第15話 E判定の才女
10月も後半に差し掛かった頃、三津屋先生は8月下旬に行われた第2回マーク・記述模試の結果を受けて塾生たちとの面談を実施した。来月下旬に行われる最後の模試『プレ共通テスト』も控える中、第1志望の合格可能性の話だけではなく、併願校などの具体的な受験プランも確定させる狙いがあった。ただ、この時期となると面談自体もスムーズに終わるものも多い。とくにこの予備校『暁』はやりたいことも、志望校も決まっているものも多いのでなおさらだ。
しかし三津屋先生の中で1人面談がうまく進まない者がいた。松江麗だ。彼女は第1志望として考えている大学がことごとくE判定なのだ。
「はっきり言ってしまうと、苦しいです。」
「ええ。」
「ええってことはないでしょう。」
「ええ。」
諦めとも、落ち着きとも言えないような、すごく静かで冷め切ったような返事だけを返した。
「以前君は大学受験を自分を高めるチャンスと言ってましたが、結果が出ません。なぜたと思います?」
「……。」
「どこに向かって高めるのかわからないからですよ。ただ難関大の文系学部を書いてるだけです。文学部、経済学部、国際学部…。君は何をしたいんですか?」
「何か、目標がないとダメなんですか。」
瞬間的に加熱されたように、麗は食い気味に三津屋先生に聞いた。
「確かにみどりちゃんやカメタク君、根本君みたいに打ち込んできたこともなければ、萌ちゃんやなっちゃん、松本君みたいな夢もないです。でも…夢のない子が大学目指しちゃだめですか?」
三津屋先生は少し黙り込んでから、絞り出すように話し始めた。
「…そんなことはないですよ。大学でやりたいことを探す、ということも十分に考えられます。ただ、君にはそれも感じられないんです。」
それから三津屋先生はとどめを刺すようにこう言った。
「どうしてそんなに空っぽなんですか?」
『空っぽ』。それは麗は人生で初めて言われた言葉だった。環境にも才能にも恵まれていた彼女は『何でもできた』ゆえに『何もなかった』のだ。
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松江麗は大学教授の父と中学校教師の母の間の1人娘として生まれた。いわゆる『お嬢様』だった麗は幼少期からピアノ、水泳、さらに学習塾と様々な習い事をした。才能は早くから開花し、ピアノは小学校3年生の時に市内のコンクールで金賞、水泳も小学6年生の時に市内の大会でバタフライで3位、個人メドレーで2位に入った。このほかにも小学校時代に絵画コンクールや読書感想文コンクールでも優秀な成績を収めていた、小学校4年生の頃には既に英検3級には合格していた。また学業も非常に優秀な成績で、常に学年トップだった。
ただ、彼女は中学校に上がるまでに辞めてしまった。理由はこうだった。
『すぐにできちゃってつまらないから。』
天才肌ゆえにすぐに教えたことが身についてしまい、自分でもわからないうちに教わった以上のことができてしまうのだ。さらに努力家ではなかったため、それなりの結果が出ると満足してしまうのだ。それでも新しいことを始めようと中学校ではソフトテニス部に入った。彼女の体はすぐにこの競技に必要なスキルを身につけた。中学1年生の秋の新人戦ではシングルスで優勝、全道でもベスト4だった。3年生までやり通したが、もう高校ではやらなくていいな、と彼女は既に考えていた。
学業ではトップクラスだったため、当然市内一の進学校である旭川第一高校を薦められた。ただ、これを翻して2番手進学校の旭川第二高校に入学した。その時の理由はこうだった。
『家から近いから』
高校はとりあえず3年間通って卒業を目指す。それぐらいしか考えていなかったため、トップ高には興味を示さなかった。
立地だけで進学した高校でも当たり前のように成績は上位だった。特に英語や国語は常に学年順位は5番以内だった。ただ、彼女の心は年齢を重ねるごとに冷めていった。部活には入らず、友達といるときも、学校行事も、どこか自分が輪の中から外れた視点でものを見ていた。
こうして麗はやりたいことも、夢中になれるものを見つけないまま、高校3年間最後の大イベント、大学受験を迎えた。しかし不幸なことに共通テスト3日前になってインフルエンザにかかってしまったため、共通テスト本試験を受けられなかった。翌週に追試験があったが、熱が下がらずやむなく受験を断念した。
