其の六「深夜の逢瀬」

 コンコン、とノックの音が響いた。


「あー……?」


 枕元のスマホを手に取って見れば深夜2時。丑三つ時というやつだ。


「こんな時間に……?」


 コンコン。さらにノックが重ねられる。

 一体誰が? そう思って、身を起こす。

 そもそも、俺達は誰かを訪ねるときにはチャットのほうで連絡を入れると決めたはずだ。つまり、その扉の向こう側には得体の知れない誰かがいるということになる。


 狙われたのが俺で幸いだったな。俺なら対抗手段はいくらでもある。ただし……油断しなければ、と付くが。

 リンと赤竜刀があれば大抵のことはなんとかなるはずだ。


 赤竜刀を鞘ごと持って、摺り足で扉に近づく。それから、扉に手をかけて……


「え……」


 するりと、扉をすり抜けて赤い、紅い蝶々が部屋に入ってきた。

 その蝶々には見覚えがある。これは彼女の、紅子さんの魂の形そのもののはずだが。


「紅子さん?」


 俺が声をかけると、紅い蝶々は宙で紅子さんの姿へと変化する。

 ふわり、と俯いたままの彼女が落ちてくる。髪の隙間から覗く表情は、なんだか不安に揺れているようだった。こんなにも不安そうに濡れた紅い瞳は見たことがなかった。


 そんな彼女に、同じく不安になった俺は、思わず腕を広げて彼女を抱きとめた。どうしたんだ? 着地ミスなんて彼女らしくもない。


「あ、あの、紅子さん?」


 それから彼女は困惑する俺の懐へと顔を埋め、ぐりぐりと猫のように額を押しつけてきた。


「紅子さん。どうしたんだ?」

「お兄さん、女が夜中に訪ねてくる理由なんて……野暮なことは言わないでよ」


 ほんの少し、いつもよりも細い声に心臓が跳ね上がるような心持ちになる。

 いや、からかってるんだろ? 分かってるんだからな。いつもみたいにエロネタを仕掛けてきて面白がってるんだ。そうじゃないと説明がつかないぞ。


「せっかくアタシが夜這いに来たっていうのに、お兄さんは喜んでくれないのかな」


 嬉しくないわけがない。

 が、それが真実だとも思っていない。少しは普段の行いを考えてくれよ。


「ふふふ、喜んでないわけがなかったね。ドキドキしてるでしょう。聞こえるもの」

「そ、そりゃあ……仕方ないだろ」


 なおも彼女は俺の懐で猫のように甘えているので、恐らく心臓の音も聞こえているんだろう。なんでこんなことをしているのかが分からないが、とにかく役得ではあるので、素直に騙されておこうかなと流されてしまいそうになる。


「紅子さん、なにも本当に夜這いしに来たわけじゃないだろ?」

「据え膳だというのになにもしないの? お兄さんってば本当に意気地なしだよねぇ」

「ぐっ、な、なじられるいわれはないぞ。紅子さんだって、俺が本気にしたら逃げるんだろ? 夢のゲームではいつもそうしてるって言ってたし」

「まあね。そんなことになる前に逃げるよ。今日のアタシはちょっとおかしい……ただそれだけ。急に寂しくなっちゃった猫さんなのかも」


 体調を崩していたから、精神的に少し弱っている……とか? 

 あの紅子さんが? でも、目の前の現実は変わらない、


 俺はびっくりした態勢のまま彷徨わせていた手を、そっと彼女の頭に乗せた。頭一つ分ほど低い位置にある彼女のポニーテールがほんの少しだけサラリと動く。


「ふふふ、大サービスでしょう」

「いつもはこういうの、逃げるからな」


 クスクスと笑う彼女に困惑しながら、間近にいるその姿を堪能する。

 風呂上がりというわけでもないのに、やはり女の子だからかシャンプーのいい香りが漂っていた。


「ねえ、お兄さん」

「なんだ?」

「このまま、二人で深夜のお散歩でも行こうよ」

「今からか」

「うん、だって……令一さん、露天風呂が怖いんでしょ? 安全確認、しに行こうよ」


 その言葉にハッとする。


 彼女は、俺が華野ちゃんに詰問した理由を聞いてくることがなかった。

 けれど、なにかあるということはきちんと理解していたのだろう。あのとき俺に理由を問わなかったのは、多分俺の精神的なところを気遣ってのことなんじゃないか? 


