第14話 北大オープン模試
10月のある日、前島弘は札幌行きの高速バスに乗っていた。北海道大学の2次試験を想定したオープン模試が翌日にあるからだ。当然、北大を目指す弘が参加しないわけがなく、自分の現在地を知るためにこのオープン模試に申し込んだ。
そんな彼はバスの現在地を知る由もなかった。英文法の参考書を読んでいるうちに眠ってしまっていたからだ。目が覚めたころにはバスは時計台の角を左折していた。弘は特に慌てることもなく真正面に札幌駅が見える終点のバス停で降りた。見渡す限りの高層ビル、行き交う人々、電子マネーで改札を通る人々。もし北大に合格したらこれが日常の風景になる、いやするんだ。弘は通学のイメージを脳内に描いた。
ホテルのチェックインまで時間が少しあるため弘は未来の母校(予定)を探索することにした。札幌駅の北口から7分ほど歩くとキャンパスの正門が見えた、ここを越えると雄大なキャンパスの風景が弘の眼前に一気に広がっていった。
「これが、北大…。」
そんなことを小声でつぶやいてから、キャンパス内を道なりに歩いた。クラーク像が見えたところで右に曲がると。法学部をはじめとする文系学部のある建物の前に着いた。自分が目指している場所がこの広大なキャンパスの中でかなりちっぽけなものであることに気づかされた。まあ、キャンパスが狭いのは文系の宿命ではあるが。ただ、その物理的な大きさが改めて自分がくぐろうとしている門が狭いことを実感した。
それからも弘はキャンパス散策を続けた。この日は土曜日だったが、多くの学生が行き交っていた。卒論かサークル活動かはわからないが、学生たちの姿を見て、弘は1年後そこにいる自分の姿を思い描いていた。入学したら最初に自転車買おうかな、なんてすでに合格が決まっているかのように考えたりもした。
そこからさらに歩き、学生だけではなくジョギングをする人やベビーカーを押す家族連れがいることに気づいた。ここまでくるともはや大きな公園である。この自然公園のようなキャンパスをさらに奥に進み札幌農学校第2農場を散策した。「リスが出ます」という看板を見ると何だか学術機関に見えなくてほっこりしてしまった。
気が付けばそろそろチェックインの時間だった。予約していた東札幌駅前のホテルに行くため、北18条から地下鉄を乗り継いでいくことにした。そこからホテル最寄りの駅前までは参考書も開く暇も、眠る暇もないぐらいにあっという間だった。部屋に荷物を置いた弘はラーメンを食べたい気持ちもあったが、それは明日のお楽しみ、ということにして近くのコンビニで夕食を済ませることにした。
おにぎりをウーロン茶で流し込むと、最終確認ということで過去問を少し勉強することにした。今日の昼間、実際に北大を見ることで通学や学生生活のイメージを膨らませてきた弘だが、いざ過去問に記載されている難問を見ると一つの現実的な問いが彼の頭を覆った。
---俺はそもそも北大に入れるのか。---
当然だが、こんなことを考えてもしょうがない。勉強するしかない、と思いシャープペンをとった。しかしやっかいなことにやればやるほど不安になる。あきらめた弘は明日に備えて寝ることにした。
---俺はなぜ北大を目指しているんだろう。---
---そういえば俺は北大に受かったとしても、結局何がしたいんだろう。---
弘は最近こんなことばかり考えている。枕が変わってもそれは同じだった。いつも自分の過去から答えを探すうちに、弘の目は閉じていた。
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日差しが刺さり、弘は目覚めた。サンドイッチをほおばり、シャワーを浴びて、歯を磨き、荷物をまとめ、俊彦がいつも見ているという『太陽剣士イーグル』が流れていたがその画面を消し、チェックアウトをした。ホテルから10分ちょっと歩くと会場に着いた。自分の検査室に入るとすでに多くの受験生が座っていた。弘は見渡すと悔しいが、やっぱりこう考えてしまった。
「みんな、頭よさそう…。」
ぼーっと突っ立ってると、一人の青年がうかがうように弘の名前を呼んだ。
「もしかして、弘か?」
弘はこの声に聞き覚えがあった。旭川第一高校でクラスメートだった下北桃矢だった。
「桃矢…桃矢じゃないか。」
かつての友との再会が、試験の緊張を和らげた。桃矢は弘と同じ北大志望であり現役の時は経済学部を受験し、玉砕した。卒業後は札幌の予備校に通い、寮生活を送っていた。もっと話したいことはあったが、試験の開始時間は迫っていた。
法学部志望の弘は英語、国語、そして大の苦手な数学の3科目を受験する。文系の総合入試なら数学は地歴と選択なので逃げることはできたが、それはなぜか弘のプライドが許さなかった。きっと両親の出身学部だから、というのもあるが、本当のところこのこだわりは自分でもわからないのだ。
最初はその苦手な数学だった。できないなりにもある程度解答を仕上げたつもりだ。それから英語があり、受験カード記入の時間を経て昼休みになった。せっかく再開した桃矢と昼食をともにすることにした。今日の模試の内容やお互いの浪人生活の話で盛り上がったが、桃矢は急にしんみりとした様子で弘にこう告げた。
「俺さ…北大あきらめとうと思う。」
「ほかの大学に行くってこと?」
「…ああ。札幌の予備校来たのはいいけど、ずっと判定は微妙でさ、なんのために来たのかなって思うと、なんかもう疲れたんだよね。」
