第3話 腰機
腰機に取り掛かったわたしは機織りという仕事が大変な忍耐を必要するのだと思い知らされていた。織る物の長さに合わせて
ボード織りでは経糸の間を縫うようにして
――織り始める前から忍耐心を試されるなんて。
幅の細いリボンを織るだけのつもりだった。
――生臭い。
糸口を唇で湿しては綜絖に糸を通すことを繰り返すうち、糸をまとめていた糊が溶け出してきたらしい。でんぷんの香りではあったけれど、お米の糊ではないようだった。舌切り雀の気分だ。
糸を張り終えてみると腰機はいかにも大き過ぎた。三センチ幅のリボンであっても機自体の横幅は五十センチと変えようがない。長さは六十センチの予定だったものの、
「ちょっと。浅葱ちゃん。これ邪魔だし、うるさい」
同室者からたちどころに苦情が出る。当然だ。部屋の出入りができなくなってしまう。機音も響く。
「うぅん。持ち運びはできても織る時にはかさばっちゃうんだな」
綾取りのほうきを思い浮かべれば雰囲気がつかめるだろうか。特大ほうきの柄の部分をベッドの足に結び、毛先の側を織り手の体に固定する。綾取りと同じで織り手と反対端との距離で糸の張りが決まる。腰に帯を回して糸に張りを与えるために腰機と呼ぶらしい。
機を抱えて寮内を練り歩く。娯楽室や食堂など目ぼしい場所はどこも店を広げるには邪魔だったし、ここなら、と思った屋上やテラスも二人組が妖しい雰囲気を醸していて行き場がない。
――まったく女子校って。
途方に暮れてロビーのソファーに座り込み、溜息を落とす。
――茜は自宅だから平気かな?
同じように腰機を持ち帰った友人を思い出す。ボード織りも美しく仕上げた彼女だ。初めての腰機でもきっと美しい布を織ってくるのだろう。これではなんのために腰機を借り出したのかわからなくなる。少しでも茜に追いつこうとしたのだけれど――。
「どうした。高野。溜息なんかついて」
「京子先輩」
風呂上がりらしい京子部長が飲み物を片手に声をかけてきた。隣に腰掛けた先輩に、わたしは機を織る場所がないと訴える。
「屋上なんて寒いから誰もいないかと思ったら」
「あぁ、だめだめ。上はお子様立ち入り禁止。R指定だから」
「有名なんですか」
「まあね。大したことしてる訳じゃないけど、いたたまれないんだよな。あいつらの近くは」
「京子先輩は持ち帰りで機織りはしなかったんですか」
しないよ、と答えが返ってきた。
「一年の初めには少しやったけど、機織りは無限に時間を吸い取って行くからね。寄宿舎では部活のことは忘れることにしてる。代わりに活動日じゃなくても、休日でもクラブハウスで高機に向かうけどね」
「寮じゃ、腰機も広げる場所がないですし」
「私が一年の時にはそこの玄関で織ってたよ」
「え? あ、そうか。門限を過ぎれば出入りするのは寮監の先生だけですね。考えてみれば」
靴箱の横には誂え向きに椅子が一脚置いてあった。少しばかり寒いけれど。
「どれ、見せてみな。綜絖は間違わずに通せてる?」
わたしが苦笑しながら丸めた腰機を渡すと京子部長はまじめくさった顔で首を振る。
「経糸一本おきに通せばいい綜絖をごていねいに全部通したツワモノもいるんだよ。――おや。三枚綜絖? もしかして、これ、ベルベット織りか? 初っ端から難しそうなことを。パイルはどうやって切るつもりなんだ?」
パイルと言うのはベルベットの起毛繊維のことだ。布の強度を担う地糸とは別に、柔らかな手触りを生む起毛用の糸を織り込むのがベルベットの特徴らしい。
「針金の上からカッターで切ろうかと」
「溝のない普通の針金じゃ難しいぞ。部室に
「糸を買う時に解説書も一冊買って……」
「そっか。でもちょっと情報不足かな。ベルベットの場合は絹を使うのはパイルだけでもいいんだ。地糸は木綿や亜麻を使うことが多い。リボンなら太めのナイロンでぱりっとした織物にしてもいい」
「あぁ。やっぱり最初に先輩方に相談すべきだったかなぁ」
京子部長が含み笑う。
「秘密だったんだろう。向井へのプレゼントだし」
「……なんでわかっちゃうんですか?」
ちっちっ、と芝居めいた仕草で人差し指を振ってみせる京子部長。
「簡単簡単。この糸の色は何色かな?」