 だからわざわざ、他の二人に聞かれない深夜に尋ねてきたんだ。


「分かった」

「ついでに一緒に入っちゃう?」


 悪戯気に笑う彼女に苦笑する。

 混浴できるものならしたいが、生憎と水着なんて持ってないし、タオルだけじゃいくらなんでもダメだろうと思ってだ。


 それと、多分俺が乗り気になっても紅子さんは一緒に入るなんてことしてくれないだろうし。


「アタシは入りたいから荷物を持っていくけどね。お兄さんは見張り番よろしく」

「って、え? 本当に入るつもりなのか?」

「うん。安全確認をするなら、入って確かめるのが一番だよ。覗きが出ないかって問題もあるけれど。その点、お兄さんなら大丈夫かなって」


 信頼されているようでなによりだ。


「だってお兄さんヘタレだし、覗きなんて大胆なことできないでしょ?」


 悲しい信頼だった。


「俺にとって残酷だとは思わないのか? 紅子さん」

「え……ほら、お兄さんって無理強いしないでしょう? そういうところだけは嫌いじゃないよ。だから甘えちゃうのかな」

「……そうか」


 嫌いじゃないよの言葉ひとつで懐柔される俺ってものすごくチョロいんじゃないかと思うが、まあそれなら信頼に応えるべきだろうと納得してしまうんだよな。紅子さんの言うことには弱いんだ。仕方ない。


「それじゃあ、行こうか」

「ああ」


 突然繋がれた手に驚きつつも、引っ張られるままに部屋を出る。

 手を繋ぐのは有料コンテンツだとかなんとか言ってた癖に調子のいいことだ。

 手を繋ぐと言っても、彼女が俺の腕を掴んでいるだけだが……それでも嬉しい。嬉しくないわけがないんだ。


「ついでに祠の幽霊ってやつは見に行くのか?」

「ううん、行かないよ。だって真夜中のお散歩〝デート〟なんだよ? 二人っきりじゃないと意味ないでしょ。分かってないなあ、お兄さんは」

「それ、本気で言ってるのか?」

「さあてね。お兄さんが解釈したいほうに解釈すればいいんじゃない?」


 そんなことを言われると夢を見たくなってしまう。

 まったく、紅子さんはズルいなあ。


「アタシはある程度夜目が効くけれど、お兄さんは足元気をつけてね」


 ああ、なるほど。だから手を繋いでくれているのか。

 まったく、素直じゃないよな。そんな些細な気遣いがあるから、俺は彼女のことが好きなんだろう。ましてや、嫌いになることなんてできるはずがない。


 初めて会ったときなんかは面倒臭い子だなあなんて思っていたのが、遥か昔のように感じさえする。


「ありがとう、紅子さん」

「早く行って、早く温泉の安全確認をして寝たいだけだよ。お兄さんが転んだりしたら時間が勿体無いからね」


 そんな、ツンデレのテンプレートのような言葉を言い放って紅子さんは先を行く。俺は繋がれた手の温度と、その後ろ姿を見ることしかできないが、髪の隙間から覗く耳がほんのりと赤く染まっていることに気がつくことはできた。

 決して指摘をすることはないが、無視することも俺にはできない。


 彼女の手で掴まれた腕を緩くほどき、行き場を失ったように彷徨った彼女の手をしっかりと握り直す。

 今度は彼女が俺の腕を掴むのではなく、ちゃんとした手の握りかただ。恋人繋ぎとも言う。


 紅子さんの手はほんの少しだけ逃げる素振りを見せたが、自分が言い出した手前か、結局諦めてされるがままだった。


「照れてる?」

「照れてない」


 ついこの前、紫鏡のときにしたやり取り。

 変わらず、彼女は前を進んで顔を見せてくれないが、あのときと同じように、やっぱり今も顔を赤くしているだろうことが手に取るように分かる。

 さっきよりもずっと耳に差した赤みが強い気がするからだ。


「お兄さんは卑怯だよねぇ」

「なんの話だ?」

「そういうところだよ」


 すっとぼければ呆れたように彼女が続ける。

 紅子さんだって俺をからかってばかりなのだから、俺がそれをしたっていいだろう。その指摘はお互い様だ。


 サクサクと土を踏みしめて歩く。


「たまにはこういうのも、悪くはない……かな」

「たまにじゃなくても、もっとこうしてくれてもいいんだけどな」

「ほら、調子に乗らない。たまにあるからこそ、こういうのはいいんだよ」

「いつもある幸せっていうのも、いいもんじゃないか?」

「……それは告白かな?」

「いや、違うな。持論だよ、持論」

「そっか、それなら仕方ないねぇ」


 そんな曖昧なやり取りをしながら、俺達は露天風呂への道中を並んで歩いて行くのだった。

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