第182話 あきらめたくない

 ゆっくり、はるは睫毛を上げた。

 愛し合った後に、こんなに虚しくなったのは初めてだった。

「………」

 日高はまだ寝ていた。

 スケジュールで決められた帰京時間はとうに過ぎている。

 日高を起こしたい気持ちと。

 起こさないまま帰りたい気持ちと。

 二つの気持ちがせめぎ合って、結局、起こさずに部屋を出た。


 日高が目を覚ましたのは、はるが部屋を出て二時間も経った、八時頃だった。

 -東京に帰ります-

 置き手紙にはそれだけ書いてあった。

(つい、この間まで)

 あんなに楽しくて。

 あんなに幸せだったのに。

 どうして、こんなことになっちゃったんだろう。

 やがて。

 はるの書いた文字は。

 どんどん滲んで。

 やがて黒い染みになっていった。



 翌日から、日高は弁護士という弁護士を探して、はるが祥子と結んだ契約解除を求めようとしたけれど。

 YOSHIMURAの『YO』の字を出しただけで、ロクに話も聞いてもらえず全て断られていた。

(こんなの、絶対おかしい)

 大きな、圧倒的な権力の前になすすべも無く、時間だけがむなしく過ぎていった。


 数日後。

 北川に日高は、撮影前に呼び出された。

「ねえ、青葉師範の電話、何であんたかけ直さないのよ」

「あ…」

 数日前、ホテルへかかってきた青葉の電話に、撮影で日高は出られなかった。

 ホテルのスタッフから折り返しの電話をかけるようにと伝えられていたのだが、ここ数日バタバタしていてすっかり日高は忘れていた。

「私も元門下生なんだから。師範にしては珍しいくらい怒ってらっしゃって。総会近いし、師範は会長なんだよ。先週訪ねるって言って訪ねなかったんだって?」

「あっ、そうだった」

「私の責任であんた東京行かせるって言ったから。後で行ってきて」

「え?」

「ウチも師範も今日の方がいいの。監督にも話はつけてあるから。他のシーンで繋いでおくから、とにかく早く行って来て」

「わかった」

 ホテルに戻ると、すでに関君が待っていた。

「日高さん、急ぎましょう」

「うん」



 -青葉師範邸-


師範せんせい、連絡もせず申し訳ありませんでした」

 日高は深々と頭を下げて謝罪した。

 青葉は、厳しい表情で一言、二言叱責した。

 が。

 やがていつもの穏やかな表情に戻ると、

「雄鶴さん、こちらへ」

 そう言って。

 大広間へ、日高を案内すると。

「ここへ、お座りなさい」

「あっ」

 日高は驚いて師範を見た。

「お早く」



 -長野県某所ホテル-


「日高、明日から撮影だから」

 開け放したドアをノックして、北川が日高に声をかけた。

「うん」

 青葉師範の所から戻ってから、部屋に籠って、山のような書類に日高は目を通し続けていた。

 再び、監督の都合で撮影もほとんど行われていない為に、日高は起きている間は、ずっと書類に向き合っていた。

 今も、北川の方へ振り返りもせずに頷いたが、

「あっ」

 帰りかけた北川に、

「先生、私、先生にお願いがあるの」

「お願い?」

「うん」

 少し疲れた表情で、日高は北川を見つめていた。

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