「うぅ。茜には内緒ですよ。――失敗だったかな。普通の綾織りに戻そうかな」
「いや。最後まで織ってごらん。地糸が細めだからね。しなやかに流れるようなベルベットができるかもしれない」
夕陽の色で流れるしなやかなリボン。京子部長の言葉から思い浮かべた布の感触は悪くないように思われた。
「そう……ですね。一度手をつけたら迷っちゃいけませんよね。よぉし」
「熱心なのは結構だが、中間考査が近づいているのも忘れるなよ。うちの部は勉強のできない部員は活動停止。勉学そっちのけですごい織物を作ったOGがいるんだけど、勉強をサボり過ぎて危うく卒業までふいにしかけた前例がある。以来、顧問から厳しい成績チェックが入るから。あほな点数を取ってきたら腰機は取り上げるし、次の試験からは上級生総掛かりで勉強を叩き込まれることになるよ」
「厳しい」
京子部長が人の悪い笑みを作る。
「私も先輩にみっちり勉強させられた。こういう伝統は引き継がないとね」
成績だけは不自由することはなさそうだった。
最初の一本は綜絖の操作順を誤り地糸を切ってしまったところでやり直しとなった。二本目は糸の長さを間違えて切ってしまった。糸が尽きて慌てて買いに走り、三本目にしてようやく織り上がったのは日曜の晩。糊を落とすために水洗いし、明けて月曜日。誰よりも早起きをして手触りを確かめるとそれは確かに滑らかな絹の感触のベルベットだった。パイルの毛足が不揃いで波打っていたり、裏から見ると織り目が歪んでいたりしたけれど、深い紅のリボンの手触りにわたしは満足する。少なくとも最初に織ったボード織りのコースターに比べればはるかにまともな織物に仕上がったように思えたのだ。登校するわたしの足取りは軽かった。
――茜、どんな顔をするかな。
気持ちが逸って誰よりも早く教室に来てしまったものの、顔を合わせるのを楽しみにしていた茜はといえば珍しく始業間際に教室に入って来た。
「おはよ、茜。あれ、どうしたの? 目が真っ赤だよ」
うっすらと目の下に隈も作っている。こんな茜を見るのは初めてだった。
「おはようございます。その、少々夜更かしをしてしまいまして」
「ふうん。珍しいね。寝癖のついてる茜、初めて見たよ」
「まあ。どうしましょう」
茜は髪を押さえてあちこちのポケットに手を伸ばす。手鏡を探しているようだが、見つからないらしい。
「ん。直したげる」
背後に回って、実は少しばかり緊張しながらブラシを入れる。茜の髪に触れるのは初めてだった。黒々として艶があり、常ならば首を傾げただけで流れていく。色が薄く、波打ち、細くて腰がなく絡まりやすいという髪質のわたしからすれば憧れの黒髪だ。「緑なす」というのはこの髪のことだろう。
静電気除けのミストを吹き、絡まった髪をそっと解す。寝癖を完璧に除くことはできなかったけれど目立たない程度にはすることができた。
「はい、できた。――後ろがちょっと跳ねてるね。横の髪で括っていい?」
耳の上の一束を取り、緩くねじって頭の後ろで左右の房を合流させ、クリップで留める。そのクリップの上からリボンを結んだ。ポケットに忍ばせていた手製のリボンだ。
「茜。えっと、これはわたしからのプレゼント。あまりうまく織れてないかもしれないけど、茜にもらってほしいなって」
最後の方は消え入りそうになりながらの呟きとなってしまった。まあ、と茜は短く息を漏らすとリボンに軽く触れ、渡した手鏡で後ろを写そうと矯めつ眇めつしている。いかにも心躍らせているらしい仕草にわたしは安堵の息を吐く。
――気に入ってもらえたみたい。
向き直った茜の表情から疲れた様子が消えていた。
「ありがとう」
ただ一言。茜の言葉は短かったがわたしはこの時のことを忘れないだろう。こちらを見上げた視線は真っ直ぐにわたしを捉えていた。その視線が、表情が、声が、わたしの心を揺さぶる。
茜の返した感謝の言葉は素っ気ないものだ。表情もどちらかと言えば淡々としていた。ただ、ありがとう、と呟いて薄く笑んだだけなのだ。にもかかわらずこの瞬間、わたしは茜の声に、表情に心を奪われていた。
とくん。
心臓が大きく波打った。とくとくとくと早鐘のように打ち出した心臓にわたしは狼狽する。
――な、なに?
