第2話 逢魔《おうま》

 嘉寶來かほうらいに戻ると、店の中でちょっとした騒ぎが起きていた。

 女主人が何やら喚き立てている。

「ほら、そいつを何とかしておくれ。ああ、殺すんじゃないよ。一応縁起物なんだからね。」


 見ると、一匹の蜈蚣むかでがあちこち這いずって逃げ回っていた。店の者がぶつぶつ言いながら、ほうきで追い出そうとしている。

「大方、また隣の薬舗やくほから逃げてきたのだろうさ。困ったものだね。」

「それで、どうだったの。何かわかったの」

 女主人はそう言った。玖晶の帰りを首を長くして待っていたらしい。

 ひとまずは女から聞いた通りの話を伝えると、女主人は納得行かないと眉をひそめた。


「あんたはその話を信じるのかい?」 

 玖晶は首を振った。

「やはり、あの人に何かあったようだね。歯がゆいと言うか、悔しいね。何とかできないものかしら?」

 訴え出たところで、確たる証拠がある訳でもなし、まず無理だろう。それに一筋縄で行く相手ではない。玖晶は忠告した。


「あの女は厄介だ。これ以上首を突っ込まない方がいい。」

「ふうん、泉さんて"見鬼けんき"だって噂があるけど、やっぱり何か見えるとかあるのかい?」

「そんなんじゃないです。ただの勘ですよ。」


 残念ながら、と言うより幸いにして、幽霊は見えない。あんなものまで見えるようではたまらない、と玖晶は思った。

 ご苦労さま、と、女主人はいつも使いに出た時の報酬に少しばかりおまけして渡してくれた。


 さて、寄り道して羊串でも食べて帰るとするか。玖晶が去ろうとした時、女主人が思い出したように声を掛けてきた。

「そうだ、ところで、王白羽って男に心当たりあるかい?」

「さあ、聞いたことがあるようなないような。誰です、それ?」

「丁度、あんたが出かけたのと入れ違いくらいに店に来た男衆が捜していたんだよ。話だと年の頃は、あんたとそれほど変わらないらしい。心当たりがあったら知らせてくれって。」


 男たちの様子からは、どうも少なからぬ賞金が懸かっているようだった、と。王白羽ってやつ、一体何をやらかしたんだか。


       ※※※※※※※※※※


 屋台の羊串はうまかった。欲を言えば、もう少し香料が効いている方が好みだったが、文句をつけるほどのものではない。概ね満足のいく味だった。


 つい酒も加わって食も進み、結局、貰った分だけでは賄えず、余分に支払うことになった。やれやれ、とんだ散財だ。まあいいか。要は好きな時に好きなものを食べるということが大事なんだ。


 玖晶はすっかり上機嫌で、もう昼間の気味悪い女のことなど頭から消えていた。


 辺りはそろそろ暗くなりかける頃合いだったが、往来が絶えることはなかった。瓦子は人で賑わっていた。


 大きな妓楼や酒楼が並び、所々屋台が店を出す通りは、むしろ昼間より人が増えている気がした。通るのは行商人、訳ありそうな女連れ、芸妓、お忍びの貴人らしき人、客引き、侠客、人ならざる者、そう狐狸の類が化けた者もいるかも知れない。それから……


 さすがに小さな子ども連れはあまり見かけない。いても足早に家路を急ぐ者がほとんどだ。玖晶は母親のことを思い出した。


 母は術者のようなことをして生計を立てていた。仕事の半分ははったりだとも言っていた。稼ぎの良かった日があると、幼い玖晶の手を引いて酒肆しゅしに飲みに来た。玖晶を向かいに座らせると、酒と二、三皿ほどの肴を頼んで、そのうちの串焼きを子どもに寄越した。


「こら、とっとと大きくなって、一緒に呑めるようになれ。」

 がつがつと串にかぶりつく玖晶を見ながら、彼女は笑った。その顔はどこか淋しげに見えた。


 さてと、くだらない思い出にふけってないで、そろそろ帰らないとな。そう思って足を早めようとした時、目の前に、すっと一陣の風が吹いた。


 あれ?何だか妙な感覚に襲われた。たった今、母親が自分の脇をするりと通り抜けて行った気がしたのだ。確かめようと振り向いて、大きく目を見開いた。莫迦ばかな、そんなこと有り得ない。


 玖晶の数歩先を母が歩いていた。自分は酔っているのだろうか?


