其の七「露天風呂で背中合わせ」
「見えたよ。あれが露天風呂ってやつかな?」
紅子さんの指差す方向を見てみると、霧とはまた違う湯気のようなものが見えた。
確かに、あれは温泉だろうな。それにしても、こんなところに天然温泉か。改めて考えるとすごいことだよな。普通なら、企業とかが管理してそうなものだが。
「近くにある小屋が脱衣所……ってことになるねぇ。一応看板がある。温泉周りは低いけれど衝立もあるし、覗き対策の努力をした後なのかな」
「だろうな。紅子さん、入るんだろ? 俺は外で待ってるよ。なにかあったらかけつけるから、ちゃんとタオルを巻いておいてくれ」
「それはあわよくば覗いてやろうってことなのかな?」
「そういうことじゃない。心配して言ってるんだよ」
「分かってるよ。じゃあ、見張りよろしくねぇ」
繋いでいた手を離し、彼女は脱衣所へと向かう。
「俺はここにいるからな」
「はいはい」
衝立になっている木の板を背にして、座り込む。
スマホで時間を確認すれば深夜3時だ。少しだけ眠い。
数分ほどだろうか、小屋の扉が軋んで開く音がすると、衝立の向こう側でバシャリとお湯を打ちかける音が聞こえてくる。
「……」
なんか、覗いているわけでもないのに顔が熱くなってくるな。
音だけが聞こえるというのも、なんというか、その……いろいろと想像してしまって心臓に悪い。
目を瞑って衝立に寄りかかるとなお、変な想像が膨らみそうになる。
「ぬるいのかと思っていたけれど、結構丁度いい温度だよお兄さん」
頭を振って、妄想を追い出す。
わりと間近で声をかけてきた彼女に返事をするべく、声をあげる。
「寒くないか?」
「うん、これなら上がっても湯冷めする前に帰れそうかな。もしかしたら、源泉はかなり熱いのかも」
外にあって、しかも管理がされていないのに丁度いい温度になっているということは、そういうことだろうな。ますます企業が嗅ぎつけないのが不思議になる場所だ。霧はあるが景観もいいし、天然温泉まで湧き出ている。土地は広いし、旅館のひとつでもあっておかしくないと思うのだが……やはり観光地にできない特別な理由でもあるのだろうか。
「ねえ、お兄さん」
「わっ、紅子さん?」
寄りかかっている衝立の、すぐ向こう側から声がした。
どうやら、今俺達は衝立を境に背中合わせのような状態になっているらしい。
「露天風呂でなにか嫌な思い出でもあるのかな」
その言葉で、俺は目を見開いた。
いや、あんなあからさまな反応をしてしまったら分かるか。
紅子さんは聡い人だ。あのとき、強迫観念のようなものに襲われていた俺を窘めて、内湯に入るように誘導してくれた。
俺がおかしくなっているのが分かっていたからだ。そして、その理由を問わずにあのときは収めてくれた。
「前にさ、神内に連れられて脳吸い鳥が出るっていう旅館に行ったことがあるんだ」
「うん」
彼女は軽い相槌を打って促してくれる。
これはいい機会なのかもしれない。俺の中にはあの出来事がしこりとなって残り続けている。なんとかできたんじゃないかとか、助けられたんじゃないかとか。所謂、トラウマというやつなんだろう。
「そのときに、会ったグループがいてさ。紅子さんなら知ってるか? 確か七彩のオカルトサークルだって話だったし」
「うん、知ってるよ。どうなったのかも、一応ね」
そうか、知ってるのか。なら話は早い。
「本当に脳吸い鳥が出たんだ。それで全員、殺された」
「うん」
「最初に犠牲になった子は、脳を取られた状態で操られて……俺達を罠に嵌めていった。彼女は、青凪さんは……露天風呂に入ったときに襲われて、操られてしまったんだよ」
「青凪……確か、怪異調査部の部長だったかな。そっか」
初日の夜、俺達が買い出しに行ったときだ。
紫堂君が見たと言っていた脳吸い鳥はクチバシが真っ赤に染まっていたらしい。元の脳吸い鳥はクチバシが黄色い。そのとき既に、露天風呂にいた青凪さんが襲われた後だったんだ。
「全部の鳥を殺して、青凪さんの脳も取り戻すことができたけど、彼女は俺に殺してくれって言ったんだよ」
「うん」
