正直、私はもう帰りたかったけれど、俊甫が“せっかくだから”と誘うので強くは断れなかった。


「二人とももう食べ終わって、君は何だか落ち込んだ顔でエイガのパンフレット、まあ、こちらで言う電影の小冊子を観ていた」


 気の進まないまま観た電影はどうにも入り込めなかった。


 出てくる人物も、衣裳も、風景も、小説を読んで思い描いたものとはことごとく違うのだ。


 特に主人公が合わない。小説を立ち読みした時から異世界に飛ばされて戸惑いつつも奮闘する男主人公の少年は私の中では進だった。


 電影で演じた俳優は妙に取り澄ました風で白々しく感じた。


 異世界で出会う和装や韓服や唐衣の人々もどこか着付けてないというか、その世界では日常的に身に付けている衣裳だという自然さに乏しかった。


 出演者たちはどの人もこれ見よがしに色鮮やかで豪華な服を纏っているが、私たちが普段着とよそ行きの旗袍・長袍を使い分けているように異世界の人々もその時々で着分けている方が似つかわしい。


 むろん、誘ってくれた俊甫に「つまらなかった」などと貶すのは失礼過ぎるから口には出せないが、小冊子を改めて見直しても感想が変わることは無かった。


「そこで、あいつが君に言うんだよ。『何で今日誘ったか聞かないの』って」


 進の目が虚ろになって、しかし、語る声は俊甫の鷹揚な風でどこか尊大な口調をなぞる。


――そなたに無理強いしようとは思わぬ。


 すぐ後ろから二人の女に愛される男主人公の声が雑音混じりでくぐもって聞こえてきた。


「君は小冊子を閉じて黙って俯くんだ」


 瞳を合わせると、進は哀しく笑った。


「それであいつは『君が良ければ付き合って欲しい』と」


 進の声を通してその言葉を耳にすると、カーッと全身の血が沸き立つ感じがして鼓動が一気に速くなった。


 半月前に俊甫から告げられた時にはうそ寒い感じしか覚えなかったのに。


――だが、共に在る限りは、そなたに笑顔でいて欲しい。


 古い劇の男主人公は愛する二人の女のどちらに語り掛けているのだろう。


「私は正直に『友達としか見られない』と答えたし、相手もそれで了解して終わった話だよ」


 実際、そう告げた時、俊甫は予め分かりきっていた話を聞かされた風な白けた面持ちでこちらを眺めていたのだ。


 もともと俊甫は勝ち気で自負心が強く進のように痛手を受けた時に素直に「辛い」と訴える質ではないが(それが却って人として小さく接していて息苦しく感じて好きになれなかった)、それを差し引いてもこれは失恋に傷付いた人の表情ではない。


 あの時、私はいっそう寒々しい感じを覚えたのだった。


「“そう言うと思ったよ”」


 進が俊甫の取り澄ました倨傲な語調を真似ると、本人より怖くなる。


「“君は俺のことはいつもまともに見てくれない。ススムなんか俺に勝ったことは一回も無いのに”って」


「ススム」を「シン」に変えるとそのまま半月前、櫻桃樓で俊甫が私に吐いた言葉だ。


 進はお古の紺の長袍の肩を竦めた。


「向こうの世界では、俺らはカラテという功夫に似た武術をしているんだ」


 二月で幼い頬の丸みが消えた顔に憐れむような笑いが浮かぶ。


「で、俺はやっぱりそこでもあいつには負けっぱなしなんだ」


――昔から、何をしても私の方が不器用でした。


 向かい合う私たちの間をとうにこの世を去った女優の声が再び流れていく。


 低く澄んでいて、佳人というより美少年じみた声だ。


「下に見られているのは知ってた」


 毬栗頭の進はまるで他人について話すように淡々とした、しかし乾いた声で続ける。


「でも、“ずっと嫌いだった”“友達とは思ってない”とはっきり言われるとね」


――君には悪いけど、俺はあいつなんかずっと嫌いだった。友達なんて冗談じゃない。


 半月前、仕立てたばかりらしい焦げ茶色の繻子の長袍(進は服にはさほど拘らず質素だが、この子は学校の制服でない時には一見して高級仕立てと判る物ばかり着ている)を纏った俊甫はどこか捨て鉢な調子で言い放った。


