麒麟の麒《きりんのき》

たおり

第1話 釵《かんざし》

「ねえ、せんさん聞いてるの?」

「……あ、はい」

 一瞬返事が遅れた。不審に思われなかっただろうか、と玖晶きゅうしょう(こちらも本名ではない)は思った。この名を使い出してからそろそろ半年になるが、時々こんな風に忘れてしまう。用心しないと。


 嘉寶來かほうらいの女主人は全く意に介していないようだった。


「これを届けて欲しいんだけどね」

 彼女は台の上に細長い箱を出した。開けると一本のかんざしが入っていた。飾りの部分が牡丹ぼたんの花を象ったものだった。綺麗きれいな牡丹ですね、とめたら、それは芍薬しゃくやくだよ、と返された。どこがどう違うんだか、玖晶にはさっぱりわからなかった。届け先を告げると、女主人は表情を曇らせた。


 この品を取り寄せて欲しいと頼まれたのは三、四月ほど前のことだった、と彼女は言った。お代は先払い。注文主は気前のいい男だった。惚れた女に贈るのだ、と届くのを心待ちにして、何度もこの店に顔を出していたらしい。それが、ある日を境にぱったりと来なくなった。


 やがて件の品が届いたが男からはさっぱり音沙汰がない。取りに来るのを待っているうちに一月以上過ぎ、どうしたものかと思案していたところ使いの者が来て、注文の控えを出し、届け先の書かれた紙を置いていった。

 どうにも腑に落ちないのだ、と女主人は言った。


「あれほど、自分で直に渡すんだって言ってた人が、届けてくれなんて一体どうしたんだろう。」

「おおかた別れたんじゃないですか?」

「だったら、何か言いに来るなり、二度と来ないかのどちらかじゃないかしら。それが届けてくれだなんて、何か引っかかるんだよね亅

 それとなく様子を見て来い、ということらしい。


「届けるだけならしますけどね。この間みたいなことは御免です。」

 玖晶は半月ほど前の出来事を思い出した。あの時は何処どこぞの奥方が内緒で買った品を届けに行き、言いつけ通り裏の門口で出て来るのを待っていたら、間男に間違えられて、すんでのところで家の主に殺されそうになったのだ。厄介ごとなら、御免被ごめんこうむりたい。


「あれは、たまたま巡り合わせが悪かっただけよ。そうだ、帰って来たら、何か好きなものおごってあげるから。」

 うん、それは悪くないかも知れない。食べるなら羊串がいいな。

「わかりました。」

 玖晶は釵の入った箱を受け取ると店を出た。


 玖晶の仕事は本来とある私塾の助手であった。授業中の生徒たちの監督や雑用、また内々の手伝いをすることを条件に、朝昼晩の食事と寝る場所を得ていた。


 当初は小遣い銭程度の賃金も出ていたが、つい最近状況が大きく変わってしまった。近所に新しい私塾が開かれたのだ。新しい塾の教師はある程度名の通った人物だったため、元々さほど多くはなかった此方こちらの生徒たちがごっそりと移動してしまった。現在残っているのは十人に満たない。こうなると内情はかなり厳しくなった。


 ある日、塾長と奥方に呼ばれて「君をこれ以上ここに置いておくのは難しい」と告げられた。


 玖晶は困ってしまった。元々この辺に頼りになる身内も知人もないときたものだから、ここを追い出されたら、何処どこにも行くあてがない。よそに住まいを探して借りる金もない。給金はいらない、塾の手伝いを続ける、多少の食費を収めるのでこれまで通り置いて貰えないか、と頼み込んで何とか了解を得た。


 取りあえず、昼からの空き時間で何かすることにして、近隣の顔馴染みの店に声をかけ、あるいはそのつてで代筆なり使い走りなり雑事全般頼みごとがあれば引き受けることにした。


 嘉寶來の女主人から渡された紙には道順がこと細かく書いてあった。届け先は、店のある街の中心からやや離れた所だったが、今から出かければ夕方前には戻れるだろう。


 さいわい、途中まで同じ方向に行く荷車があったので、頼み込んで乗せて貰った。これで全部は歩かなくて済む。


 玖晶は道の分かれ目で、礼を言って荷車から降りた。表の通りから中に一本入ると周囲の雰囲気は大分変わった。人通りも少なくなった。


 この一角は、昔は瓦子がし(繁華街)であったものか、酒肆しゅし妓楼ぎろうだったらしい建物をちらほらと見かけた。今はほとんどが表の戸を閉ざして、店を畳んでしまっている様子だった。たまに開いている店があっても閑古鳥が鳴いて、店の者は暇を持て余していた。


 時折、寄って行かないか、と声をかけられたが玖晶は無視した。なるほど、こんな所に大事な店の者は寄越したくないと言う訳か。道を進むと辺りはどんどん寂しくなって行った。


 空き家ばかりが目立つようになった先に、その家はあった。

 どうやら、元は妓楼か何かだったものを手直しして住まいとして使っているようだ。周辺の建物が所々、古くなって崩れかけているのに対し、そこだけ綺麗きれいにきちんと手入れが行き届いているさまには、どうも奇妙な感じを覚えた。


