第2話 買い物
「お買い物ですか?」
翌日、朝の教室でわたしは茜を誘ってみた。
「織機は借りたけど、糸が無いと始まらないから」
「私もお誘いしようと思っていましたの」
ほっこりと笑顔で答える茜に胸を撫で下ろす。考えてみればこちらに来て以来、だれかを誘って出掛けるのは初めてだ。
「駅前に手芸品店があったよね」
「そうですわね。でも手織りに向いた糸があるかしら」
手芸を楽しむ人は多いけれど機を織る人は少ない。一般の手芸店では縫い物や刺繍のための糸はあっても織りのための糸は無いかもしれないという。茜の提案で昼休みには紡織部の先輩の教室を訪ねてみることにした。
「糸?
「はい、わたしは。浅葱さんは――そのまま織れるような糸がよろしいのかしら」
知識の浅いわたしには二年生と茜の会話が飲み込めない。
「茜、話が見えない」
横から袖を引くと茜が説明してくれた。紡いだ糸は精練、染色と段階を経て加工され、専門の問屋ならば各々の状態で手に入れることができるのだと言う。
「精練?」
「不純物を除くことですわ。先週、羊毛の脱脂をしましたでしょう? あれです。糸を練る、とも」
知らないことばかりだった。茜を買い物に誘ったのは正解だったらしい。絹で言えば未精練のものを生糸、もしくは
「練絹って練りワサビみたいな呼び方」
独り言のつもりだったのだがそれを聞いた先輩と茜は顔を見合わせて笑い出してしまった。先輩がばんばんとわたしの肩を叩く。
「チューブに入ったシルクが売られてて絞って使うの?」
「……蚕型のチューブで絞ると糸が吐き出されてくるとか」
「うぇえ。浅葱ちゃん、勘弁して欲しいなぁ。蚕を握り締めた感触を思い出しちゃった。蚕ってぷよぷよに柔らかくてさ、ひんやりしてるんだよ」
顔をしかめた先輩が感触を思い出したかのように手のひらを開いては閉じてみせる。その手を手近な下級生の二の腕になすりつけた。ひゃあ、と茜から気の抜けた悲鳴が上がった。夏には養蚕が始まると聞いていたけれど、今はまだ桑の葉さえ芽吹いていない。本物の蚕を見たことはなかった。
「なんて声を出すの」
「脅かさないでくださいぃ」
わたしの腕にすがりつき背後に隠れた茜が情けない声を出す。いつもの言葉遣いもどこへやら。
「別に今、蚕を握っている訳じゃないのに」
「それはそうですけれど……」
すっかり警戒したらしい茜はわたしの背後に回ったまま出てこない。
「ほら。地図を書いてあげるからちょっと待ってな」
レポート用紙を破り取ってメモしてくれる。全部で三店。店の電話番号入りだ。
「この公園の近くにある店は染めた糸を売ってくれる。手織り教室なんかも開いてて初心者向きかな。織りたいものや道具に合わせた糸を選んでくれるよ。こっちの国道沿いは糸問屋だけど小売もしてる。自分で染めるならこっちかしらね。五稜郭の近くのモールには手芸チェーンの店が入ってるけど化学染料で染めたはっきりした色の糸が多いかな」
ありがとうございます、と礼を言って二年生の教室を出ようとしたところで、先輩のものいいたげな様子に気づいた。視線が右腕にすがる茜とわたしを往復する。廊下に出ても茜は腕にぶら下がったままだった。頼られているようで少し得意な気分だ。ひらひらと手を振る先輩に頭を下げて二年生のフロアを後にする。
「どのお店に行ってみようか」
「そうですね。まずは公園近くの店に行ってみませんか。浅葱さんは糸を選んでいただいた方がよろしいのでしょう?」
「うん。茜はわかるの?」
「いいえ。でも、部室に織りのサンプルをまとめたアルバムがあったので目星はつけておきました」