――見掛けないとせいせいするよ。


 むしろ、私がその忌むべき相手であるかのように憎々しげな笑いを見せると、焦げ茶繻子の長袍は音高く席を立って茶館を出て行った。


 こちらは腑抜けのようになって何も言えなかった。


 ただ、繻子の長袍の背中で先のくるんと丸まった俊甫の辮髪が揺れているのを見ながら、そうだ、あの子は縮れ毛だった、進のように束ねても毛先まで真っ直ぐな辮髪にはどうしてもならないのだとぼんやり考えていた。


「俺、すぐどっかに行けば良かったのに本持ったまま突っ立っててさ、君らに気付かれちゃった」


 進は誰を憐れんでいるのか解らない笑顔を浮かべて続ける。


「君に名前を呼ばれた瞬間、その場を走り出してた」


シン


 多分、カオリもこんな風に頼りない声で「ススム」と呼び掛けたのだろう。


「外に出ると、やっぱりあの世界に飛ばされた日と同じようなカンカン照りでさ、でも、中途半端に西洋じみた街並みなんだ」


 電視から素朴な木笛の音色が流れてきた。曲の名前は忘れたが、この旋律は多分、古い江南の民謡だ。


 食べかけの西瓜のどこか青臭い匂いが今更のように私たちのいる部屋を薄まりながら漂っていく。


 食べても食べなくても少しずつ熟して、そして腐っていくのだ。


「とにかくクイーンズタワーやランドマークタワーみたいなバカでかい建物から離れたくて足の向くまま走ったよ」


 こちらには銅鑼大廈しかないが、ヨコハマには似たような建物が幾つもあるようだ。


「そして、チュウカガイに着いた」


 花簪に朱鷺色の旗袍を纏った私の肩の向こうを見透かすような虚ろな眼差しで進は微笑む。


「向こうの世界にはこちらの『中華街ちゅうかなまち』と書いて『チュウカガイ』と読ませる一角があるんだ。その辺りだけはこちらと似たような街並みなんだよ」


 こちらで言う租界區そかいくのようなものだろうか。


 あの辺りだけはまるで箱庭のように昔の西洋じみた街並みだ。


「そこは観光地向けに作られた所でさ、中華料理店や茶館がある他に俺らが着ているような服も売っているけれど、妙にピカピカしたオモチャや芝居の衣裳みたいな物ばっかりなんだ」


 私が昔着て遊んだ「神仙公主碧釵」の漢服みたいな品だろうか。


「チュウカガイを歩きながら考えたよ。いや、別にそんなに落ち込むような話じゃない。シュンスケとは元の世界でも似たような間柄だった。彼一人から嫌われていると分かっただけだ。皆から『出ていけ』と罵られた訳じゃないと」


