第75話 私のためだけに

 言葉の通り。

 翌朝は、何事も無かったかのように。

 二人は向かい合って朝食を取っていた。

「はる、本当に可愛くなったね」

 日高が言った。

「本当に?」

「うん。はるが髪が短くて、肌を焼いたらどうなるかなって、昔思ったことあったんだ。でもどうせ祥子さんがらみでしかどうにもならないから、言うだけムダって、言わなかったの」

「そうなの?」

「うん」

(良かった)

 日高の様子に、はるは胸をなでおろした。

「じゃあさ、後でキスしてもいい?」

「いいよ。私からしたいくらいだもん」

 いつもは紅茶に砂糖なんか入れないのに。

 ぎこちなく砂糖を入れている日高の手元を見ていると。

(不思議)

 この人じゃないと、私はダメなんだって。

 はるは、心の内から湧き起こって来た感情に。

「パンくず、ついてる」

 小さい嘘をついた。

 指先で、日高の頰に触れた。

「取れた?」

「うん」

(いつもは警戒心いっぱいで生きてるのに)

 私には、全くの無防備なんだ。

「ねー、日高」

「何?」

「それ、甘くない?」

「……甘いね」

 日高は笑った。

「ねえ」

「何?」

「この間の、冬の桜の歌詞さ、あれ、やっぱり誰にも触れられたくないの?私のこと」

 紅茶のカップにくちをつけながら。

 日高は静かにはるを見た。

 やがて、カチャリとカップを置くと。

「そう」

 小さく頷いた。

「二番の歌詞は “私の為だけに咲く冬のさくら” ってつづくの」

(私の為だけに咲く冬のさくら……)

 何てきれいなんだろう。

 何て、真っすぐなんだろう。

 でも。

「日高の愛情表現は、いつも舞台の上だね」

 はるの言葉に。

「舞台の上でしか、生きられないのかもね」

 日高は、ちょっと寂しそうに言った。

「ねえ、日高さ」

「ん?」

「今日からあの浴衣のCM流れるよ、確か」

「そっか」

 日高は頷いた。

「はると一緒に観たい」

「うん」

「今日はお稽古だけだから、それほど遅くならないよ」

 立ち上がった日高は。

 はるの後ろに回ると、首すじにキスをして。

「私の為だけに咲いて」

 そう言って。

 はるの花びらのような唇もとに、そっと優しくキスをした。

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