笑顔であっさりと言う茜に、なるほど、とわたしは頷く。細かなことによく気が回り、周到に準備するタイプなのはこの一月で理解していた。行き当たりばったりのわたしとは正反対だ。
授業を終えたわたしたちは街へ出るバスに乗る。学外に出るのは先週末以来だろうか。
寄宿生になってしまうと学園を出ることもあまり無い。道外出身ならなおさらだ。観光地は一通り見物してしまえばそれまでだし、学外での友人もいない。今の時代に外出に制服の着用が義務づけられていることも足をにぶらせた。
「函館の街へはよく行く?」
「どうかしら。通学路だから寄り道をして行くことはありますけれど」
「ボーイフレンドと遊びに行ったりはしないの?」
「嫌ですわ、浅葱さん」と口元に手を当て時代がかった仕草で笑う茜。「幼稚舎からずっとこの学校ですのよ。家族以外の男の人と話をしたことも数えるくらい。出会いの機会なんて少しも」
それはそれで驚きだった。
「そっか。わたしも学外での友達、一人もできてないな、そういえば。学校でも茜と部の先輩たちくらいしかおしゃべりしてない気がする」
三十人のクラスで高等部からの外部組は五人。疎外されている訳ではなかったけれど、内部組には独特の空気があり、それを備えていない五人はうまく溶け込めずにいた。
「内部組は幼稚舎から見知った顔ばかり。人見知りしてしまうのではないかしら。――あら。でも、わたし、浅葱さんとは最初から自然におしゃべりできていた気がします」
「そう? なら、努力の甲斐があったかな」
「努力ですか?」
「初日のホームルームで自己紹介をしたでしょ。あの時、教壇に立った茜と視線が合ったんだけど、笑ってくれたのがなんだか嬉しくて。それで絶対友達になろうって決めたの」
茜に向かって、にっ、と笑顔を作る。茜の品の良い笑みは真似できなかったけれど、大きな口を引き結んで作る笑顔は自分でも気に入っていた。
「まあ」
大正時代の乙女かと思うような大らかな驚き方だ。こんな反応を嫌みなく示せるのはたぶん、今の世ではこの学園の生徒だけだろう。
「茜と三年間過ごせたら楽しいかな、って部活動も紡織部にしたんだし」
「それは……ありがとうございます。あら? あら?」
北国の娘特有の白い肌に薔薇色の頬、はいつものことだったが今は耳の先までを朱に染めていた。茜自身がその反応に驚いているらしい。
――可愛い。
バスの後部から二列目の二人掛けの席で、わたしは茜の手を取ってみた。二人ともコートも手袋もつけたままだ。
――ちょっと恥ずかしい。
中学時代はべたべたした付き合いを回避してきたこともあってスキンシップにはあまり免疫がない。特に自分の方から手を繋ぎに行くことなど初めてのような気がした。
――心臓、うるさい。
茜との間にぎこちない空気がわだかまる。けれどその空気は茜がわたしの手を握り返してきたことで、暖かな幸福感に満ちたものに置き替わった。目的地までの四十分、わたしたちは言葉も交わさずにただ静かに座っていた。
春の雪が窓の外を白く染め上げていた。
街の外れでバスを降り、目当ての店を見つけた。小洒落た店構えで「オーガニック&ナチュラル 草木染めの店」と看板がかかっている。屋号らしきものは見当たらない。
「都会にありそうな店だね」
「都会のお店はこんな感じですの?」
「素朴な物を売るお店でも手が込んでいたりするかな。鶏糞で堆肥作って、イモムシを育てたり畑を耕したりするうちの部のイメージとは程遠いや」
二人でくすくすと笑いながら店のドアを開く。カウベルの呼び子がわたしたちを出迎えた。
「うわ。布だらけ」
「本当に布屋さんですのね……」
ショウウィンドウには
「浅葱さん、ご覧になって」