 この半月、学校で俊甫と顔を合わせても向こうの方から早足で去っていってしまう他は私の生活に何も変わりは無かった。


「歩いている内に焼き甘栗を一つ貰ってさ、その売り子さんが俺を同じ国の人間と思ったらしくて話し掛けてきた」


 こちらに向かって首を横に振る進の目はどこか怯えている。


「全然解らない言葉だったよ。向こうの世界では中華ちゅうか中國ちゅうごくもこちらとは範囲からして違うんだ。日本や朝鮮半島にも別々な國があるから」


 サーッと背中に冷たいものが駆け抜けて、布靴の中の爪先にギュッと力が入った。


――私どもは確かにえつの國より参りました。呉人ごひとから余所者、敵國の者と不信の目を向けられても無理からぬことでございます。


 歴史上の佳人を演じる女優の甘く優しい声が背中の後ろから響く。


 古代では呉と越で言葉も違ったそうだ。


 彼女は恐らく母語の越語ではなく後から身に付けた呉語で相手に語りかけているのだろう。


「俺が『わからない』と言うと、向こうは笑って『日本の方でしたか、すみません』と」


 あはは、と道化じみた笑い声を出すとニキビ痕の残る頬にサッと涙が一粒零れ落ちた。


「また茹だるように暑い中華街の通りをあるきながら、俺は一体、誰なんだろうと」


 涙が通り過ぎたのは一瞬なのに、進の頬にはくっきり痕が残っている。


「端から端まで歩いてまた中華街の出入口の門が見えてきたところで君が向こうに立っていて『ススム』と」


「それは私じゃなくて、カオリという人じゃないの?」


 何故か目頭が熱くなって体が震えた。私が傷付くことなど何もないのに。


「そうだね、向日葵ひまわり模様の洋装だったから」


 彼はまた涙の痕の鮮やかな頬に道化めいた笑いを浮かべた。


「そこで、また、意識がぼんやりしてきて倒れた」


*****

「後は君も知っての通りさ」


 色褪せた紺地のお古を着た進は湯気の消えた茶器に口を着ける。


 せっかく淹れてくれた菊花茶はもう冷めてしまったらしい。


 私の器にもまだ半分以上残っているのに。


「俺は鳳凰橋の途中で倒れている所を発見されて醫院に運ばれたそうだ」


 まるで他人事のように淡々とした調子で続ける。


「目を覚ました時には母さんが白髪頭になっていてびっくりしたよ」


 私は進の目にはどう変わっただろうか。


 尻から背筋にかけてぞわつくものが走る。


 おばさんのように白髪にも皺の深く刻まれた顔にもなっていないはずだけれど、今はそれこそが辛苦を重ねなかった暢気さの現れで白々しく恥ずべき姿に思えた。


「二ヶ月って長いのかな? 短いのかな?」


 彼はまるで確かめるように自らの毬栗頭を撫でる。


 未だ短い真っ直ぐな髪は黒い針じみていて触れれば痛みを覚えそうだ。


「警察には、洋装の住民たちの街で自分の両親くらいの夫婦の息子として暮らしていたと話したよ」


 確かにそれで私が今、聞いた話とも矛盾はしない。


「倒れた時に俺が着ていた服の製造元は日本街にも西洋街せいようがいにもないらしいけど」


 そこまで語ると、進は窮屈な風に長袍の襟元を掻いた。


 その所作でくびが前より太くなったと知れてドキリとする。


「俺、こっちではずっと行方不明だったんだね」


――アハハハハ。


 どこからか弾けるような笑い声が響いてきた。


 背後の電視からではなく壁一枚を隔てた所から聞こえてくる声だ。


「あっちにいる間は、ススムが俺の代わりにこっちの世界に飛ばされて暮らしているんじゃないかと想像したりもしたんだけど」


――ぼくんちまで冒険だよ!


 底抜けに無邪気な呼び掛けが私たちの向かい合う部屋にまで反響する。


シンは一人しかいないの」


“不明高中男子發見”