「俺、できなかった。あのときは、そんなことできないって言ったけど、紅子さんに言わせると俺はただ、人殺しになるっていう責任から逃げたかっただけだったんだ。彼女は、脳吸い鳥の鳴き真似をして、警戒して刀を構えた俺に当たってきて自殺した。あのときの感触はまだ覚えてるんだ。あんなことがまた起きたら嫌だって、怖くて、それで恐慌状態になっちまった。アリシアちゃんたちには悪いことをしたよ、本当に。楽しい気分を潰しちゃって」
「人の言葉を代弁するつもりはないよ。でも、アタシだったら、お兄さんに重いものを背負わせることになるからちょっと申し訳なく思うかも。普通の自殺じゃないし」
言葉を選ぶように俺の話に相槌を打つ彼女の表情は分からない。
衝立の向こう側でどんな顔をしているのかとか、不安になってもうかがい知ることはできないのだ。
「青凪先輩は最期になにか言ってた?」
「……お兄さんは、悪くないって」
「そう」
紅子さんはそこで一旦話を切ると、また言葉を選ぶように言った。
「本人に許されてるから、余計やりきれないんでしょ? 責められたほうが自分の気持ちが楽だからってさ」
「それは……」
事実だ。俺は、許されたくなんてなかった。
俺自身が俺を許せていないのに、被害者の彼女が許してしまったら、俺はなにも言えなくなってしまうからだ。
「お兄さんはズルイよ。でも、それでいいと思うよ。お兄さんが責任感強くて自分を責め続けるのは別にいいと思う。救えたかどうかのIFの話をするのはナンセンスだけれど」
彼女はそれに「でもね」と続ける。
「お兄さんはね、ちゃんと成長してるよ。その出来事があって、青水さんのことも、青葉ちゃんのこともあってさ、お兄さんはどんなときも……最善を取ろうと頑張ってた。だからこそ、今アリシアちゃんとレイシーが離れ離れにならずに済んでるんじゃないかな。きっと昔のままのキミなら、あり得なかったことなんだと思うよ。お兄さんのそういう未熟だけれど、努力して変わろうとしてるところは嫌いじゃないかな」
胸にストンと落ちるような心地というのは、こういうことを言うのかな。
そうだ。アリシアとレイシーは離れ離れにならずに済んだ。チェシャ猫のジェシュはいなくなってしまったが、それは紛れもなく一歩前進していることの証だった。
俺は、成長できてるのかな。
「ありがとう、紅子さん」
「どういたしまして。アタシだって、そういうところは認めてるんだよ? お兄さんは、初めて会ったときとはもう違う。今、アタシが首のガラス片を取ってって言ったら、お兄さんはどうする?」
もし、今またあの夢のときのようにガラス片に手を伸ばせた言われたら……? そんなの、決まってる。
「……手に取れるよ、今は」
「そうでしょう? なら、そのまま成長していけばいい。人間っていうのは失敗しながら進んでいくものだからね。それは人間の美徳だと思うよ」
パシャリ、とお湯の跳ねる音がする。
「スッキリした?」
「ああ、ありがとう」
「うん、それにアタシ達は黙ってやられるほど弱くもないよ……そうだ、アタシもお兄さんにちょっと相談したいことが……わっ!?」
「紅子さん!? 今行く!」
バシャンと、なにかがお湯の中に倒れた音がして俺はすぐさま助走をつけて跳躍し、衝立を掴んで向こう側へと降りる。刀を構えたまま周囲を見回してみても、なにも見えないが油断はできない。
「紅子さん、大丈夫か? 紅子さん?」
「……わっわっ、こっち見ないでよ! それに靴のまま入ってくるなんて非常識……し、心配してくれて嬉しいけれどね? アタシは大丈夫だよ」
「ご、ごめん! すぐ上がる!」
見てしまった……振り返ったときに、タオル姿の紅子さん。
髪が濡れないようにポニーテールを上で纏めあげ、いつもは見えないうなじのあたりが露出している姿。そして顔を真っ赤にしながらタオルを押さえる紅子さん。しっかり、見てしまった。
すぐさま隠れるように後ろを向いた彼女の姿。その背中に赤い痣のようなものが見えてしまい、俺は首を振る。
……痣なんてあったんだな。
いやいやいや! 考えるな……考えるな……彼女の魂のように鮮やかな赤い蝶々のような形の痣。気にはなるが、それの追求なんてしたら不機嫌になるどころの話じゃない!