店内を眺めて歩いていたわたしの腕を取り、茜が奥へと引っ張って行く。何かを見つけたらしい。おとなしくて控えめな茜には珍しい積極さだった。
「人形?」
「市松人形ですわ。なんて素敵ないちまさん。着物も草木染めの手織りで。筒描きのこの柄は……
わたしには人形に関する知識も染め物に関する知識もない。茜が語る蘊蓄にただ耳を傾けるばかりだ。
「いちまさんは日本の伝統工芸品ですの。西洋人形の高級品はビスクドール、焼き物の肌を持つものに人気がありますわ。ジュモーなんてお聞きになったことありません? 関節が――」
解説する茜は楽しそうだった。
――人形、好きなんだ。
小学校のころにはビニールの着替人形が流行った。中学に入ると縫いぐるみがとって代わった。わたしには「可愛い」と黄色い声を上げて縫いぐるみに群がる彼女たちの姿は、女の子らしさを演出する小道具を求めているようにしか見えす、仲間に入る気もしなかったのだけれど。
茜の人形好きはそれとは少し違うようだった。フランス人形にしても日本人形にしても伝統的な工芸品は「可愛い」からは少し離れている。今時の少女たちからすれば「怖い」ではないだろうか。
「浅葱さんも少しお人形めいたところがありますわね」
ほんの一瞬、茜の視線が鋭く固くなった気がした。
なぜかひやりとさせられた。
茜は店員を捕まえて人形のことやその衣装のことを根掘り葉掘り訊ねている。糸を買いに来たという当初の目的はどこかに飛んで行ってしまったらしい。
針仕事をしていた女性店員と人形談義に花を咲かせる茜を横目に、わたしはもう一人の店員に声をかける。糸選びの相談だ。
「――それでしたらこのあたりですね。色は?」
何を織るのか、使う技法は、素材は、と質問に答えていくだけで目の前に次々と糸の束が現れる。一つにしぼられないのは色味や産地、製法で微妙な違いがあるためらしい。好みで選んで良い部分、なのだろう。
「うぅん。じゃあ、これを」
「一
「この輪になった束が一綛です。これをいくつかまとめたのが
「じゃあ、一綛で。あと、同じ糸で色違いの、えぇと、浅葱はありますか」
「はい。こちらになりますね」
自分につけられた名が日本の伝統色名なのだと、言葉にしてみて初めて実感が持てた気がした。やや灰味を帯びた水色がわたしの色ということらしい。もっとも「浅葱」と言っても色に幅があるのは先に選んだ糸と同じだった。
糸の素材は絹だったけれど、二綛程度では千円でお釣りがくる。ついでに、と買った染め織りの入門書の方がはるかに高かった。
買い物を済ませて茜の元に戻ると、彼女はまだ年嵩の店員――たぶん店長――と人形談義を続けていた。
「あら。浅葱さん、もう買い物を済ませてらした?」
「うん。茜はお人形が欲しくなっちゃった?」
「図星と申し上げたいけれどそれは無理ですわ。この子は売り物ではないそうですから」
茜の言葉に女性が頷く。
「ここはこの子のために開いたお店なんですよ。言ってみればこの子が店長なのです」
「お人形の着物を作るために染めを始めたらお店を開くまでになってしまったんですって。素敵」
茜は両の手で頬を包んでうっとりと言う。
「そう言えば浅葱さん、どのような糸をお求めになられましたの?」
「……内緒」
織り上がるまでは彼女には伏せておきたかった。思惑が見透かされてしまうような気がしたのだ。
「まあ、意地悪をおっしゃるのね」
茜がころころと笑う。気を悪くするのではないかと少しだけ心配したのだが、素直で優しい心根を持つ彼女ならばこうして笑ってくれるような気もしていた。
「では、わたしも内緒のお買い物をしてきます。こちらを見たらおつうのように姿を消してしまうかもしれません」
「茜が鶴の化身でも驚かないけど」
