第6話 フラグ回収
6月も下旬になろうとしていた。気温も25℃を超える日も出始め、夏がいよいよ目前に迫ろうとしていた。ただ浪人生の彼らの気持ちが夏空のように晴れやかになることはない。この前の模試の結果が出たのだ。
いや、正確に言うと本当に怖いのは模試の結果ではない。模試の結果を受けた三津屋先生のドS面接の方だ。放課後のロビーでは前島弘がすでにうなだれていた。
「はぁー、死にたい。俊彦、俺のこと、いっそ殺してくれないか。」
「それ、生存フラグだよ。たかが面談、聞き流せばいいじゃないか。」
「甘い、甘いよ。俺は入校式の後の面談であの人から『君みたいなタイプが一番失敗します。』なんて言われてんだよ。もし現役と変わらずE判定だったらさ、罵詈雑言の波状攻撃だな、こりゃ。」
そんな話をしているうちに急に奥のドアが開いて
「前島君、中に入って下さい。」
と、三津屋先生の呼び出す声が雑談を切り裂いた。弘はかなり驚いたが、すぐに吸い込まれるように事務室の奥に入った。俊彦は心の中で「生きて会おう、アーメン」とつぶやき、数学の公式集を読みながら自分の番を待つことにした。
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10分後、生ける屍とはこのことか、と言わんばかりにしょぼくれた弘が戻った。俊彦に「死んだ。じゃあね。」とだけ言って帰っていった。それからすぐに俊彦は三津屋先生に呼ばれた。
事務室の奥には小さな面談室があって三津屋先生はドアの奥側、俊彦は手前側に座った。お互いが席に着くとさっそく模試の結果が渡されて、面談が始まった。
「君は、現役の時は私立専願でしたか?」
「いえ…。」
「そうですか…。これを見てください。」
そう言って三津屋先生は模試の結果を俊彦に見せた。数学ⅠA、数学ⅡBはそれぞれ100点満点中94点と73点だった。一方の国語は69点、200点満点中の結果である。とりわけ古文・漢文に至っては10点ぐらいしか点数がとれていなかった。
「君ほど弱点が分かりやすい人はいません。このレベルだと今の勉強、というより現役のときからまともに勉強してないんじゃないですか?」
「まあ…はい…。」
ド直球だった。元々オタク気質の俊彦は好きなことや得意なことは徹底的に打ち込むタイプだった。それは勉強にも表れており、小学2年生のとき、クラスでだれよりも早く掛け算九九が全部言えた事に快感を感じたことをきっかけとして数学にのめり込み、理数科の高校入学後も数学は上位だった。その反面、苦手なことや嫌いなことは徹底的に避けるタイプであった。特に苦手な国語の授業は上の空か、先生の目を盗んで内職するかのどちらかだった。3年生の夏に慌てて勉強しだしたものの、基本が全く入っておらず、結局共通テストで玉砕した。好きなことを学びたいのに、苦手教科で阻まれてしまったことで、俊彦は国語に対する拒絶感がより一層強くなった。
三津屋先生が言ったことはもちろん、高校時代の担任からも言われており、その都度「はい、頑張ります。」みたいな言葉を返していてはスルーしていた。
「とにかく君は古典を基礎から勉強してください。以上。」
俊彦は『え、それだけ?』と思った。高校時代の担任は理科教諭だからまだしもこの予備校担任は国語の先生である。普通なら、アドバイスがあるはずだろう。そんなモヤっとしたまま、3分にも満たない面談が終わった。この面談で俊彦は「いえ」、「はい」、そして高校時代から言っていたこの口癖のたった三言しか声を発しなかった。
「はい、頑張ります。」
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次の日、俊彦は前回の模試で8割いかなかったということもあり、1時間目の古典が始まる前に数学ⅡBの問題集にかじりついていた。前の席に座ってた弘もその気迫に「お、頑張ってるね。」と一言声をかけるだけにとどめた。
9:00になり三津屋先生が入ってきた。俊彦はわかっていたものの、どうしても今の問題集をキリのいいところで終わらせるために『内職』をすることにした。
もう少し、あと少し…。そう思いながら、シャープペンを走らせたが、その動きは俊彦の想像以上に目立っていた。そして授業開始から6、7分ぐらいたったころ、三津屋先生の授業のときとは違うトーンの、やや重く鋭い声が俊彦を突き刺した。
「根本君、そんなことしてるなら授業受けなくていいですよ!」
全員が俊彦のほうを振り向いた。この時間はおそらく1秒にも満たないが、彼には長く感じた。慌てて数学の問題集をしまい、授業に臨む姿勢を見せた。その様子を特に見届けることもなく、三津屋先生は何事もなかったかのように授業に戻った。
さすがにまずいと思ったのか、俊彦はこの授業の一件の後、先生にとりあえず誤りに行った。『次からこういうことのないように』ぐらいで済むものと思っていたが、いろんなタイミングが悪かったのか、厳しい言葉が飛んできた。
「君、昨日の今日ですよ。古典が君にとって弱点のはず。それなら今日の授業はより一層集中すべきではないんですか。そんなことでは、国公立には受かりません。苦手科目から目を逸らさないでください。」
まあ他にもいろいろ言われたと思うが、想定外で頭に入ってこなかった。あやまればいい、と思っていたからだ。元々教師に反抗しないタイプの俊彦だが、この時、何かが切れた。
「…先生の授業聞けば俺は受かるんですか?国語だけできれば受かるんですか?俺だって、受験に必要なことをやってるつもりです。あと、俺は私立も考えています。確かに内職はいけなかったと思いますけど、どうしても優先順位は数学や英語が上になると思います。俺に国公立主義を押し付けないでください。」
「君、本気で言ってるんですか?」