それに今は彼女になにがあったのかを訊かないと。
「もう、いきなり黒猫が降ってきてビックリしただけだよ」
「そ、そうか。黒猫? どこに行ったんだ?」
「上から降って来たんだよね。ほら、木の上から落ちてきたんじゃないかな。お湯に濡れて飛び上がって、温泉の淵を走ってあっちのほうに行ったよ」
そのまま温泉から上がり、探してみるが黒猫の姿は見えない。
後ろから同じく温泉を上がってきて隣に並んだ紅子さんも探しているようだが、もう見つけられなくなってしまったみたいだ。夜目の効く彼女が見つけられないのなら、もう近くにはいないんだろうな。
「ねえ、お兄さん」
「な、なんだよ?」
「すけべ」
「わざとじゃないから!」
慌てて弁解すれば、紅子さんはクスクスと笑って「心配してくれて嬉しかったよ」と言う。
だから落としてから上げるのは卑怯だって!
「あ」
紅子さんが言葉を漏らして、手を前に出す。
「雨、降ってきちゃった」
「紅子さん、早く着替えてきたほうがいい。湯冷めしちゃうぞ」
「うん。あ、でもお兄さんも濡れちゃうし、ここの軒下で待ってて。すぐ着替えるから」
「わ、分かった」
軒下って……すぐ真後ろで紅子さんが着替えるってことじゃないか。
拷問かなにかか? 好きな子が真後ろで着替えているのを音だけ聞くなんて生殺しもいいところなんだが。
精神統一、精神統一……
「お兄さん、終わったよ。早く行こう」
「ああ、分かっ……!?」
紅子さんは、浴衣姿になっていた。
桜色の浴衣に金色の刺繍で桜の柄が入った可愛らしい浴衣だ。多分、あの資料館で貸し出してくれたやつなのだろう。
髪は濡らさないようにしていたからいつもの通りだが、直前まで温泉に入っていたからなんだか色っぽいというかなんというか……とにかく、彼女に恋をしている俺の心が重傷になるような姿だった。
「この旅の目的は達成した? おにーさん」
「今達成した。でもまた別の目的ができたよ」
「ふうん、それは?」
「紅子さんともっと仲良くなりたいってことだよ」
「そ、そっか。えっと……雨が強くなる前に早く帰ろう、お兄さん」
「そうだな」
どちらともなく手を繋いで資料館へと帰る。
無事に部屋に着く頃には、外は大雨になっていた。
「うわあ、これは明日大変かもねぇ。いや、今日か」
「古い建物だから音が凄いな。眠れるかな」
「寝るしかないよ。それとも、徹夜でお話でもする?」
「いや、俺はともかく紅子さんこそ早く寝たほうがいいよ。徹夜は美の大敵って話だし」
「よく分かってるねぇ。じゃ、おやすみ。令一さん」
「おやすみ、紅子さん」
紅子さんと別れて部屋に戻る。
雨は、ますます強くなっているようだった。
「この村、大丈夫かな」
俺は着替えてすぐにベッドに入る。
「そういえば……紅子さんの相談ってなんだったんだろう」
考えながら、目を瞑る。
微睡みの中で、どこかで鈍い音が響いていた気がした。
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