第13話 日本各地に散らばる徐福伝説の謎
中国史上初となる中国全土統一を成し遂げ、中国史上初となる「皇帝」を名乗った人物。それが、秦の始皇帝です。
強大な権力を持ち、兵馬俑や秦始皇帝陵、万里の長城の建設等でも良く知られた人物ですが、晩年には不老不死を求めていたと伝えられています。
始皇帝は、幾度となく命を狙われて来た過去があり、強大な権力を維持するためにも、不老不死を求めたのかもしれません。
そんな始皇帝の前に現れたのが、徐福(じょふく別名を徐市・じょふつ)です。
当時の中国では、仙人の住む山「仙境(せんきょう)」があると信じられていました。
そしてその「仙境」には、不老不死の秘薬があると考えられていたのです。
その中の1つが「蓬莱山(ほうらいさん)」。
始皇帝が「蓬莱山」を探しているという話は、あっという間に国中に広がりました。
そんな時に現れたのが、徐福という名の方士です。
方士とは、古代中国の祭祀、祈祷、呪術、医術等幅広い知識を学ぶ修行者の事を指しています。
始皇帝が、徐福に「蓬莱山探索」を命じた経緯については諸説ありますが、中国の歴史書「史記」の中では、徐福自ら始皇帝に「蓬莱山探索」を願い出たと書かれています。
始皇帝から蓬莱山探索のための資金と物資、人材の提供を受けた徐福は、蓬莱山を目指して海に出ます。
しかし、1度目の航海は失敗に終わりました。
この時徐福は「貢ぎ物が足りなかった。クジラが現れて先に進めなかった。」と報告します。
しかしこのあと始皇帝はもう一度命じ、1度目よりもはるかに多い資金に物資、
100人近い技術者や若い男女3000人を徐福に与えました。
再び徐福は、始皇帝から与えられたすべての物と人材を船に乗せ、再び蓬莱を探しに向かいましたが、それから2度と戻ることはなかったそうです。
そして始皇帝は、徐福が持ち帰るはずだった不老不死の薬を待ち続け、その生涯を終えたと言われています。
このことから、徐福は始皇帝を騙した詐欺師と呼ばれることもあります。
なぜ徐福は、始皇帝の元に戻らなかったのでしょう?
もしかしたら徐福は、初めから戻るつもりがなかったのかもしれません。
というのも良き指導者として中国を統一した始皇帝ですが、万里の長城建設では、多くの労働者たちが命を落とし、晩年には不満を持つ労働者階級の人々が多くいました。
徐福はそういった不満を持つ人々を集め、不老不死の薬を探すと始皇帝を偽り、物資や資金の提供を受け国から出ていったのかもしれません。
どちらにしても、始皇帝から物資や資金の提供を受けた徐福という人物が、3000人近い人々と共に船に乗り戻ってこなかったという事件があったことは確かだったようです。
では、徐福と3000人近い人々はどこへ消えたのでしょう?
3000人近い人々や物資を乗せるとなれば、船の数も多く大船団を組んでいたはずです。
1隻2隻は沈没したり、漂流しはぐれたりしたかもしれませんが、
さすがにすべての船が沈没したとはちょっと考えにくいです。
ともなれば事故を免れた船団は、どこかの島や国にたどり着いたと考えることはできないでしょうか?
実はその謎を解き明かすヒントになるものがあります。
北宋の知識人 欧陽 脩(おうよう しゅう)の文献には、「徐福と若者たちは日本へ渡り長く留まった」という記述があります。
では徐福達一行が日本に漂着したとすると、どこにたどり着いたのでしょうか?
東シナ海から海流に乗ると、日本海側にたどり着いた可能性が浮上してきます。
ただ、季節風に乗れば、太平洋側に漂着する事も可能です。
そうなると、日本海側、太平洋側沿岸、四国や沖縄などにも漂着していたのではないでしょうか?
では次に、日本各地に残る徐福に関係した場所を確認してみたいと思います。
まず三重県熊野市には、徐福が持っていたという「すり鉢」をご神体とする徐福ノ宮があります。そして和歌山県には徐福公園があり、徐福の墓と伝わる墓石が残されています。
さらに京都には、徐福が滞在し医術を広めたという伝承とともに、新井崎神社のご神体として徐福が祀られていて、富士河口湖周辺では、徐福はこの地の娘を妻に迎え、養蚕、機織り、農耕技術などを広めこの地で亡くなったという伝承が残されています。
また、古史古伝の1つと言われている「富士宮下文書」にも、徐福に関する記述が残されていて、青森県には、徐福を航海の神として祀った神社まであります。
徐福が「住んだ」「訪れた」「没した」とされる場所は、北は青森、南は鹿児島まで15県にまたがり30か所以上にのぼります。
まったく違う場所なのに、徐福が滞在していた時期が重なる場所もあります。
徐福という人物は、分身の術でも使えたのでしょうか?
徐福本人が分身の術の使い手だったかどうかはともかく、3000人近い人々や技術者がどうなったのかについて考察していきたいと思います。
まず東シナ海から季節風と海流に乗ったとして、船団すべてが1か所にたどり着くというのは、不可能に近かいものがあります。
そのため、時期や場所にズレが生じる形で、一行は日本に漂着したと考えることは出来ないでしょうか?
また、日本にバラバラに漂着した一行が、リーダーである徐福を探そうとするでしょうか?
そもそも、見知らぬ地で1人の人間を探すのは無理があります。
普通ならまず、近場で仲間たちと生活基盤を固めようとするでしょう。
そして物資や資金は、沈没や漂流のリスクを考えれば、始めから各船ごとに分散して乗せていたと考えることもできます。
そう考えればそれを使えば、その地で安定した生活基盤を作ることが可能になります。
また、漂着した先での言葉の壁という問題がありますが、日本では古くから中国や韓国との交易は行われていたので、言葉が分かる人も居たと考えられます。
その人たちを通訳として、その地で生活基盤を築き安定した収入を得るために、技術や知識と交換に、食料や物資を得て日本に溶け込んでいったのではないでしょうか。
徐福達一行が持ち込んだ技術は、農耕技術、機織り、製紙技術、木工技術、製鉄技術、医術など多岐に渡ったと言われていますので、当時の人々には重宝されたことでしょう。
当時の人々にしてみれば、農耕技術や加工技術、医術などの知識を持っていることが重要。
つまり、徐福本人でなくても構わないということになります。
それにもしかしたら、当時の人々は誰が徐福なのか分からなかったのかもしれませんし、どうでも良かったのかもしれません。
「徐福=漂着した人たち=自分達に有益な技術と知識を持った人」と思い込んだとすれば、日本各地に徐福伝説が残されていることの説明にもなります。
では、肝心の徐福本人はどこにいったのでしょう?
中国の歴史書「史記」には、徐福は東方に船出し「広い平野と湿地」を得て王となった。と言う1文があります。
徐福自身は、日本のどこかの地で「王=豪族、有力者、知識人」として、広く人々に慕われ
安住の地を得たのかもしれません。
ですがその地がどこだったのかは、残念ながらわかっていません。
ただ、一説によると、富士山麓に都を築いた。
古代日本で一大勢力を築いた渡来人「秦氏(はたうじ)」の基礎を築いた。
等と言われていますが、実際はどれもはっきりとした証拠があるわけではありません。
いずれにしても、古代日本の歴史の中に大陸からやってきた人々によってもたらされた技術や知識があったことは間違いなさそうですね。
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