其の九「おバカじゃないビル」
「こっちだよ」
俺達はしっかりとチェシャ猫について歩く。
彼が本当にチェシャ猫かどうかなんて猫耳と尻尾を見れば一目瞭然だし、レイシーの名前を知っていたのだから信用はできるはずだ。
こちらには紅子さんだっているし、俺も戦闘はある程度できる。万が一があっても十分対処できるだろう。
そもそも、チェシャ猫は俺達の前を歩いているので奇襲できるのはこちらのほうだが。
「いやー、まさか女王様が助っ人を連れて来るとは思ってなかったなー」
「チェシャ猫が無事でなによりだよ。レイシーは心配しなくても大丈夫って思ってるみたいだったが」
「あー、ボク愛されてるねー! さっすがボクの大好きな女王様! えへへへ」
チェシャ猫は横目にこちらを見ながら、その異形の左手で頭をかいた。こう見ると普通に人懐っこい猫のようだが、チェシャ猫のイメージとはどうしても逸れている気がする。もっと食えないやつとか、飄々としているやつだと思っていた。物語のイメージ的に。
「なあ、チェシャはアリスが暴走した理由は分かるか?」
「うーん…… 分かんない」
今度はこちらに振り返ることもなくチェシャ猫は言う。
そうか、まあこいつも物語の登場人物だし、外部要因で物語が狂っているならメタ要素の強いチェシャ猫でもさすがに感知できないだろう。
「訳も分からず襲われる…… か。嫌なものだねぇ」
「ボクとしては女王様が無事ならなんでもいいよ」
あまりにもあっけらかんと言うものだから一瞬なにを言っているのか分からなかった。他の仲間達はいいのだろうか。
チェシャ猫ってどちらかというとアリスとセットのイメージがあるか、こいつはレイシー…… 女王のほうを溺愛しているな。
レイシーがアリスだった頃に仲良くなったとかか?
彼女はアリス時代の記憶がないみたいだし、友達が突然記憶を失くしたようなものだろうか。それでもそばにいるってことは、よほど仲が良かったんだな。なんか切ない話だ。
「おおう、チェシャ! 待っておったぞ!」
「はあい、女王様。ボクお使いできたよー」
「うむうむ、良い子じゃのう!」
「もしもーし、おーい、レイシー」
森の開けた場所に出ると、切り株に座るレイシーとそのすぐそばでなにやら不審な動きをするペティさんと合流した。
レイシーはチェシャ猫を見つけると勢いよく立ち上がって歓迎するし、そんな彼女にちょっかいをかけていたペティさんはがっくりと肩を落とす。
「無視かよー、酷いぜ」
安定の嫌われようだな。
少しのからかいでここまで腹を立てるとは…… ペティさんはどちらかというと字乗さんの巻き添えを食らったようなもののはずだが、笑うのもアウトだと少々判定が厳しいな。
一緒になって笑ったりせずに良かった。心底そう思う。俺まで嫌われていたら非常に話が進めづらいからだ。
「ごめん、レイシー。ペティさんのことは最低限返事してくれないか? 最低限で構わないからさ。いつアリスが来るか分からないし、声をかけて返事をしてくれないと無事かどうか分からなくなるだろ?」
「最低限で良いのだな? 私様はチェシャが守ってくれるから心配無用だが、そうだな。そこの帽子が滅多刺しにされる可能性を考えておらんかったようだ」
「それは俺様が殺される前提の話か? 言っておくけど俺様は強いからな。こっちこそ心配ご無用だぜ。そこの猫ちゃんがちゃんとボディガードになるかどうかは知らないけどな」
「ペティさん……」
「ボクもこいつ気に入らない……」
皮肉に皮肉で返すものだからいつまでたっても和解できない。
ペティさんもだいぶ捻くれているようだ。一言余計とも言う。前半までの言葉だったらまだ良かったのに…… この人は連携する気があるのかないのか…… 先が思いやられるメンバーだな。
「もうアタシ達で話を進めるしかないねぇ…… 頭脳労働は疲れるんだ。帰ったらお兄さんの作るアップルパイでも食べたいね」
「ああ、精神的にも疲れそうだからな。いくらでも作ってやるよ」
「それはそれは楽しみだ。楽しみだから少し頑張ろう」
微笑む紅子さんと約束して笑う。
帰ったら云々はフラグになりやすいが、紅子さんは死ぬことがないみたいだから少しは安心しててもいい…… よな?
