第149話 マリッジブルー(二)

「ダメ!」

 はるが先回りして、玄関の前で手を広げて立った。

「行かせない」

「何で」

「もう、会えなくなるかもしれないから」

「何それ」

「会えなくなるの。別れちゃうの。私たち」

 はるは、真剣だった。

「こういうこと、ずっと繰り返してる。でも、大人になればなるほど、うまくいかなくなってるの」

 はるの言葉に。

「………」

 日高は、何も言い返せなかった。

「日高が、何かに悩んでいるの、ずっと気づいてたよ。でも、言うのも怖くて言い出せなかった。私と……、私と、大人の関係になるのが嫌なの? だったら…」

 言いかけたはるを遮るように、日高が抱きしめた。

「はるの言う通りだ。行かなくて正解だった。私、行ってたらまたとんでもない結末をつくり出してたよ」

 二人の間に、ジャケットが舞うように落ちた。

「ねえ、はる、こっち来て」

 久しぶりに。

 日高は、はるの手を握った。

「う、うん…」

 二人は、ソファに並んで座った。

「ねえ、はる」

 日高は、はるに向き直った。

「本当のこと、言っていい?」

「うん」

 はるは、まっすぐ日高を見つめていた。

「私、お芝居しか出来ないの。舞台の上でしか生きていけないの。だから、家に帰って来ると何にも出来ないし、何にも言えないの。それが、だんだん辛くなってきて、はると一緒にいても、どうしていいか、わからなくなってきたの」

 日高は言った。

「こんな自分とはるが、釣り合わないって思い始めたら、どんどん何も出来なくなっちゃった。はるの事は大好きだけど、はるの事を困らせてる自分に、困ってるの」

 一気に、思いのたけをはるにぶつけた。

「………」

 はるは、驚いたように日高を見つめていたけれど。

「私、困ってないんだけど…」

 ポツリと言った。

「え?」

「私、困ってないよ。全然困ってない。日高が居てくれれば、それだけで幸せなの。でも、日高がまた一人で勝手に暴走して、私のそばからいなくなったら、すごく困る。っていうか、泣いちゃう」

 気づけば。

 はるは日高の手を、ずっと握っていた。

 離したら、この人はまたきっとどこかに行ってしまうから。

「それに…。日高、お芝居教えてくれるでしょ、私に。私のお仕事、女優もやっているんだよ。日高、いっつも教えてくれてるじゃん。日本中で、あんな風に教えてくれる恋人、日高しかいないでしょ」

「………」

「ねっ。私、困ってないの。日高のこと、尊敬しているし、大好きなの。日高が悩むことなんて何もないの。日高が毎日私のところに帰って来てくれれば、私は幸せなの」

 はるも、一気に思いのたけを日高にぶつけた。

「……わかった。ありがと」

 日高は、はるとつながった手に、自分の左手を重ね合わせた。

 その手をゆっくり手繰たぐり寄せて、日高は、はるを抱きしめると。

「ねえ、はる。もう一つだけ、誤解を解きたいんだけど」

「何?」

 日高の胸の中で、もう、とろけ始めたはるの背中に。

「私、はるを抱くの、全然嫌じゃないからね。むしろ逆。そこはなんか誤解されたくない」

「そうなの?」

 上目遣いで、はるが日高を見た。

「うん。それに何の根拠もないけど、多分私、上手いから!」

 日高の言葉に。

「………」

 またはるは、日高の腕の中で茹でダコみたいになっちゃって。

(下手でも上手くても、日高ならどっちでもいいや)

 そんなことを思っていたけれど。

 言葉にすると、きっとまたガチで怒るから。

「うん」

 って。

 小さく頷いた。

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