このとき、不思議なことに麗は初めて『面白い』と感じた。体調の問題があったとはいえ初めて『うまくいかないこと』に遭遇したからだ。周りは麗のことを『かわいそう』と言ったが当の本人はそう思われるのをすごく嫌った。その冷え切った心に初めて炎がともされたのだった。
こうして『旭川市内』だからと理由でこの年新しくできた予備校『暁』での浪人生活を始めた。もともと成績は優秀だったため、普通に勉強をしていれば難関大には合格できるレベルだった。みどりや虹子とも気が付いたら仲良くなり、率先して勉強を教える立場だった。
ただ彼女たちとの親交を深めるうちに、麗にはある悩みが生じ始めた。イラストに夢中な虹子、かつてローカルアイドルとして活躍したみどり、エンジニアを夢見る夏路、料理の経験から栄養士になりたい美宇、獣医を目指す萌果と物語の『キャラクター紹介』で書けそうなことが自分には無いことに気づいた。何でもできて、欲しいものはすべて手に入れていた故、何かへの『執着』がなかった。言い換えれば『夢』や『生きがい』のようなものがないのだ。この悩みが肥大化したころには勉強の手が止まった。自分が大学に行く意味を見いだせていなかったのだ。
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昨日の三津屋先生が言った『空っぽ』を改めて痛感した麗はどこか上の空だった。休み時間中、みどりがかつての仲間が新曲をリリースした話もまるで頭に入っていなかった。
「…麗、聞いてる?」
「え、ああ…ごめん。」
「どうしたの?」
「いや…あ、その子は。」
「うん、紅音、新曲出したんだ。私たちも頑張らないとね。」
「そうね…。」
「なんか、麗の『そういう感じ』、初めて見た。なんかあったの?」
「なんでもない、なんでもないから…。」
午後の授業も頭に入らず、この日は自習室に残らずにまっすぐ帰宅した。家に着くと研究の虫である父が早く帰ってきていた。その隣には見知らぬ外国人が座っていた。
「麗、こちらはフィリピンからの留学生のエミリオ君。」
「こんにちは。」
「コンニチワ。」
エミリオは言葉も表情も硬かった。
「彼はこの春から日本に来てうちのゼミに来たんだけど、人見知りなうえに言葉もまだ慣れてなくてね。でもこの間チャンチャン焼きの話をしたらすごく興味を持ってくれて、うちで振舞うことにしたんだ。」
「なぜチャンチャン焼き…。」
「エミリオ君、せっかく北海道に来てくれたんだ。今日はうんと楽しんでくれ。お酒は、ビールでいいよね。」
と言いながら冷蔵庫を開けると麗の父は何かに気づいた。
「あ、そうだ。味噌を切らしていたんだった…。麗、すまないがお父さんはちょっとスーパーまでひとっ走りしてくるから留守番を頼んだよ。」
「お父さん、私が行くよ…。」
「いいよいいよ。お前は帰ってきたばかりじゃないか。エミリオ君、すまないがちょっとの間待っていてくれ。」
「わかりました。」
父は近くのスーパーまで味噌を買いに車を走らせた。母も部活で遅くなるため、麗はしばらくの間、見知らぬ留学生と時間を過ごさなければいけなくなった。もっとも、気まずいと思っているのは向こうも同じで、どうしていいかわからず縮こまるように食卓の席に座っていた。
「先生、料理、できる。すごいです。」
「は、はい…日本人の男性としては珍しい方です…。」
「そうですか。」
エミリオは何とか勇気を振り絞り、麗に話しかけたが彼は人見知りなためすぐに会話が止まった。なんとかしなければ、と思って麗も勇気をもって話しかけた。
「あの、エミリオさんはどうして日本の大学に来たんですか?」
珍しく緊張したのか、とても早口になってエミリオを聞き取れていなかった。一瞬固まった麗だったがここで自分は英語が得意なことを思い出した。高校時代、戯れで受けた英検準1級を試す時だ。
「Why did Emilio come to the Japanese graduate school?」
(どうして日本の大学院に来たんですか)
「Well, my grandmother worked for Japan and often made that case's account me.」
(私の祖母が日本で働いていて、そのときのことを私に話してくれたからです)
「What kind of account did your grandmother make you?」
(どんな話をしたんですか?)