 玖晶は一旦目を閉じ、一息おいてから目を開いた。もう一度しっかりと相手を見る。目に映ったのは別人だった。背格好からすると男だ。何で間違えたんだろう。


 しばらく見入って、ああそうか、と、玖晶は納得した。少しばかり雰囲気が似ていたんだ。背筋をしゃんと伸ばしてしっかり前を向いて歩く姿を、母と重ねたのだ。


 先方がちらりとこちらを向いた。遠目に見ても、端正な顔立ちをしているのがわかる。背格好から、さっきは男だと踏んだが、背の高い男装した女のようにも見える。一体どちらだろう。


 気になって目を離せずにいたら、二人の男が足早に、その人物の方に近づいて行くのが目に入った。


 二人の様子はどうも、普通ではなかった。彼らの手に握られていたのは、短刀だった。玖晶が胸騒ぎを感じた途端、男たちは、同時に彼に斬りつけた。


 危ない、刺される、と叫びそうになった瞬間、玖晶は思いがけない光景を見た。


 標的となった人物は、ふわりと揺れるように、相手の攻撃をけると、二人の手から素早く短刀を奪い取った。そして、顔色一つ変えずに、双方に突き立てて、何事もなかったように、すたすたと歩き始めた。二人の男は、ばたりと音を立てて地面に倒れた。


 やがて、倒れた男たちの周りに人垣ができて、ざわざわと騒ぎ出した。喧嘩だ、殺し合いだ、誰か呼べだの、と喚く声が耳に入った。


 玖晶は凍りついたようにその場を動けなかった。違う、誰も見ていなかったのか。喧嘩でも、殺し合いでもない、これは……


 ふと、我に返ると、人だかりから離れた所で、誰かが自分のことを眺めているのに気づいた。先程、目の前であの二人を倒した人物だった。彼は興味深げに、こちらの様子を見ていた。


 まずい、玖晶は蒼くなった。慌てて顔をらせようとして、むしろ、反対にしっかり目が合ってしまった。相手はにっこりと笑った。


 玖晶は、くるりと踵を返して、反対方向に歩き出した。初めはゆっくりと、徐々に早足で、終いには力の限り走った。後ろは見ないようにした。


 かなりの距離を走って、もう大丈夫だろうと振り返った。追ってくる気配はない。ひとまず、脇道に飛び込んで一息ついた。心臓がどくどくと音を立てて中々静かにならない。何てことだ。せっかく嫌なことを忘れて、いい気分になっていたのに、すっかり台無しになってしまった。全く、今日は厄日か。


 玖晶は、そのまましばらく身を潜めてじっとしていた。頃合を見計らって恐る恐る表に出ようしたところ、すっと目の前に何者かが現れ視界を遮った。


 背中にいきなり氷の塊を放り込まれた気分になった。当の本人が目の前に立っていた。やや、大きな切れ長の目、筋の通った鼻、薄めの唇に、形の良い顎。その顔がにっこりと笑った。年の頃は、まだ若く、自分と変わらないか少し上に見えた。普段なら、素直に綺麗な顔立ちだと感心したかも知れない。ただ、今はひたすら怖かった。


