その4

 とっぷりと陽が暮れ、辺りはすっかり暗くなっている。

時刻は午後五時を少し回っている。

 このところ依頼人の妻・・・・即ち薫子夫人は、目前に迫った公演を前に、稽古の追い込みにかかっているという。

 しかもそれだけじゃない。

 稽古が終わった後、どうも夜のパートに出かけているらしいというのだ。


当り前の話だが声優って仕事は、昨今人気稼業になったといっても、そうそう『稼げる』訳ではない。


 田中弘、薫子夫妻もその例に漏れずである。


 芸歴が長い分だけ、夫の方がいささか仕事の幅が広いから、多少は余裕もあるのだが、妻の薫子は、一応劇団の看板女優兼、演出家、脚本家であるといっても、そちらの方の収入は、お世辞にも『ある』とはいえないそうだ


『結婚した時、彼女は『自分は仕事を辞めてもいいのよ」と言ってくれました。で

 も私はそうして欲しくなかったんです。あれだけ芝居に情熱を燃やしている彼女に

は、何があっても続けてほしかったんです』


 男ってのは、結構甘ったれなところが多いから、結婚したら女房には家にいて貰いたいもんだ。


(俺はまだ独身だが、ひょっとしたら俺だって結婚したらそういうかもしれん)


 その伝でいえば、田中氏は妻の仕事に理解があるといえるだろう。


 入口がざわついてきた。


『お疲れ様でした』


『お疲れさまでした』


『じゃ、また明日』


 どうやら稽古が終わって、若い劇団員がそれぞれ出てきて、みんな三々五々、散り散りになって別れていく。


 だが、その中に彼女、つまり薫子夫人はいない。


 恐らくまだ稽古場に残っているんだろう。


 結局、それから1時間して、彼女は階段を下りてきた。


 地味な服装に地味な化粧、しかしどこかしら、きらっと光るものがある。


 有名ではないと言っても、そこは流石女優だ。


 俺は或る程度距離を置いて、彼女の後を追った。


 驚くべきことに彼女が向かったのは、我が愛すべき故郷。つまりは新宿、それも

『歌舞伎町』であった。


 彼女は路地を幾つか通り、その中の一軒、まだ看板の出ていないジャズバー『red moon』のドアを押し、中へと入っていった。


 こんな雑多な町には珍しい、落ち着いた店構えをしている。


 俺は道の反対側の電柱の後ろに隠れ、時を待った。


 午後六時半、店からボーイが出てきて、看板のネオンにスイッチを入れ、


『closed』


 と書かれた札を、


『open』


 に裏返す。


 すると、それを待ちかねたかのように、どこからともなく客が集まり始めた。


 俺も彼らに交じって、店内に入る。


 店内はお世辞にもそれほど広いわけでもなく、20人も入れば立すいの余地も無くなるほどの広さだった。


 ただ、一番正面には小さなステージが設けられてあり、ピアノ、ドラムなどの楽器が並べられてある。


 俺は席の隙間を見つけ、そこに座り、


バーボンをロックで注文した。


 しばらくすると、バンドのメンバー、ピアニスト、ギター、ドラムという小編成が登場。


 と、そのすぐ後から、黒いシックなドレスに身を包んだ、


『彼女』が現れたのだ。


 


 



 




 

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