一面に糸を収めた薬棚のような売り場へと向かう茜の背に、小さく呟く。そこへ人形好きの店主が声をかけてきた。
「あちらの方が茜さんであなたが浅葱さんなの?」
「はい」
「素敵ねぇ。染め織りをするのにこれ以上はないくらいのお名前」
「わたしは始めたばかりで糸も自分では選べない有り様ですが」
「ふふふ。懐かしいわ。ハリスの制服ね。紡織部でしょう? 心配しなくても卒業までには一人前の織り手になるわ」
「……もしかして卒業生でいらっしゃいますか?」
茜を含めた内部組の生徒たちと共通する独特の雰囲気をまとわせて女店主が微笑む。間違いない。この女性はうちの学校の卒業生だ。それも生え抜きで幼稚舎から通った口だろう。
「私の通っていたころには染め織りをするクラブはなかったのですけれどね。そうだわ。ゆかり先生はお元気かしら。今年の文化祭は覗きに行ってみようかしらね」
日本史の老教師のことだろう。その年代の人らしい小柄な老婦人で、漂白したように真っ白な髪をスプーンおばさんのようにまとめている。生徒たちからはひそかに「ゆかばあ」と呼ばれていた。厳しい教師だが、面倒見も良いためか信奉者も多い。
ゆかばあをはじめとして在職中の教師の話題で盛り上がったところに茜が戻ってきた。大きく膨らんだ紙袋を胸に抱えて。
「お話が弾んでいらしたようですのね」
「うん。茜はずいぶんいっぱい買ったんだね。なんでそんなに大荷物……」
抱え込んだ紙袋の中身を覗こうとするとくすくす笑いをする茜に、ぺし、と手を叩かれる。
「いけませんわ。内緒なのですから」
束の間、互いの買い物袋に視線が注がれ、探り合うような空気が流れた。にっ、といつもの笑顔を作ると茜からも見覚えのある――鏡の中でさんざ見た憶えのある笑顔が返されてきた。わたしの笑顔を模したつもりらしい。手強い。
「さ、そろそろ参りましょう。雪もやみそうですから素敵な場所へ案内いたしますわ」
窓の外には確かに青空が覗いていた。雲の色は夕方の気配を帯び始めている。春分を過ぎた北国の午後は長い。
「手芸屋さん巡りじゃないの?」
「お買い物は済んでしまったのでしょう? 急がないと門限に遅れてしまいます。ほらほら」
女店主に、またいらっしゃい、と声をかけられながら店を出る。雪の積もった歩道を危なげなく歩く茜の足取りを追って隣に並ぶ。
「どこへ行くの?」
「秘密です。着けばわかりますわ」
つんとそらした顎が楽しげだった。
茜に連れられて行ったのは函館山の展望台だった。夜景で有名な場所でケーブルカーが頂上まで通っている。新婚旅行やデートでも定番のコースらしい。
「このあたりの子は小学校でたいてい登っているのですけれど、夕景や夜景は知らないものですわ」
東京で暮らす人が東京タワーに登ったことがないようなものだろうか。
ほとんどの見物客が展望室の中から夕日の町並みを楽しんでいたが、わたしたちは薄く雪に覆われた外のテラスに出る。ぐるりと展望台の周囲を巡った。
「うわ。風が冷たい」
「零度だそうですわ」
すでに雪はやみ、東の空はさえざえとした青い空を見せていた。雪の積もった展望台の周囲は茜色に染まっている。函館の町も三分の一ほどが山の影に入り、気の早い照明がぽつりぽつりと灯り始めていた。乾き切った冷たい空気の中では吐く息さえも白くならない。
「うわぁ。この街がこんなに素敵だとは思わなかった」
「函館は北海道では雪が少ない方ですし、今の時期になって積もることも珍しいのですけれど」
