その3
田中氏と妻・・・・薫子は、所属事務所が別だ。
田中氏は映画会社ではなく、現在は声優専門の事務所に所属しており、妻は昔からの劇団・・・・もっとも今はセミプロと言う訳ではなく、完全なプロの劇団になっているが・・・・に所属している。
中野区のビルの一角に、稽古場兼専用劇場も持っている。
劇場、とはいうものの、キャパシティーは20人も入れば一杯というところだ。
演じているのは既成の舞台劇ではなく、殆どがオリジナル。
かといって決して独りよがりの『アングラ劇(古いね、俺も)』ではない。
大人向けの深刻な芝居から、子供向けのぬいぐるみを使ったミュージカルに至るまで、ありとあらゆる演目をこなすという、言うなれば地域密着型劇団というわけだ。
薫子夫人はその劇団の看板女優。
時には演出も、そして脚本の執筆、さらには舞台装置、衣装のデザインまで、とにかく何でもこなす。
(薫子さん?ウチの劇団はあの人で持ってるようなもんですよ。)
(私、薫子さんが目標なんです。威張らないし、それでいて指導は熱心だし)
(ほんと、あの人がいなかったら、今頃とうの昔にこの劇団は潰れてましたよ)
劇団員たちの薫子女史評である。
当り前だが、これらの聞き込みは『私立探偵です』なんて名乗っちゃいない。
ウソをつくのは嫌だが、これも仕事上の方便だ。
表向き『雑誌でフリーのライターをしている者だ』と断っている。
こんな時のために、それらしき名刺も幾つか用意している。
当然変装もした。
悪しからず。
劇団員のみならず、近所の商店街や、たまに出前公演に出かける保育園、小学校などでも、彼女の評判は上々だった。
彼女、いや、田中夫婦が居住しているマンション周辺でも同じようなものだった。
しかし、彼女は自分の夫については、殆ど話したことはない。
仕事とプライベートはきっちり分けるのが信条らしい。
え?
(そんなの本人に
出来るものならそうしてるよ。
幾ら何でも彼女に、
(私は探偵です。貴方のご主人から貴方の事を調べてくださいと頼まれましてね)
なんて聞けると思うか?
そんなことをすれば、幾ら彼女でも傷つくに決まっている。
俺がセンシティブな作業が苦手な人間だからって、そのくらいの女心なら把握できるよ。
とりあえず俺は彼女を見張ることにした。
彼女は午前六時かっきりに起床。食事の準備をし、夫を送り出した後、家事全般をてきぱきとこなし、その後自分も事務所兼稽古場に向かう。
結婚してから、彼女は毎日測ったようにこれだけの作業を繰り返している。
寸分の狂いもなく、である。
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