「また会ったね。」

 涼しげな声が響いた。

「あの、どこかでお会いしましたっけ?」

 落ち着け、とにかく落ち着くんだ。玖晶は平静を保とうとした。


「ついさっき、向こうの通りにいなかったかい?じっと見ていたようだったが、私に何か用でもあったのかな。」

「そ、そうでしたっけ?」

 とにかく、知らないで通すんだ。焦らずに落ち着いて振る舞えば、何とかなる筈だ、きっと。

「ああ、ではこちらの勘違いだな。悪かった。」

 と、男が言った。


 頼む、このまま無事に済んでくれ、と玖晶は祈った。


「ところで、訊いてもいいかな?」

 男が口を開いた。

 訊くって、いったい何を?玖晶は身構えた。


「さっき、いきなり走り出したけれど。何かあったのかい?」

「い、急ぎの用があったもので。」

「ふうん、走り方が尋常じんじょうじゃなかったように見えたけれど、気のせいか。急いでるなら、こんな所で休んでいていいのかい?」

「ええと、それは、その、良く考えれば、特段、急ぎでもなかったので……」

 言葉をにごしていると、相手は話題を変えた。


「ああ、そうそう、少しばかり前にあちらで、騒ぎがあったね。あれには驚いた。」

「け、喧嘩か何かでしたっけ。人だかりには気づいてたんですけど。」

「そう、喧嘩けんか、喧嘩だったね。でも何故?」

「え」


「あの時、他の連中は野次馬で寄って来るか、無視して通り過ぎていたけれど、君は背中を向けて歩いて、しばらくしてから走り出した。何故?」

「あ、だから、あれは急ぎの用を思い出したからで。」


「本当に?まるで何かから逃げ出したみたいだった。」

 ぞくりと背筋が冷たくなった。玖晶の額から汗がにじんできた。


「汗が出てるね。大丈夫?具合でも悪いのかな。」

 相手は玖晶の顔を見ながら、淡々と続けた。

「何か見たとか。」

「いえ。」

「怖いものでも見てしまったとか?」

「違います。」


「そうだね、例えば、あの喧嘩の一部始終いちぶしじゅうを見てしまったとか?」

「あ、あの二人が争う所なんて、俺は見てません。」


 二人だって?と男は首を傾げた。

「私はさっき、喧嘩とは言ったけれど、人の数までは言ってないよ?」

 男は探るような目で玖晶を見た。

「人だかりで見えなかったんじゃないのか?」

「喧嘩と言うから、二人じゃないかって思っただけです。揚げ足とるような言い方、止めてくれませんか?」

「見てたんだろう?」

「だから、何も見てません。」

 これでは堂々巡りだ、玖晶は苛立ってきた。


「しつこいな、だから、見ていないって言ってるじゃないか。俺はあんたが、あの二人に何をしたかなんて……」

 しまった。慌ててはっと口を押さえたが遅かった。相手は玖晶の答えを聞くと、楽しそうに声を立てて笑った。


「ほうら、やっぱり見てた。」

「……俺を、どうする気なんだ。」

 玖晶は後ずさった。男はゆっくりと近づいて来た。

「どうするって、まあ普通は始末するだろうな。あちこち言いふらされても困るしね。」


 口振りからは本気なのかふざけているのか、わからない。

「言わない。誰にも言わない。絶対言わないから。」

 見逃してくれ、と言葉にする前に、相手は首を振った。


「信じられないな。現にさっき喋ったじゃないか?」

 確かにそうだ。

「観念したら?」

 男の瞳が、一瞬ぞっとするほど冷たい色を浮かべて、また元に戻った。玖晶は体が固まって動けなくなった。


「り、理不尽だ」

 玖晶は、やっとの思いで口を開いた。あまり上手い言葉ではないが、とにかく何か言ってみるしかない。

「何だって?」

「理不尽だと言ったんだよ。納得がいかない。始末するだの何だの、人の生死をあんたの都合で勝手に決めないでくれ。」


「そうだな、考えてみれば、私も迂闊うかつだったし、こちらにも非はあると言える。」

 では、こうしようじゃないか、と男は言葉を続けた。

「三日だけ時間をやろう。三日後の日暮れまでに、逃げ切れたなら君の命は助けてやる。それでいいだろう?」


 いいも何も、他に選択肢をくれるつもりなどないだろう。玖晶は暗澹たる気分になった。


「決まりだな。」

 黙っているうちに、勝手にことが決められてしまった。

「行っていいよ。しばらく時間をやるから、何処どこへなりと逃げるといい。」


 玖晶は駆け出した。走りながら、ふと、嘉宝來で聞いた話が頭をよぎった。追われている男は、王白羽と言う名だっけ。彼がそうなのだろうか?











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