 誰かに見られているような気配を感じて、ふと見上げると楼上の窓越しに人影が目に入った。相手は玖晶に気が付くと、すっと中に引っ込んでしまった。


 あまりいい感じがしなかったが、入口から声をかけた。暫くすると中から人が出て来た。


「どなたですか?」

「泉と申します。嘉寶来かほうらいの使いで届けものに参りました。」


 戸が開いて、この家の召使いらしき者が顔を出した。


「お入りください。」

 入れ、と言われて嫌な感じがした。嘉寶來の女主人には、様子を見て来いといわれたが、さっさと品だけ渡して帰った方が良さそうだ。玖晶がそうしようとしたら、召使いは首を振った。奥様が直接受取って中身を改めたい、と仰っている、一点張りで言うことを聞かなかった。仕方なく中に入ることにした。


 待合いと思われる間に通されて、そこで待つようにと言われた。室内には富貴花ふうきかを描いた屏風があり、その前に花梨の卓と椅子が置いてあり、壁には蘭亭序らんていじょを写した軸が掛けられていた。隅にある黒檀の花台の上には見事な青花瓷があった。


 玖晶は手持ち無沙汰に室内を歩き回り、何気なく花台に触れた。ぞくりと悪寒が走った。花台に見えていた物は灰色の石塊だった。上に載っている物も青花瓷などではなく、どろどろとうごめく何やら得体の知れない物だ。どうやら、ここにある物は全て見た目と実際が違うようだった。とんだ化け物屋敷に来てしまった。やはり、すぐ帰ればよかった。


「どうかなさいましたか。」

 いきなり、背後から声が聞こえた。玖晶が驚いて振り返ると、いつの間にか一人の女が花梨の椅子に腰掛けていて、じっとこちらを見ていた。


「その花挿しがお気に召しまして?」


 鈴を鳴らしたような声だった。女は細く整った眉をわずかに上げると口元を綻ばせた。伏し目がちに艶のある紅い唇を薄く開いて婉然えんぜんと微笑む様は、まさしく花顔玉容かがんぎょくようの言葉が相応ふさわしい美人であった。女の居る方から、すっと甘い花の香が漂ってきた。本来、それは芳しいと言って良いものの筈なのに、どこかねっとりとまつわりついて嫌な感じを覚えた。


「あ、はい素晴らしい染付だな、と。」

 玖晶は当たり障りのない答えをした。それを聞くと、女はくすりと笑った。


「お掛けになって。」

 先程出迎えた召使いらしき者が茶を運んで来た。

 恐る恐る椅子に腰を下ろす。卓に手を置いた途端、何人かの男の姿が見えた。彼らはそれぞれ別々の時に、ここに来てこの椅子に座って…そこから先は視界がぼやけてよくわからなかった。一体、どうなったのだろう。


「どうぞ」

 出された青磁の茶碗を手に取ると、これもまがい物だった。縁の欠けた古びた碗にとても茶とは思えない、鮮やかに赤いどろりとした液体が入っていて、中から小さな蜘蛛の子がわらわらと這いだしてきた。


 こんな時どうすればいいかは母に教わっていた。慌てず騒がず見て見ぬふりをせよ、こちらから構わなければ、大抵の相手は何もして来ない。そう言われていたっけ。玖晶は口を付けずに茶碗を置いた。


「あら、召し上がりませんの?」


 女は怪訝な表情で玖晶を見た。

「すみません、こちらを先にお渡しすべきでした。」

 お届け物です、そう言って、釵の入っている箱を差し出した。女は箱を開けて中を見ると、目を輝かせた。


「そう、これが欲しかったの 。届けていただいて感謝しますわ。前に見かけた時に、この牡丹の細工がとても気に入ったの。」

 牡丹じゃなくて芍薬です、とはあえて訂正しなかった。


「良かった。それを聞いたら贈り主の張様も喜ばれるでしょう。」


「あの人が?」

 女はけらけらと笑い出した。


「あの人がねぇ、さあて、今頃どこでどうしているのやら。実はあの人とはもう終わってしまったの。」



 女は続けた。

「ここのところ訪ねて来ないと思っていたら、ある日門に文が差してあったの。他に好きな女ができたから別れてくれって。その代わり、前から欲しがってたこの釵をやるから、ですって。酷い男ね。」

 同意を求めるような視線をこちらに向けたが、玖晶は答えなかった。


「ところで、ねえあなた」

 不意に女の口調が変わった。

「だから、私、暇で暇でしょうがないの。お時間があるなら、少し話し相手になってくださらない?」

 そう言って、さり気なく手を伸ばしてきた。


 彼女の手が触れる寸前に、玖晶は自分の手を引いた。


「あらあら。」

「すみません。こういうこと慣れていないもので。亅


 玖晶が言うと、女は楽しそうに笑った。

「ずいぶんと可愛いこと言うのね。」

 ここら辺りが潮時だ。これ以上、長居はしたくない。


「失礼します。」

 玖晶は、椅子から立ち上がった。残念ね、と女は言った。

「あなた、お茶に口をつけなかったわね。」

 細められた女の眼が鋭く光ったように見えた。

「どうしてなの?」

「そうでしたっけ?それはどうもすみませんでした。」

 玖晶は気が付かなかったという体で首を傾げた。

「まあいいわ。気が向いたらまたいらっしゃいね。お待ちしてますわ。」

 冗談じゃない。誰が二度と来るものか。

 

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