魔法にでもかけられたかのように顔に血が昇る。耳が熱い。指先までが熱くなった。魔法をかけた張本人であるはずの茜は鏡を覗き込みながらリボンの手触りを確かめている。わたしの動揺には気づかないまま。
「
「……うん」
「素敵。初挑戦でパイル織りなんて苦労なさったでしょう? だから糸を買う時には内緒だったのね。もう、ずるいわ。先を越されてしまいました」
そう言いながら茜が鞄から小物入れを取り出す。レースペーパーにくるまれたそれがわたしの手のひらに乗せられる。
「開けてご覧になって。私からのプレゼントです。今日に間に合って良かったわ」
期待していなかったと言えば嘘になる。糸を買いに行った時点で、同じことを考えていそうな気はしていた。
それでもわたしの胸は高鳴った。いや、先ほどからの高鳴りが収まらないままさらに動悸を激しくする。クラスメイトたちの視線も気になった。
緊張する指先で開いたレースペーパーの中にはきっちりと巻かれた水色の細布があった。
「……浅葱色?」
わたしは自分の名につけられた色のこともよく知らない。自分のためにもなにか織ってみようと買った糸で初めてその色を知ったくらいだ。手の中のリボンはその時のものよりも少しだけ薄く、鮮やかだった。
「ええ。美しい色でしょう? 浅葱さんの色」
確かに美しい色だった。青だけの水色ではなくそこはかとなく灰色を帯びた水色。わずかに緑も含んでいるかもしれない。美しいのは糸の色だけではなかった。織りにも工夫が凝らされていた。
「これは、サテン? それに文字が織り込んである。どうやって織ったんだろう……」
二本のストライプに挟まれたASAGIのパターンが読み取れた。わたしの織ったぼってりとしたベルベットとは反対の、薄く張りのある、それでいて手触りの良いリボンだった。織り目にも乱れは無く、サテンの輝きが絹特有の艶を引き立てる。
「気に入っていただけたかしら」
不安そうに首を傾げる茜にわたしは無言で二度、三度頷いてみせる。声に出してしまうと泣き出してしまいそうだった。
「浅葱さんの髪はいつもふんわりと軽やか。わたしにも結ばせていただける?」
席を立った茜が入れ代わりにわたしを座らせる。襟足から前頭部へと髪をくぐらせてリボンを巻いた。わたしの贈ったのは短い飾りリボンだが、茜の織ったリボンは頭を一周してカチューシャのように髪をまとめることができた。
「やっぱり。浅葱さんにはこの色は合うと思っていましたの」
満足そうに頷く茜と手鏡の中の自分を見比べる。頭の上に作られた大きな結び目は普通の蝶結びよりもループの数が多い。わたし自身ではまず試みないであろう装いだが、茜の言う通り、色素の薄いわたしの外見に水色は似合っているのかもしれない。
茜が耳にかかる一房を手に取り、指に巻き付けてほどく。もともと癖のある髪はそれだけではっきりと波打った。
「巻き毛の妖精さんですわね」
「……ありがと」
茜の右袖を握り二の腕に額を押しつける。わたしには茜がしたように、視線や抑えた表情のまま感謝を伝える術がない。
「浅葱さんがこんな感動屋さんだなんて知りませんでした」
「わたしも」
ふと顔を上げると茜が感情を窺わせない視線でわたしを見下ろしていた。その表情にわたしは戸惑いを覚えたが、すぐに茜の頬にはいつものおっとりとした笑みが蘇る。
「さあさ、浅葱さん。そろそろ先生がいらっしゃいますわよ」
背中に回った茜の手がわたしを軽く抱きすくめた。微かな石鹸の香りが漂った。