すべて出し切った俊彦は三津屋先生の問いかけに対して、うつむいて黙ることしかできなかった。沈黙の後、三津屋先生は少し寂しそうに言った。
「君の気持ちはわかりました。もう僕からは何も言いません。でも、最後に僕の嫌いな一言だけ言わせてください。頑張れ。」
そう言って三津屋先生は事務室に戻った。
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この日1日、今朝の一件のせいで俊彦は結局授業が頭に入らなかった。夕刻になり、後悔の気持ちが頭の中を支配していた。今日は授業が終わたら速攻で帰ろう、そんな気持ちで少し速足で廊下を歩いていると弘と圭祐に呼び止められた。弘はフリーペーパーから切り取ったと思われる小さい紙きれを俊彦の眼前に見せた。そこには超有名ラーメン店の名前が載っていた。
「この割引券がさ、有効期限今日までなんだ。今圭ちゃん誘ったところなんだけど、俊彦も一緒に行かない?」
「き、今日は金曜。花金だよ。花金。」
俊彦は少し笑って
「圭ちゃん、『花金』は死語だよ。」
と突っ込んでから、母親に今日の晩飯はいらないことを電話で伝えた。
3人は買物公園のビルの地下のラーメン屋『電光軒』に入った。弘は野菜ラーメン、圭祐と俊彦は醤油ラーメンを注文した。ちなみに圭祐はバターコーンのトッピング付きだ。注文した後、水を一杯口に含んだ俊彦は大きなため息をついてから話した。
「やってしまったよ。弘、俺のこと、いっそ殺してくれないか。」
「内職見つかって怒られただけで?」
「そうじゃないんだ。そのあとまた怒られて、つい言い返しちゃった…。」
「な、何てさ。」
「国語できりゃいいのかとか、国公立ばかりなんだよ、とか…。」
「な、なんと…すでに死んでいる。」
「ひ、ひでb…」
「圭ちゃん、それ以上は言いなさんな。でも確かに、俺は受験生としては死んだも同然なのかもな…。普通予備校の先生に反論とかしないだろ、わざわざ。こんなんじゃ国公立合格以前に国語の授業に出れないし、予備校にも顔出しづらいし、いっそ宅浪で私立目指すかな。英数理なら何とかなりそうだし…。でも妹もいるから行くなら国公立だし…。三津屋はさ、そんな俺からどうしてやる気を削いじゃうかね。なんかもやもやするよもやもや。」
そんな話をしているうちに、熱々の湯気が出ているラーメンが俊彦たちのテーブルに置かれた。さっきまで話をしていたのが嘘のように3人はラーメンをすすった。
腹を満たした3人は店を出て帰路に就いた。道中、弘は中心街近くに住んでいるため他2人とは先に分かれることになったが、別れ際に俊彦にこんなことを言った。
「あのさ、俊彦。」
「ん?」
「さっきさ、いっそ殺してくれって言ったじゃん。」
「ああ。」
「それ、確か生存フラグだよね。」
「へ?」
「ほら、前に言ってたじゃない。」
「ああ、そうだっけ。」
「そう。ということだから、また月曜。」
そう言い残して弘は6条通りに消えた。
「俊彦、フラグは、回収するんだよね。」
「圭ちゃん…。これがアニメならそうだね。」
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日曜日の朝。俊彦は日課である『太陽剣士イーグル』を見ていた。話は中盤の盛り上がりどころであった。俊彦が気づいた大事なことは、作中の決戦を前にした主要人物たちのやり取りの中にあった。
『ねえ、イーグル。』
『ホークか…こんな遅い時間にどうした。』
『俺は不安なんだよ。この戦いで、また誰かがいなくなるような気がして。あなたは強い人だ。これだけつらい思いをしてなぜ戦えるんだ?』
『…俺だって、平気じゃないさ。』
『あ、ごめん…。』
『いや、いいんだ。戦いのたびに、仲間だけじゃない。敵も含めていろんな人間が死んでいった。俺はバードマンになりたての頃、剣の持ち方もよくわからなかった。そんな俺が今や数えきれないくらいの人を斬ってきた。殺してきたんだ。それでも本当の自由を、だれもが自分らしく生きる世界を、力のある俺たちが創っていかなきゃいけないんだ…。もう、後戻りはできないから。』
『イーグル…。』
『お前に一つ伝えたいことがある。俺の夢は俺がこの力を使わず、好きな本を読み、好きな音楽を聴き、好きなものを食べて悠々自適に生きることだ。その夢をかなえるためにはな、苦手なことややりたくないこともやらなきゃいけないんだ。だから明日、俺は逃げずに戦う。』
『俺も戦うよ。バードマンの一人として。』
『ありがとう…。さて、もう寝るぞ。』
『ありがとうか…。イーグルから初めて聞いたな、そういえば。』
『好きなことをやるために、苦手なことややりたくないこともやる。』特撮番組の王道ともいえる子どもたちへのメッセージが今、19歳の特撮オタクの胸に刺さった。エンディングと次回予告までしっかり見届けた後、急に立ち上がり洗い物をしていた母に
「ちょっと本屋に行ってくる。」
といって自転車を飛ばした。そして昼飯時に帰ってきた俊彦が抱えていた紙袋には、古典の単語帳があった。
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そしてあくる日の月曜日、1時間目の古典が始まる前に古典の単語帳にかじりついていた。前の席に座ってた弘は弾んだ声で「お、頑張ってるね。」と一言声をかけると、「弘、フラグ回収したぞ。」と笑顔で返した。
9:00になり三津屋先生が入ってきた。俊彦はテキストとノートを出し、授業に臨んだ。弘は、結局俊彦と三津屋先生との一件がその後どうなったかは知らないが、俊彦のあの表情からそれはもう知る必要もないだろうと思った。
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