あかねいろ

藤あさや

第1話 紡織部

 新しく入ったこの学校でわたしが選んだのは紡織ぼうしょく部というクラブだった。入部したその日に「ボウショク部に入った」と母に電話をしたら笑われた。暴飲暴食のボウショクだと思われたのだ。確かにわたしはよく食べる。が、あんまりではなかろうか。

 紡織というのは糸を紡ぎ、機を織ることだ。人の手で直接なされることが少なくなった手仕事をあえて楽しもうという時代錯誤なクラブ活動。環境問題に関心が持たれるようになった今、有機栽培や無添加の食品が見直されるのと同時に着るものに対しても有機オーガニック志向が盛り上がっているらしい。

 でも、オーガニックを実践するのは大変だった。

 入部して最初にしたのは糸を紡ぐことでも、機を織ることでもない。桑と綿の畑の手入れだった。学校で飼われている鶏や兎の糞を園芸部と取り合いし、肥料を作り、土を作る。部の上級生が身につけた手製の制服に魅せられて体験入部した一年生は一週間で半分になった。蚕の繭を茹でてそこから糸を紡ぐのだと写真を見せられ、さらに半分になった。さらにその次の週に近くの羊牧場へと毛刈り実習に出ると――もう減らなかった。三週間が過ぎて残ったわたしともう一人は羊に触れることを喜ぶ類の人間だった。猫の目を横にしたような瞳孔を持つのんびりとした生き物は愛らしくおいしい。よく手入れされた羊は獣臭ささえも心地よかった。

 わたしが紡織部を選んだ理由は単純で不純だ。クラスメイトのあかねと親しくなりたかったから。茜の存在が気になっていたわたしは、彼女がボウショク部の見学に行くと小耳に挟み同行を申し出たのだった。この時「暴食部?」と一瞬思ってしまったわたしは母親のことを責められないかもしれない。

 茜の関心は糸紡ぎや機織りよりも染め物にあったらしい。

「自分の名前の植物を使った草木染めをしてみたかったの」

 わたしはその時初めて茜という植物があることを知った。単に夕焼けの色を茜色と呼ぶのかと思っていたのだけれど、植物の茜で染めた色に由来するのだという。

浅葱あさぎさんもすてきなお名前。藍で染めた薄い水色のことですわね。お揃いね。色の名ですもの」

 わたしの名を口にする茜の笑顔が眩しかった。良い友人になれるのではないかという直感は正しかった。

「素敵な布を織りましょう。あなたは浅葱。私は茜。名を表す色がいいかしら」

 桑を育て、蚕を養い、繭を取って糸を紡ぐ。その糸を染めて機を織り、着物を作る。一着分の布を織るのにどれほどの時間が掛かるのだろう。その布に必要な絹はいかほどだろう。

 畑の面倒をみるところから始めるとは言え、紡糸も染色も機織りもぶっつけ本番というわけには行かない。活動の半分は農作業だったが、残りの半分は市販の材料を使っての手仕事だ。羊毛の脱脂作業をした翌週は天気が悪かったこともあり、小さな織機を与えられ、初めて紡織部の名にふさわしい仕事をした。

 織機というのはとても単純な機械だ。実物に触れればそれで仕組みが理解できる。

 仕組は単純でも実際にそれを使って布を織るのは手間がかかる。まずは織り上げる布の幅の分だけ経糸たていとを並べて張らなくてはならない。

「コースターをひとつ織るだけでこんなに大変だとは思わなかった」

 わたしがこぼすと茜が笑う。

「糸の少ないボード織りですのに」

「わたしには畑仕事の方が合ってる気がする」

「先週の羊毛刈りは楽しそうでしたものね。羊に乗って遊べるなんて知りませんでしたわ」

 高等部から外部入学したわたしが驚いたのは茜を始めとする内部組のこの言葉遣いだった。東京や鎌倉のお嬢様学校ならいざしらず、ここは函館だ。こんな言葉遣いをする少女たちが北の大地にいるとは思わなかった。

 道外から入学したわたしにとっては、間もなく五月だというのに部屋に暖房が入っているというのも驚きだった。はた音の隙間をスチーム暖房の音がちりちりと満たしている。六月まではこの旧式の暖房装置に世話になるのだという。

 クラブハウスを二部屋分占領した部室は広いはずだったが、二台の織機はそれ以上に場所を取っていた。わたしと茜は部室の片隅で、木の板に棒を打ち付けただけの原始的な織機と糸玉を前に先輩たちからレクチャーを受けていた。ボード織り、という。