函館は本州への玄関口で港町だ。函館山の頂上からは太平洋側も湾内も見渡せる。東京のように大きなビルの立ち並ぶ華やかさとは縁がなかったが、整然と広がる町並みは降ったばかりの雪に覆われ、夕焼けに染まって美しく思えた。暗くなればさらに街と海と山のコントラストは引き立つだろう。世界三大夜景に数えられる街は、雪の夕景も素敵だった。
「よく考えたら」と手摺りに身をもたせかける。「入学以来どこにも遊びに出掛けてなかった気がする。せっかく海を渡って北の大地に来たのに、もったいない」
「浅葱さんは羊牧場で北の大地を満喫してらしたわ」
羊の臭いに食欲を減退させた紡織部一行の中で賄いのどんぶりごはんをお代わりしたのは確かにわたしだけだ。ジンギスカンが食べたいとごねて冷凍羊肉のブロックをお土産にもらったのもわたしだけだった。その肉を寄宿舎の調理場から借り出した練炭コンロで焼き肉にし、寮母にこってりと絞られたのもわたしだ。
「学校はどっちだろう」
「ここからでは見えませんわ。山ひとつ向こうですもの」
なるほど、と頷く。確かに学校からも函館の明かりは見えない。漁り火だけならば夜の寄宿舎から見えるのだが。
「じゃあ、五稜郭は?」
展望台を半周回ってあちら、と指で示されたもののそれらしい建物が見つからない。
「お城なんてある? どこ?」
「あの森になっている部分、お堀が見えますでしょう?」
「ああ。……あまりお城っぽくないね。平べったい」
「ええ。西洋式のお城で、大砲や銃を前提にしたので櫓も天守閣もないのだそうです」
「茜の家は?」
「あちらのはずですわ。建物まではわかりませんが」
五稜郭よりもさらに左手を指す。
「通うの、大変そう」
「ええ。でも、慣れましたわ」
茜が控えめな笑みで応じる。
コートを着て手袋を履いていても四月の北国の空気は冷たい。雪がやんだばかりの夕暮れともなればなおさらだ。身動きせずにいると歯の根が合わなくなる。身を竦めるわたしに茜が笑いかける。
「寒い中でソフトクリームを食べるのがおいしい――のですけれど浅葱さんは気が進まないかしら。そのご様子では」
「さすがに勘弁」
「ではこういうのはいかがですか」
茜は気配だけで笑い、襟元から引き出したマフラーの一端をわたしの首に巻く。学校指定のマフラーを共有し、ぴたりと寄り添ってきた。ポケットの中に茜の手が滑り込んでくる。これは、なんというか少々気恥ずかしい。
「あれ?」
ポケットの中で茜の手が握らせてきたものがあった。
「カイロ?」
「ええ。朝から雪でしたから」
「ずるい。こんないいもの持ってたなんて」
「ふふ。浅葱さん、道産子への道は遠いですわね」
「くやしい」
使い捨てカイロごと茜の手を握り込む。暖かいのは茜の温もりなのかカイロなのか。
「暖かい」
髪ごと首、というよりは顔の下半分に巻かれたマフラーからは微かに羊毛の香りがした。
――茜の香りも。
胸いっぱいにその香りを吸い込むのは幸せな気分だった。同時に、やはり少し恥ずかしい。友人というよりは家族か恋人のようだ。
「寒いけど、でも、来て良かったかな」
「でしょう?」
「うん。夜景も見ていきたいけど――」
「それは難しそう」
寄宿生の門限は午後七時だ。暗くなるまで函館山にいては到底間に合わない。
「駅からの最終バスが六時ちょうどですからそろそろ降りた方が良いかもしれません」
ケーブルカーの山麓駅から学校へ向かうバスの出る函館駅前までは多少の距離を歩かなくてはいけない。夕日に染まり、影を深めてゆく景色から離れるのは心残りだったが、入寮一カ月足らずで門限破りはまずいだろう。髪や装身具については煩いことを言わない学校も、門限には厳しかった。
「でも、そうなると寄宿生は函館の夜景って卒業するまで見る事なく終わっちゃうことにならない?」
「そう……なりますかしら」
