その5

 彼は俺の提出した報告書を、穴のあくほど読んでいた。


 五分ほど経ったろうか?


『お願いします。僕を・・・・僕をその店に連れて行ってくれませんか?』


 最初に来た時と同じ迫力で田中氏は俺を見ながら言った。


 俺は腕を組み、シナモンスティックをボリボリやりながら、軽く頷いてみせた。


 依頼人のたっての頼みだ。


 引き受けるよりあるまい。



 その日の午後六時、俺は田中氏と共に件の『red moon』の客席に居た。


 田中氏はご丁寧にもどこかで用意した付け髭にカツラ、それに黒縁のメガネ

までかけて変装に及んでいる。


 間もなく、ステージが始まった。


 彼女の登場である。


 客席に向かって深々と頭を下げた彼女・・・・薫子夫人は、ヘレン・メリルの、

『you'd be so nice to come home』を歌い始めた。


 客席はしんと静まり返り、彼女の歌声に魅了されている。


 田中氏も、普段は見たことのない妻の姿に、完全に引き込まれているようだ。


 彼女は立て続けに3曲を披露した。


 するとその時、入り口のドアの付近で荒々しい怒声が、折角出来上がっていた雰囲気をぶち破る。


 目線が一斉にそちらへと向く。


 入口には目つきのよろしくない男が二人、店員ともみ合っていた。


 俺はすぐに誰か分かった。


 昨今新宿のこの辺りを勝手に縄張りにし始めた、振興組織のチンピラである。


 仕方ないな。


 俺だってこの稼業でメシを喰ってるんだ。


 自分の庭場でこんな連中に好き放題やられて黙っている訳にはゆかない。

 と、俺が席を立とうとする前、一秒ほど早く、田中氏が立ち上がり、俺の肩を押さえ、客席をよけながら入り口に歩み寄った。


『おい、いい加減にしろよ。ここは大人しくジャズを楽しむ店なんだ。』


 田中氏は持ち前の低い声にますますドスを効かせてチンピラに声を掛けた。


『何だぁ?てめぇ』


 チンピラは彼をねめつけたが、明らかにその声に気圧されているようだ。


『他のお客の邪魔になる。話をつけるなら表に出な』


 俺は苦笑した。


 本来ならば俺が言わなければならないところなのにな。


 まあ、ここは彼に任せるとしよう。


 数分後、直ぐ近くの路地で、チンピラ二人は田中氏の前に腹を押さえて寝そべっていた。


 今回は俺の出る幕は全くなかった。


 流石に柔道参段はダテじゃないな。


 その後の事は、まああまりくだくだいう必要もなかろう。


 近くの交番から地域課の巡査二名と、無線で応援を要請したんだろう。機動警邏が三名やってきて、俺と田中氏を引っ立てていった。


 俺が身分を照会すると、向こうはいつもの通り俺に何かとをまいてきたが、残念ながら今回は一発も撃っちゃいないからな。


 田中氏も暴力沙汰ではあるから、事情を聞かれたものの、向こうは地回りのチンピラで、おまけに二人ともナイフと小型拳銃を懐にので、渋々といった体で俺達を解放してくれた。




 


 



 


 

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