第135話 キーパーソン

 はるが大学から帰ったら。

 珍しく日高が誰かと電話していた。

「はい、じゃあ、後で」

 電話を切ると、

「ごめんはるちゃん、夕飯いらなくなっちゃった。北川先生に飲みに誘われた」

「えー!」

「ごめんねー」

 買い物袋を持ったままのはるを抱きしめて、

「ごめん、ごめん」

 踊るように左右に揺すると、日高は、はるの前髪を上げて額に優しくキスをした。

「なるべく早く帰るから」

「どこで飲むの」

「タツコさんのお店だって」

 ジャケットを羽織りながら、日高が言った。

「じゃ、近いね」

「うん。歩いて行くよ」

 そう言って。

 もう一度振り返ると、はるを抱きしめた。



 -スナック タツコ-


「こんばんは」

「あら、日高ちゃん久しぶり。今日子キョンキョン来てるわよー」

「ねー、そう呼ぶの、タツコママだけだから。せめて北キョンにして」

 北川は笑って。

「日高、ここ」

 手を上げた。

「ねえ日高ちゃん、あの人、開店前に来たから、アタシ、夕飯食べてないの。貸し切りにしてあるからさ、勝手に飲んでてよ」

「わかった」

 日高は頷いた。

 帽子を取りながら、カウンターに入ると、日高は、

「これでいいや」

 呟いて、高価たかそうなワインを開けた。

「ねー、日高さ」

「何?」

「何で今日私が、あんた呼んだかわかる?」

「さあ」

 日高は、そのままカウンターに残って、北川と向き合った。

「私の今度のドラマでさ、あんたの二ページ目の冒頭のセリフ、覚えてる?」

「〈人の名を聞く前に、われが先に名のれや〉ってやつ?」

「そう。さすが日高ね。話が早いわ。私ね、日高にだけは、私の本当の名前、教えなきゃって思ったの」

「本当の名前?」

 日高は、ワイングラスにくちをあてた。

「そ。もう、あんまり名乗らなくなっちゃったけどね。ちなみに、私の姉、誰だかわかる?」

「……わからない」

「吉村祥子」

「………」

「でね。私の本名はね、吉村今日子っていうの」

「……吉村…」

「そう。びっくりした?」

「今年まだ数ヶ月あるけど、たぶんこれが第一位いちばんかもね」

「でも、性格似てるでしょ」

「似てるね」

 日高は笑った。

「昔、あんた言ってたよね。姉と比べられてすごく嫌だったって。私なんか比べられもしなかった。母なんて、姉だけしか見てなかったし。演劇のことも、演出家のことも、あの人たちは認めようとしない」

「………」

「だからね、演出家名の北川今日子でいいやって思って生きてきたの。でもさ、愛憎って言うのかしらねー、今のYOSHIMURAを見てたらさー、居ても立っても居られなくなっちゃって」

「でも」

 日高は、ワインを注ぎながら目を上げた。

「私に、何でそれを言おうと思ったの」

「とぼけちゃって」

 北川は、笑った。

「日高のもう一つの名前聞かせてよ」

「………」

「如月流、最年少で師範になったんでしょ。如月日高さん」

 日高は。

 露骨に嫌な表情かおをした。

「ねえ。HALちゃん守りたいんでしょ。母と姉は容赦しないわよ。HALちゃんもYOSHIMURAも守るには、私たちが手を組まなきゃ無理なのよ」

「…いつ知ったの?」

「部屋を片付けてたら見つけたの、あんたの載った記事。でさ、時期は、私は少し違うんだけど、私も青葉師範せんせいの教室に通ってたことあんの」

「じゃ、はるのことも…」

「如月流の次期家元でしょ。さすがにすぐには思い出せなかったけど。でも、彼女は雄鶴の舞姫が現れなきゃ、ずっと次期家元なだけ」

「私はもう、こういうことに関わり合いたくないの」

 日高のイライラした様子に、北川は日高の顔を覗き込むようにして言った。

「主役になれって言ってるんじゃないの。キーパーソンになれって言ってるの」

「キーパーソン?」

「そ。私たちがカギを握ってるの。この大舞台のね」

 そう言って、肩をすくめて笑った北川の、いや、今日子の表情かおは。

 祥子にやはり、そっくりだった。

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