「桃矢…。」
弘はショックを隠し切れなかった。桃矢はクラスでも明るくムードメーカー的な存在だった。誰にでも分け隔てなく接し、偏屈で堅物メガネの弘とも仲良くしてくれた数少ない人物だった。そんな太陽みたいな男の『闇』のようなものを垣間見てしまったのが俄かに受け入れられなかった。
「他の浪人生はさ、みんな目標があるんだ。だからすげえ必死になれる。俺は特にやりたいこともなくて、大学行くのはモラトリアムの延長ぐらいにしか考えていなかった。だからこれがまたE判定だったらあきらめる。俺が入れる大学はいくらでもある。」
弘はようやく気付いた。桃矢の高校時代の明るさは何もない自分に対する不安を隠すためのポーズだったのだ。キャラは180°違えど、根本は同じだった。桃矢は弘の底に気づいたからこそ本音を伝えたのだ。知り合って4年目、おそらく初めての本音だろう。弘もつい言い返した。
「何も…何もないからこそ何でも目指せるんじゃないのか。学歴主義じゃないけどさ、やっぱりこういう大学に入っておけばそれだけ人生の選択肢は広がると思うんだ。だからさ、目指そうよ北大。俺と一緒に。」
「一緒に、ねえ。弘はさなんで北大の法学部に入りたいわけよ。自分への拍付けかい?が」
弘は今一番悩んでることを聞かれて固まった。それから何かを絞り出すように答えた。
「…。」
「もし行きたい理由が自分のプライドのためだったら、やめたほうがいい。高すぎるプライドはいったんへし折られると、なかなか立ち直れない。入れたとしても、ずっとみじめなだけだぞ。」
「それでも…!」
せっかく何かを絞り出した弘だが、午後の試験の時間になった。最後は国語の試験、現代文が2問、古文と漢文がそれぞれ1問ずつあった。最後の試験が終わったとき、既に15時を過ぎていた。最後にどうしても桃矢と話がしたくて、彼の背中を追いかけた。
「桃矢!」
「おお、弘お疲れ。」
「桃矢、俺さ…やっぱり北大に行きたい。俺もやりたいことなんてわからないけど、合格した先で自分の道を決めたいんだ。だから…!」
すると桃矢はニコッと笑って
「わかったよ、弘。まったく、真面目かよ!…せっかく久しぶりに会ったのに、突っかかって悪かったな。」
なんだか久しぶりに『太陽』が上った気がして、弘は安心した。
弘は前日と同じ高速バスで帰った。旭川駅前で降りると母が車で迎えに来ていた。
「どうだった?札幌。」
「やっぱり都会だな…って。現役で受けて以来だけど、何回行ってもそう思うんだ。」
「模試は、どうだったの?」
「まあ…ね…。」
車中でしばらく黙り込んだ後、弘は母に問いかけた。
「母さん、俺は何で北大行きたいんだろうね。」
「そんなの母さんが知るわけないでしょ。」
「そうだよな…ははは…。」
「でもね…予想ならつく。1つ、あんたはお父さんに認められたい。2つ、あんた自身のプライド。」
弘はハッとした。思えば高校入学後、上位から漏れ目標とする北大には程遠い成績をとり続けていた。父は自分の息子の凋落にショックを隠し切れず弘と適切な接し方ができなくなった。弘は市議会議員の息子が落ちこぼれなんで言わせられない、父と同じ北大に入ることが自分が振り向いてもらう唯一にして最大の機会であると同時に前島家の名誉を守ることだと思っていた。それをすでに母は気づいていたのだ。
「もしかして図星だった?でもあんたがそこにこだわるのは私たちが悪いんだと思う。でもね…大学を受けるのはあんた。合格して行くのもあんた…だから、大学に行く意味は自分で決めてほしいんだ。」
「行く意味…でも俺、やりたいことが見つからないんだ。」
「それを見つけるために北大に行く…じゃあだめ?何もないってことは何でもできるってことよ。」
このセリフは今日の昼、弘が桃矢に言ったセリフそのものだった。自分ではそう言っておきながら気持ちは揺らぐもので、弘はどこかでこのセリフを他のだれかに行ってもらうことで何か確固たるものを得たような気がした。
「まあ、お父さんも入ったときはそうだったわね。」
「父さんが?」
「ええ、お父さんとは大学1年からの仲だけど入学したときは燃え尽き症候群っていうか、抜け殻みたいな人でね…。」
「抜け殻って…。」
「でも付き合ってからしばらくして、私の影響で弁護士目指すって言ったの。」
「父さんが弁護士になったっていうのは母さんに付いていくためだったのか。」
「ま、そんなところね。あの人、真面目なんだけど勉強しかなかった人だから世間知らずで、それに不器用なの。なんでも。だから、あんたが高校で勉強でうまくいかなかったときも何言ったらいいかわかんなくて、きっとあんたのこと遠ざけたんだと思う。」
「父さん、そうだったのか…。」
「だから、お父さんのことは母さんに任せて、あんたは自分のことだけ考えりゃいいのよ。それはあんたが一番わかってるはずよ。」
「…うん。」
「さ、もう少しで着くわよ。今日はあんたの好きなロールキャベツにしてあるから。」
そういって母は少し強くハンドルを握った。弘はこの2日間いろんなものがクリアになった。札幌でのキャンパスライフのイメージ、自分の北大との距離、自分が北大を目指す理由と父の本当の気持ち。弘はこのスタートラインに立つことへの思いをより一層オープンにすることに決めた。
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