 三日前、学校からの帰り道で辮髪に制服姿で笑う進の写真を載せた新聞の号外を目にした瞬間の、全身の血がワッと沸き上がるような感じが蘇った。


「代わりの誰かなんていないの」


 向こうの世界のカオリは行方知れずになった「ススム」を必死に探しているだろうか。この二月、私がそうしたように。


 向日葵模様の洋服を着て中華街ちゅうかがいをさまよう私にそっくりな少女の幻影が頭を過った。


「もう、どこにも行かないで」


 観光客向けに軒を並べた中華料理店、茶館、路地で売られている香ばしい焼き甘栗、色とりどりの仮装用の中華服。


 それらを眺めて虚ろな涙を流す女の子の顔が浮かんだところで、目の前が熱く滲んだ。


香珊シャンシャン


 ガタリと向かいで椅子を引く音がした。


 立ち上がって近付いてくると紺地の長袍の肩はいっそう広さと厚みを増して見える一方、影になった進の顔は高く遠かった。


「俺は」


 水仙じみた匂いと共に肩に彼の大きな手が静かに置かれる。


 カッと顔が熱くなり、胸の鼓動が一気に加速した。


 息する度に甘やかな水仙の香りが強まっていく。


 これはこの家で使われている石鹸の匂いだ。


 進の手の置かれた肩の辺りが熱を帯びて感じるのは、どちらの体温がより高いからだろうか。


「ただいま」


 不意にもう一人の声が二人の間に飛び込んできた。


*****

「あら、シャンちゃん、いらっしゃい」


 おばさんは白髪で皺の深く刻まれた顔に生き返ったように若やいだ笑みを浮かべて告げた。


「あ、お邪魔してます」


 火照った顔のままこちらも会釈する。


 私は今、きっとだこみたいに真っ赤な間抜け面をしているに違いない。


「母さん」


 進も私の肩に置いた手を放した。


 サッと冷たい感触が空っぽの旗袍の肩を通り過ぎる。


 それでどうやら彼の手が汗ばんでいたらしいと遅まきながら察せられた。


「今、そこでお宅のシウちゃんとお祖父さんに会ったの。秀ちゃん、小豬こぶたのぬいぐるみ持って喜んでた」


 おばさんは何かを察したように苦笑いしつつ、話題を穏便な方に逸らす。


「今日は『小戒旅遊記』の電影を観に行ったから、その帰りにお祖父ちゃんに買ってもらったんでしょうね」


 さっき壁の向こうから聞こえてきたのは、まだおとぎ話と現実の境い目を知らない弟の声だったのだ。


シン


 おばさんはいつの間にか史劇を終えて街の交通情報に切り替わっていた電視をパツリと消して息子に向き直ると、微かにそれと分かる程度に厳しい声で呼び掛けた。


「今、学校に行くついでに芙美フーメイちゃんのお宅に寄ってお兄さんの使っていた制服を譲っていただいたわ」


 手提げからまだ色鮮やかな黄色い長袍を取り出す。


 私たちの通う学校の男子の制服だ。初中部の男子は杏子色、高中部の男子は黄色の長袍を着る決まりになっている。


 男の子はどの段階かで背丈が大きく伸びるので人によって杏子色を毎年のように作り直したりあるいは黄色を大きく仕立て直したりして、卒業生は複数着お古を持っている場合が多い。


「あら、少し大きいかと思ったらちょうどいいくらいね」


 息子の肩に上から制服を当てた母親は改めて驚きの声を上げた。


「俺、今はタイガさん、いや大河ダーフーさんと背は同じくらいだから」


 私たちと同学年の芙美の兄である大河さんは進の通う功夫の私塾の師範代だ。


 恐らく向こうの世界でもカラテの師範代として進とよく顔を合わせていたのだろう。


「この子、何だかおかしなこと言うでしょ」


 おばさんは少し困惑した微笑を私に向ける。


「まだ帰ってきたばっかりですから」


 こことは異なる世界から。似て非なる場所から。


「先生とお話したけど、これから毎日放課後に特別に補習して下さるって」


 おばさんは早くもいつもの調子に戻って息子に告げる。


「あんた、二月分、皆より遅れてるんだから数学とか今日からでも自分で勉強して行かないと落第するわよ」


「大丈夫だよ」


 叱られた子供の顔から仕事を引き受けた大人の顔に変わった進は私に真っ直ぐ眼差しを向けると動かぬ声で続けた。


「俺はもうここにかえってきたんだから」(了)

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青梅竹馬《おさななじみ》 吾妻栄子 @gaoqiao412

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