「茜、浅葱。来月にはその織機できっちり織れるようになっていてね。初等部の子たちが習いにくるから。いいところを見せてよ」

「教えるんですか? わたしたちが」

「そ。おちびさんたちからすればあなたたちも高等部の憧れのお姉さまだからね」

「責任重大」

「報われる仕事よ」

 上級生たちが声を重ねる。先輩たちに見てもらいながら経糸たていとを張り、シンプルな(シャトル)に緯糸よこいとを巻く。糸は毛糸のように太く、紐に近い。テレビの録画さえ自分ではできないという機械音痴の茜でもこの原始的な織機の仕組みはすんなりと飲み込めたらしい。逆にパソコンはいじれても指先の不器用なわたしの方が準備に時間がかかってしまっていた。そんなわたしを見て茜が感心したように呟く。

「浅葱さんは見た目と中身に落差がありますのね」

 林檎の頬に笑みを含ませて茜が切り出し、先輩たちが相槌を打つ。

「確かに。髪も目も色が薄いし。入学早々でソバージュなんてかけてるのかと思えば天パーだし。小柄で病弱な都会っ子の文学少女かと思った」

「でもこの子は食堂でどんぶりごはん」

「羊でロデオをして牧場で大目玉もらうし」

「三〇キロの石灰を片手で担ぐし」

「中身はたくましいのよね」

 わたしを除いたその場の全員が頷きあう。少々不本意な言われようだ。

「わたし、病弱だったんですよ」

「嘘」

「未熟児で生まれたんだそうです。三つくらいまではずいぶん病院通いをしたって」

「病弱だった反動で鍛えちゃったとか?」

「両親は、特に父は今でも壊れ物に触れるようにするので、それが嫌かな。いくら健康なところを見せても改まらないし、面倒になって実家を出てきちゃいました」

 この北の大地にある学校を選んだ理由は他にもあったけれど単に実家を出たかったというのが一番大きな理由でもあった。

「それで内地からわざわざこの学校に入って寮暮らし? 豪快ねぇ。浅葱のお父さま、きっと娘に見捨てられたって嘆いてらっしゃるわ」

 こちらの人にとっては今でも本州は内地らしい。

「さぁさ。口よりも手を動かして。一年生は来月までにはそのコースターを五分で織れるようにね。今日は活動時間内に一本、織り上げるようになさい」

 大型の織機で絹布を織っていた三年生がおさで織り目を整えつつ指示を出す。整然とした機音はたおとを響かせる京子部長はペダルとレバーだらけの織機を体の一部のように操る。

 その日、活動時間を目一杯使ってわたしが織り上げたのは十センチ四方ほどの緯糸の目のばらばらな、歪んだ布きれだった。平織りであるはずなのに生地の表裏で見映えが違うという珍妙な仕上がりに先輩たちがにやにやする。

「最初は誰でもそうなの。平織りは一番単純な織り方だけどそれだけに織り手の技術が出てしまうのよね。京子も今では器用に高機たかはたを使うけど、最初はほら、こんなの織ってたの」

 部長の同級生が分厚いアルバムを開いてみせる。中はカード式の部員名簿になっていてポートレイトと共に布片が貼られていた。今よりも幼い印象の部長がやぼなメガネで写っている。隣に貼られた織布は歪んだ台形をしていて、わたしの手にある織物と不出来が競えそうだった。

「というわけで今日あなたたちが織った初めての織布もこの部員名簿に貼られて末永く後輩たちを力づける材料になります。卒業前にも同じ物を織って三年間の進歩の記録にするからね」

「……茜は上手に織れてるね」

「ふふ。ありがとうございます」

「どれどれ。あら。本当。――茜、経験者?」

「はい。初等部の頃に見学に来て一度織らせていただきました」

「昔に播いた種が芽を出したというわけか。来月に見学に来る子たちの中からも同じようにうちの部に入ってきてくれる子が出るといいな」

 弾む会話を尻目に、わたしは織機に埃よけの布を被せている部長に声をかける。細い絹糸でしなやかな一反を織り上げるには数ヶ月を要するのだと言う。その間、この大きな織機は動かせないし、織りかけの布も外せない。

「部長」

「うん?」

「この小さな織機、借りていっていいですか。少し練習してみたいので」

「感心感心。いいよ。で、何を織るのかな。このボード織機だとうんと太い糸でしか織れないよ」

「ええと。あの、絹とかは無理ですか」

 ほう、と京子先輩が目を見張る。

「絹を織るならもう少し目の細かな綜絖そうこうが要るね。こういうのを――使った方がいい」

 ロッカーから引き出されたのは数本の棒状の道具だった。ただの棒に細かな穴が並んだものが二本、二本の棒切れの間に無数のタコ糸が張り渡されたものが二組。それらが組紐でぐるぐる巻にされてまとめられている。使い込まれた木肌が飴色になった年代物だ。