放課後に揃って部室に顔を出すと京子部長がすでに織機に向かっていた。
「おや。二人ともリボンなんかして見慣れない感じだね。ふうん?」
「なんですか。その笑いは」
「察するに向井のは高野が織って、高野のは向井の作か」
「……なんでわかるんですか。って先輩には織ってるところ見られていたんでしたっけ」
「まあね。しかし、性格がよく出てるな、二人とも。高野は一足飛びに変わったことをやりたがるだろう。贈り物にビロードを選ぶなんてそれらしい。対して向井は一見着実そうだけれど、自分の技術を試したがるタイプかな。サテンは織り手の技量がわかりやすい。これ、染めも向井の手製だろう」
茜はただ笑顔で聞いている。
「そうなの? 茜」
「何にしても、仲良きことは美しき哉、だ。高野は初めてでよくビロードまで辿り着いたね。苦労しただろう」
「ありがとうございます」
「向井は織りも正確だが、染めで苦労した感じだ。熱乾燥した藍の
「はい。本当はすくもを試してみたかったのですが」
「凝り性だね。うちでも夏休みにはすくもを作るよ。冬には藍立てもするし」
わたしはそっと茜の袖を引く。
「すくもって何?」
「藍はご存じでしょう? 藍の染料は水に溶けないのでまず藍の葉を発酵させてすくもと言うお団子を作るんです。そうすると色素が水に溶けるようになって染められるようになる、であっていますか? 京子さま」
「そうだね。伝統的な藍染めはそうやって作る。藍の華って聞いたことがないか、高野は」
「悪の華なら」
京子部長が意外そうな顔をする。
「ほぉ。高野はボードレールを読むのか。意外。ま、草木染めの中でも藍はちょっと手強いという話だ。手強いだけに一度染めたら色落ちしないし、繊維を強くもする」
それは理解できたけれど、なぜ藍染めの話をしているのかがよくわからなかった。要領を得ない顔をしていたのだろう、それに気づいたらしい部長が苦笑する。
「向井の苦労が伝わっていないらしい。高野はこの色――」と指で頭を小突かれる。「――浅葱と聞いただけか?」
「はい」
「浅葱というのはね、藍染めなんだよ。本来はすくもを使って藍立てして。濃く染めれば『藍』で薄く染めると『浅葱』や『水色』になる」
「え。じゃあ、茜はそのすくもとか言うのを?」
「いいえ」と茜。「すくもで藍を立てるのは二日や三日では無理ですの。発酵を利用するのですから。藍はすくも以外にも
茜の後を京子部長が引き取る。
「生葉染めは文字通り生の藍が必要なんだ。普通に乾燥させた藍の葉じゃ草木染めはできない」
「藍って今の時期に取れるんですか?」
外を見れば萌え出た緑も数日前の雪に埋まり真冬の体だ。とても青葉の植物が収穫できる季節には見えなかった。
「いいや。だから保存方法を工夫した藍が要るわけだ。向井は有機素材の店で買ったのかな?」
「はい。蓼藍ではなくて
――でも、とても面白くて。ずっと染めには憧れていましたし」
最後の部分はわたしに向けられた言葉らしい。
「隈を作っていたのはそのせい?」
「ふふ。単に宿題を忘れていて徹夜になってしまっただけかもしれません」
茜は冗談に紛れさせたが、わたしは彼女が週末を浅葱色のリボンに費やしたことを疑わなかった。すでに一度、礼は口にしていた。言葉を重ねるのはくどくなってしまうだろう。
「大事に、する」
感謝と尊敬の念を胸に茜を見返す。それだけを口にするのが精一杯だった。
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