「My grandmother informed me that the Japanese rice is soft and good. My grandmother informed me that Japanese makes it civil and kind to everyone.When my grandmother passed away, I made up my mind. I thought I'd like to see Japanese culture from my eye sometime.My dream is to repay Japan you made my grandmother happy where. I'd like to give English education in Japanese people and connect Japan and Philippines.」
(日本のお米がおいしいこと、日本人は礼儀正しくて誰にでも親切にしてくれるということを話してくれました。祖母が亡くなったとき、私は決心しました。日本の文化をこの目で見たい。祖母を幸せにしてくれた日本に恩返しがしたいと。日本人に英語を教えて日本とフィリピンをつなげたいと思ったんです。)
さっきまでカタコトだったエミリオが自分の夢を語るときにはすごく饒舌に話した。その姿に何か思うところがあったのか、麗は自分の悩みを今日あったばかりの彼に吐露した。
「It's wonderful. I have no dreams like you. There is nothing to exert oneself during a life for me. I have nothing.」
(素晴らしいですね。私には夢がなく、人生で頑張ってきたこともありません。私には何もないんです。)
「There are no such things. You talked with me who isn't good at Japanese in English. You can speak English. The language by which English is spoken most in the world. You have a possibility that only that can find out each other many people for can speak English. You're the person who can link many countries.」
(そんなことありませんよ。あなたは日本語の苦手な私に英語で話してくれました。あなたは英語が話せます。世界で一番使われる言語が話せるということは、それだけ多くの人と分かり合える可能性を持っています。あなたは多くの国をつなげることができるんです。)
「私が…多くの国をつなげる?」
「ダカラ…ガンバッテ。」
「ふふっ。」
立て板に水と言わんばかりの英語とカタコトな日本語とのギャップに麗は思わず笑ってしまった。そんな話をしているうちに父が帰ってきた。
「ただいま…ってあれ?2人ともいつの間に仲良くなったのさ?」
「え、ちょっと…ね。」
「チョットチョット。」
その姿に父も思わず笑みがこぼれた。父は本当は2人が仲良くなったこと以上に彼女が心の底から笑ってることに驚いていたが、何があったのかはあえて聞かなかった。
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それから1か月。予備校『暁』では最後の模試、共通プレテストが行われていた。休み時間の間にそれぞれ受験カードを記入していた。麗の受験カードには「国際学部」とか「英米文化学科」のような名前の学部・学科が記載されていた。それをたまたま見た美宇が声をかけた。
「麗ちゃん、結構国際色強め~。」
「Of course.」(もちろんよ)
と笑顔で返した。隣にいたみどりも
「麗、最近キャラ変わったね…。」
と思わず言った。麗は
「そう?気のせいじゃない?」
とはぐらかした。この日の帰り、麗は三津屋先生に呼び止められた。
「松江さん。犬山さんじゃないけど、変わりましたね。」
「先生まで、なんですか。」
「少なくとも今の君は、『何か見つけた人』の顔をしてます。」
「正直まだやりたいことは決まってません。でも、自分にできることは見つけました。」
とだけ言うと予備校を後にした。その後三津屋先生は回収した麗の受験カードを見て納得した。
「私ならやれるよね…エミリオ。」
そう心の中で呟きながらすっかり真っ暗な午後5時の星空を見上げた。E判定の才女の逆襲は始まったばかりだ。
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