腰機こしはたっていう。四〇センチくらいの幅のものまで織れる本格的な織機だよ。うんと複雑な織り方もできるし持ち運びもできるけど、フレーム織機みたいに効率的には織れない。教えるのは六月になってからにしようと思ってたけど……。自習するならそれもいいか」

「やります!」

 ふうん、と京子部長が意味ありげに笑う。

「何を織るのかは訊かないけど、細い糸は難しいってのは覚えておいて。腰機は原始的だけれど、それだけに織り手の技量が裸にされる。今日はもう時間がないな。わからないことがあれば誰の所でもいい、わたしたちの所に聞きにおいで」

「はい」

 棒切れをまとめた織機らしきものを受け取って頷く。そこに茜が加わった。

「あの。私もお借りしてよろしいでしょうか。置いてきぼりは寂しいです」

「今年の一年生は熱心だね。いいよ、二人とも頑張ってごらん。――高野は最初、糸にも布にもちっとも関心がなさそうだったのにいつのまにかやる気が出たね。今年は向井以外は残らないんじゃないかと心配してたけど、安心した」

 高野はわたし、向井は茜の姓だ。下の名を呼び合う校風の中で部長は下級生を名字で呼ぶ。

「あたしは浅葱は辞めっこないと思ってた」

「私も」

「茜が残るってわかってたからね」

 ねえ、と二年生の三人が示し合わせたようにこちらを見る。

「……ええと、なんでしょう?」

「気づいていないの、当の本人たちだけなんだな」

「そうそう」

 何かを当てこすられているようだったがわたしにはわからなかった。背後の部長を振り返ると気の毒と言わんばかりの笑みが返る。同情に満ちた空気の中で、茜が不思議そうに口を開く。

「浅葱さんは確かに予備知識なしで入部されたみたいですけれど、でも、最初から熱心でいらしたわ。よく図書室で染織の本を紐解いていらっしゃるし。私は浅葱さんだけは残ると思っていましたもの」

「茜、あんたいい子だね」

 二年生の一人が抱え込むようにして茜の頭を撫でる。同時に京子部長がわたしの頭に手を置いた。

「向井はいい子だし高野は――幸せだろう。さ、そろそろ下校時刻だ。明かりを消すよ。荷物は持った?」

 はい、と茜とわたしの声が揃う。

「腰機はそれぞれ持って帰っていいから。向井は織りの参考書くらいは持ってるか。高野、あんたはその――」と京子部長はスチール棚を指す。「『はじめての手織り』って本も持って帰りな。子供向けの本だけれどわかりやすくて明解だから」

 部員たちが揃ってクラブハウスを出る。冷たい春の雨にはみぞれが混じり、夜には雪へと変わりそうだった。この地では六月に雪が降ることもあると言う。校門近くで自宅組と別れ、わたしと京子部長は同じ敷地内に建つ寄宿舎へと足を向ける。

「高野は外部生だっけ」

「はい」

「向井とはうまくやれているみたいだな」

「はい」

「部活にも馴染めている?」

「はい。最初は右も左もわからなくて。でも、わたしには向いているみたいです」

「そうかもな。農作業を嬉々とこなす一年は初めてだよ」

「体を動かすのは好きです」

「ふうん。運動部は考えなかったのか?」

「初めは剣道をやろうと思っていたんです。中学でもやっていたので」

 京子先輩が、くくっ、と鳩のように笑う。

「向井を追いかけてうちへ、か?」

「はい。中学ではちゃんとした友達が作れなかったし、高校では頑張ろうって。そう思っていたところで茜と出会って、この子だ、って思ったんです。一目見て気に入っちゃいました」

「えらい惚れ込みようだね」

「休み時間のたびにお手洗いに連れ立ったり、嫌いな子の悪口を言い合ったりするような友達ごっこは嫌だったんです。でも、学生時代にしか一生の友達は作れない、って父がよく言っていました。それで高校では本当に大切にできる友達を作ろうって。茜と出会ってこの子だ、って。……なんかわたし恥ずかしいこと言ってるかも」

 茜と友人らしい関係を築きつつあるのが嬉しかった。誰と話していても茜を自慢したくなってしまう。故郷への電話でも度が過ぎていたようで、最近では母もうんざりしている様子だった。

「恥ずかしくなんかないさ。友達を誇れるってのは素敵なことだよ」

 念願の友人に加え、気さくに言葉を交わせる先輩を得て、わたしの高校生活は良いスタートを切ったようだった。

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