第180話 環と藍子

 明日は、長野に戻るという日の夜。

「ねえ、日高」

「ん?」

「あのね、私、二十一組いる如月流の夫婦つがいの中で、どうしても気になって仕方ない夫婦がいるの」

 この夜。

 はるが、日高に語った寝物語が。

 一人の人間としても。

 雄鶴の舞姫の一人としても。

 日高にとって心を揺さぶられるものだった。



 十八世次期家元、如月環きさらぎたまきと。同門の如月藍子らんこは、恋人同士だった。

 二人は、とてもとても愛し合っていたけれど。

 周囲の反対にあって、泣く泣く別れさせられたという。

 でも。

 別れる前、二人は人生最大の挑戦をした。

 雄鶴と雌鶴の舞に挑戦したのだ。

「で、勝ったんだ」

「うん。二人は、青葉師範のひいひいひいひい、おばあさんくらいの、立ち会い人の前で舞ったんだよ。代々青葉師範の家系が立ち会い人を務めているから」

「二人で舞う事も出来て、正解こたえを藍子は導き出せたんだ」

「そうなの」

「そうなんだ…」

「でも、時代が時代だから、環は、親の決めた相手と結婚して。たぶん、子供も生まれたみたいだけど、正直、家系図だけじゃよくわからないんだよね」

「じゃ、藍子は? 雄鶴の舞姫になったんでしょ」

「それが…。藍子の方はもっとわからないんだ。雄鶴は、本当は雌鶴の後見みたいな立場になるはずなのに」

「………」

「ただ、伝わるところによると、藍子は生涯誰とも結婚しなかったって言われてる」

「二人は二度と会えなかったの…?」

「…たぶん」

 はるは頷いた。

 如月家の家譜の中でだけ、二人は結ばれていた。

 夫婦として。

 でもその後、一度も会うことは出来なかった。

「一生……」

 日高は呟いた。

(あっ)

 はるは、息を飲んだ。

 日高の、こんな悲し気な表情かおを見たことがあっただろうか。

 瞳の奥に悲しみを宿して。

 唇をかみしめて。

 声もたてず。

 涙も流していなかったけれど。

 日高は、確かに泣いていた。

 心の深い深いところで。

 確かに日高は泣いていた。



 翌朝。

「ねえ、はる」

 二人で朝食を取っている時だった。

「今日、私、先に出るよ。事務所に寄ってから長野に戻る。社長が私に話があるからって。明日から、撮影やっと再開するみたい」

「あ、そうなんだ」

「だから、私が師範せんせいのとこ行くの、来週でいいよね」

「うん。青葉師範も落ち着いたらでいいっておっしゃって下さったし。私はもう引き継ぎしたから」

「うん…」

 頷く日高を見て。

(あんな話、するんじゃなかった)

 あれから。

 はるはずっと後悔していた。

 環と藍子の話なんてするんじゃなかった。

 人一倍繊細で感じやすい人に、あんな話をするんじゃなかった。

 日高の心の中で、小さなざわめきが起きている事は、手に取るようにわかった。

 どこかで、自分と藍子を重ね合わせて、疵ついていた。

 でも。

 この儚げな心の持ち主の、疵ついた心を慰撫する力を、とうてい私は持ち合わせてはいないのだ。

 環と藍子の話なんて、するんじゃなかった。


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