「あ。でもないか。帰郷するときに夜行列車を使えばいいんだ。上りの『北斗星』って函館を夜遅くに出るんじゃないっけ」
入学の際には下りの『北斗星』で来たのだ。
「『北斗星』?」
「上野と札幌を結んでいる寝台特急。個室が売りなんだ」
「アガサ・クリスティみたいですのね。オリエント急行?」
「あは。殺人事件は勘弁してほしいけどね」
最後に一度、展望台の周囲をぐるりと巡って夕景の街に別れを告げる。山頂駅へ向かうと、わたしたちが上がってきた時には貸切状態であったケーブルカーから幾組ものカップルが吐き出されてくる。入れ替わりに乗り込んだ下りのケーブルカーは、やはり貸し切りとなった。
「夜の函館山はデートコースなんだね」
「新婚旅行の定番コースでもあるそうですわ」
「うちらのOGに――」唐突な話題の転換に茜が目を瞬かせる。「――ウェディングドレスを自作して何かの賞を取った人がいるんだって」
京子部長から聞かされた話だったが茜はすでに知っていたのだろう、ああ、と理解の色を帯びた相槌が返る。
「茜はこれからの三年間で織り上げてみたいもの、決まってる?」
「いいえ。目先の、今、織りたいものならありますが」
「今日買ったその材料で?」
「ええ。これと、その次には祖母にショールでも織ろうかと」
茜らしい答えだった。
「茜はウェディングドレス、似合いそうだよね。和風美人だから白無垢はもっと似合うか」
「まあ、ありがとうございます。でも婚礼衣装は相手がいないと着られないものですわ」
「茜ならよりどりみどりだって。もし相手が見つからなかったらわたしがおよめさんにもらってあげる」
「ふふ。ふつつか者ですが」
がらんとしたケーブルカーのゴンドラでわたしと茜は額を寄せ合って笑い合う。
――茜はどう思っているんだろう。
わたしにとって茜は、初めてと言っていいまともな友人だ。「友達でしょ」と我がままを押し付けたり、友情の証しにとありがたくもないプレゼントの交換をして大仰に喜んで見せたりする付き合いとは違うはずだった。少なくとも、わたしにとっては大切な友達だ。
――でも、押しかけ女房みたいな友達だもんね。
意気投合して自然に親しくなった訳ではない。わたしの側から一方的に接近した結果だ。
「どうかなさって?」
急に黙ってしまったわたしを不審に思ったのだろう、茜が横から覗き込んでくる。頭の動きに合わせ、顎の高さで切り揃えた黒髪が絹糸の艶やかさで流れた。
「ううん。今晩の寮食は何かなって」
「相変わらずの食いしん坊さん」
ケーブルカーを降りて食べ物談義に花を咲かせる。この辺りは生鮮食料を扱う店が集中している。夕暮れの成長期の胃袋が正直に空腹を訴えていた。軒先で煙を上げる焼き鳥や羊の串焼き、浜焼きの誘惑は強烈だ。
「それではまた明日。ごきげんよう」
誘惑を退けてたどり着いた改札前で自宅組の茜がハリス式のお辞儀をする。茜をはじめとする内部生たちは皆、同じように美しい仕草で膝を軽くかがめる挨拶をする。作法の指導というのは特に行われていないようだから生徒たちそれぞれが身につけている校風なのだろう。
学校へと向かう最終バスはハリスの生徒でいっぱいだった。茜のくれたカイロがポケットで温もりを作る。シートの下から伝わる暖房の熱気と結露して曇った窓ガラスのぼんやりした街明かりに眠気を誘われつつ、茜と過ごした時間を反芻して道中を過ごした。
――幸せな一日でした。
誰にともなく心の中でそう報告した。寄宿舎に戻ると鶏の空揚げの香りが出迎えてくれた。屋台の誘惑を退けた胃袋が大盛りのごはんを求めていた。
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