まだまだ言い争い続ける三人を放置してどうしようか? と思考する。
城は遠くに見えるが、チェシャ猫かレイシーの案内はほしい。
特にレイシーがいればこの国の住民に聞き込みしやすくなるだろう。
外部から来たアリスが荒らしているのだから、俺達も彼女がいなければ警戒されるかもしれないのだ。もしかしたら攻撃だってされるかもしれない。そうなると解決するのに時間がかかってしまうから、疲れもするだろうし…… なにより朝までに戻らないと我がクソッタレご主人様になにされるか分からない。
―― 「私を差し置いて朝帰りとは、そんなに元気が余っているのなら、私の相手になってくれるかな? もう、れーいちくんの…… イ・ケ・ズ」
想像が簡単につく。
いつもの三倍くらい気持ち悪さが増すに違いない。殴りたいあの笑顔。
ただしあの屋敷の中では俺の力じゃ敵わないので、なんとしてでも外に誘き出す必要があるのだが。そうしたらいくらでもぶった斬ることができるのに……
「にゃ? なにか来るよ」
チェシャ猫の黒い耳がピクリと動く。
反射的に彼が顔を向けた方を見ると、その木々の隙間から大きなトカゲが一匹。走り抜けてきたところだった。
「おやおやこれは女王! ご機嫌麗しゅう」
「うん? お主はもしかしてビルか? トカゲのビルなのか?」
「はい、ビルにございます!」
「はあ? キミが!?」
喋り出したトカゲにレイシーとチェシャ猫が信じられないものを見るような目で声をあげた。
トカゲのビル? なんだっけか…… アリスの物語っていうと白い兎と帽子屋とチェシャ猫とトランプの兵隊ってイメージしかなくてな…… うーん、分からない。そんなのいたか?
「あの頭の弱いビルがどうしてこんなに紳士然としているのじゃ!? 意味が分からんぞ! 逆に恐ろしいわ!」
「ついさっきアリスから隠れたときはまだ馬鹿トカゲのままだったのに、いったいどうしちゃったんだキミ!」
「失礼な。わたくしは目を覚ましたのです。女王様に礼を尽くすのは当たり前のことですし、馬鹿なトカゲなんてもういません。皆だってそうですよ! アリスから逃れる恐怖のあまり、皆抑圧していた本来の可能性を引き出されている! ああなんて気分がいい! 最高だ! 頭がいいってサイコー!」
「あ、今のは前のビルっぽいね。その調子で元に戻ってよ。ボク猫はだが立っちゃう!」
猫肌…… ?
いや、それにしてもチェシャ猫は結構辛辣な物言いをするな。
なんだか性格も子供っぽいし、やっぱりどう考えてもニャルラトホテプである奴とは違うな。雰囲気が似ていただけ、なんだよな。きっと。
「前のわたくし…… ? 前の、前の、前の? 前の…… 馬鹿だったわたくし? 前、前、マエ、まえ…… わたくしは、どんな、性格で、どんなことを言って、ましたっけ…… ? わたくし、わたくし、ぼく、ぼ、く…… は…… ? なにをすれば、いいのでしたっけ…… ?」
おっと、なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。
トカゲのビルはチェシャ猫に指摘されるとすぐに取り乱し始めた。
完全に様子がおかしいぞ。これは、アリスと会ってなにかあったのだろうか?
「ビルがアリスから逃げ切ってる時点でおかしいとは思ってたけど…… なにこれ。ボク、こんなの知らない」
「臆病で愚図な奴じゃからな。アリスに会ったのならとっくに殺されておるはずじゃ」
仲間にこれだけボロクソ言われるなんて、可哀想になってきたぞ。
「わたくし、ぼく、わたくし、ぼく、わたくし、ぼく、ぼく、わたくし…… ああ、あ、〝 トカゲのビル 〟に大切なものは……」
ビルが頭を抱えてその場にうずくまる。
レイシーは心配したのか、それに近づこうとして即チェシャ猫に止められていた。
「まさかと思ったが…… こいつのおかげでアリスが狂った原因が分かったぜ」
ビルの周りに、不可視のなにかがいる…… 透明ななにかが。
ビルを中心にとぐろを巻くように大きな体をグルリと囲んだそれは、シルエットだけなら魚のように見えた。
俺は重要なことを呟いているペティさんを横目で捉え、そしてまたビルへと視線を戻す。
紅子さんは既に戦闘するき気になっているのか、周りに浮かんだ人魂から自身を殺した凶器であるガラス片を取り出し、油断なく彼を見つめている。
「ペティさん、これっていったい…… ?」
「まだ推測だぜ。この件を片付けたら教えてやるよ。先に言うことは、トカゲは傷つけるなってことだけだな」
彼女はそう言ってニヒルな笑みを浮かべると、トカゲのビルの背後を指差す。
「さあ、お馬鹿なビルを〝 返して 〟もらうぜ」
そしてペティさんがそう言った途端、ベリベリとなにかが剥がれるような、そんな不快な音が響いた。
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