其の六「黒い微笑み」

 そのとき甲高いブレーキ音が、響いた


「ああ、ジェシュ! ジェシュ! やっと見つけたのに!」


 少女が道路の真ん中で横たわる黒い影を抱き起す。

 彼を轢いた車は猛スピードで曲がり角を走行していったが、少女の目にそんな姿は入っていない。

 そう、たとえそんなスピードで曲がり切れるはずがないことも、その先が行き止まりになっていることを知っていても、少女にとっては目の前のことが全てだったのだ。

 腕の中で体を無理な方向へ曲げられ、血塗れになっている黒猫はもう動かない。


「ごめんね、ごめんね、私がドアを開けっ放しにしちゃったから…… お外は怖かったよね。ごめんね、ごめんね、早く見つけられなくてごめんね……」


 泣きじゃくる金髪の少女は道路の真ん中から動くこともせずに留まり続けている。


「お姉ちゃん! ジェシュ見つけ…… ジェシュ!? そんなっ」


 長い金髪の少女に短い金髪の少女が駆け寄ると、その腕の中にいる黒猫に悲痛な声をあげた。


「お姉ちゃん、ジェシュを連れて行こう? お父様とお母様に言わないと」

「いや、いやだ! ジェシュはまだ大丈夫……」

「お姉ちゃん……」


 妹らしき少女が何度言おうとも姉は動かない。

 しまいには雨まで降り出したが、少女は構わず泣き続けていた。


「お姉ちゃん、あたしお母様達を呼んで来るわ。だから、ちゃんと待ってるのよ。風邪ひかないように、せめて端に避けて……」


 妹の進言も構わず猫を抱きしめる少女は答えない。


「待ってるのよ?」


 悲痛な面持ちで妹が去ると、再びその場所は少女の泣き声だけが響くようになった。

 けれど、そんなタイミングを計るように彼女に影が忍び寄る。


「どうしましたか、お嬢さん?」


 泣き続ける彼女の頭上に影が指す。

 降りしきる雨が、背後から現れた男の傘によって遮られたのだ。


「ジェシュが、大切な猫が事故で……」


 やっとのことでその言葉を口にした彼女はなおも泣き続けている。


「そうですか、それはそれは残念なことです。ところでお嬢さん? その猫、とても大切な子なんですか?」


 とても残念だと思っているとは思えないような口調で続ける男に、少女は 「当たり前です!」 と返した。


「それは、あなたの命よりも?」

「それは…… そうよ! だって初めてのペットだったんだから……」

「そうですか、それはそれは大切な猫ちゃんなんですね…… くふふ、では、その猫を失わずに済む方法があると言ったらどうしますか?」


 胡散臭い笑みを浮かべ、からかうように質問する男を彼女はキッ、と睨み口にした。


「そんなのっ、できるならいくらでも実行しますよ!」

「…… あなたの命に代えても?」


 男の質問に少女は僅かな不信を滲ませるが、少女はどうしようもなく幼かった。勢いで一生のお願いを使ってしまうような、そんな軽い気持ちで〝 その言葉 〟を口にする。


「ええ、もちろん!」


 黒い三つ編みの男はその言葉に 「くふふ」 と笑みを浮かべ、 「約束ですよ」 と念押しする。

 まるでこれだけ忠告したのだから、これ以降文句は受付けぬとでもいうように。


「〝 約束 〟するわ!」

「…… 契約、成立です。では、この液体をその子の口の中に垂らしてみてください。みるみるうちに回復するでしょう。今、やってください。お金は取りませんよ」


 少女は差し出された赤い小瓶に戸惑いを示した。

 けれど、お金は必要ないと言われて迷いを捨てることにしたようだった。

 猫の口を上向きにさせ、開く。その中に件の小瓶に入った赤い液体を少しずつ、少しずつ流し込む。

 最初は猫が飲み込まないため口の外に溢れていた粘度のある液体は、少し経つと今度はまるで猫が飲み込むように口の中へと消えていった。


「え!?」


 猫の体はいつの間にか彼女の知る愛らしい姿へと戻っていた。

 怪我もしていない。あれだけ滲んでいた血もどこにもついていない。曲がった体は正常に戻っている。


「ね、大丈夫だったでしょう? それでは、私はこれで失礼します」

「あ、ま、待って!」


 彼女が呆然としている間に男は踵を返す。


「くふふふふふふ」


 長く黒い三つ編みが楽しそうに揺れていた。


 それは、ずっと前のこと。

 序章はとっくに始まっていたのだ。

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