その6
店がはねた。
当然だが、もう客は一人もいない。
椅子はテーブルの上に大方あげられ、
俺と田中夫妻の他、一人だけ残っていたマスターが、
『じゃ、カオルちゃん(彼女は店ではそう呼ばれているらしい)、後は頼むよ』と出て行ってから、夫婦は隅のソファに腰をおろし、暫く何も言わずに黙っていた。
俺は少し離れて壁にもたれかかり、腕を組んで、三本目のシナモンスティックを唇でもてあそびながら、目の前の壁にある、チャーリー・パーカーのポスターを、眺めるとはなしに眺めていた。
沈黙が続く、
二人ともしばらく俯いて何も言わない。
『すっ、すまん!』
沈黙を破ったのは、外国テレビ映画やアニメで耳にする、あの低音ボイスだった。
『君を信じられなかったわけじゃない。だが、だが・・・・』
田中氏は両腕を膝の上で突っ張り、がばっとばかりに頭を下げている。
薫子夫人は何も答えようとしない。
胸の前で腕を組んだまま、顔を横に向けている。
それでいて、別に怒っているようにも見えない。
だが、田中氏は妻からの返答が返ってこないので、ひどく不安になったようだ。
うなだれていた頭だけ、ゆっくり持ち上げて、うわ目遣いに妻を見る。
『・・・・そんなに私が信用できなかったの?』
『だから、そうじゃないって・・・・』
低音の魅力も、これでは台無しである。
田中氏は、妻の
『あなた・・・・覚えてます?』
『え?』
田中氏は妻の言葉の意味が分からなかったのか、口をパクパクさせ、酸素不足の鯉みたような表情になった。
『私が吹替えの仕事にまだ慣れてなくて、何をやっても上手くいかなくて、戸惑っていた時、収録が遅くなっちゃって・・・・』
たった一人でなかなかオーケーが出ず、ついに収録が深夜になってしまい、
疲れた足でスタジオを出た時、
”送っていこうか?”
と、路肩にせって停めていた車から声がかかった。
『それが貴方だったんです。私、てっきり送り狼にでも変身するかと思ったんですけど、貴方は何もしないで、行く先だけを聞いて、私を家まで送ってくれました』
男性というものが心の中に深く入り込んできたのは、その時が初めてだったという。
そして、それから半年もしないうちにプロポーズされ、承諾したのだという。
『これ以上、何かお聞きになりたいことはあります?』
『な、ない・・・・』
もう彼女の表情も、そして声も怖くなかった。
俺は壁から背を放すと、依頼人の肩を一つ叩き、
『もう、俺の役目は終わりだな。』
そう言って、店のドアを押して、外に出た。
え?
(面白くない話だな)だって?
別に構わんだろ?
夫婦の間にこれ以上干渉しちゃあ野暮ってもんだろ。
あの二人が上手くゆき、俺は俺で美味い酒が呑めればそれで万事がハッピーだからいいじゃないか?
終わり
*)この物語はフィクションであり、登場人物その他は、全て作者の想像の産物であります。
女房を知る方法教えます 冷門 風之助 @yamato2673nippon
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