其の三「落とし物を彼女に」

「職員室…… 行かないと」


 現在彼女がいるのは三階の第二美術室である。

 職員室は一階なので、美術室の鍵を返すついでに寄って行けばいいだろう。幸い第二美術室から階段までは近いのであまり時間はかからない。


「…… あぁ、またか」


 ふと廊下の先に羽ばたいている鳩を見つけ、少女は慣れた様子で近づいて行く。

 普通よほど餌を与えられ慣れていない鳥は人間が近づくと逃げて行ってしまうものだが、鳩は近づいてくる少女にまったく臆することなく首を回し、その場に留まっている。野生の鳩であることはあまり整えられていない翼と風に撫でられたように乱れた羽毛で分かるが、少女がどんなに近づいても鳩はまるで理解できないかのように思考停止をし、動かない。しかし、少女にとってそれは都合の良いことだった。


「ちょっとじっとしててね……」


 鳩との距離は1メートルもない。その距離で彼女は歩みを止め、鳩をじっと見つめながらスケッチブックを開いた。


「描き終ったら窓、開けてあげるから」


 廊下の風景は描かずに鳩の絵だけを詳細にスケッチブックに描き、5分もしないうちにそれは完成した。


「クークルゥ」

「これでよし。はい、おいき」


 スケッチブックを閉じた少女が窓を開けると、鳩は一声鳴いて暗い空に帰って行った。


「最近、多いな…… 少し臭うし、早く帰ろう」


 階段を使い三階から二階へ、二階から一階へ。

 一階に降りて右手に進めば大きな正面玄関だが、今は第二美術室の鍵を返さねばならない。ポケットに入れた鍵をチャリと触り、少女は左手にある大きな職員室に向かう。電灯がまだらに点いている校内の中でも、職員室は一際明るかった。


「先生、いるかな」


 ドンドンと窓を叩く影を横目で見ながら少女はそっと職員室の扉に手をかける。


「…… 開かない」


 職員室の扉はガタガタと音は立てるが開く気配がなかった。

 彼女は一度扉を蹴りつけてみたが、反応はなく中に人がいる気配はない。


「給湯室かな?」


 それを確認する間にも暫し扉を睨みつけるように立っていた彼女だが、やがて諦めるとそう呟いた。

 職員室の傍に用務員室と並ぶように給湯室があるのだ。電気系統を管理する部屋や、水道関係を管理する部屋も近く、一年生の間は怖くて近づけなかったものだ。今はなにもないと分かっているので普通に近寄ることもあるが、それも高校二年生になってからだ。

 そういう部屋が珍しいのか新一年生はここらへんを毎年見に来るようだが、彼女にはその考えが理解できなかった。それよりも購買のほうが何倍も気になっていたのだから。


「せんせー」


 給湯室には灯りが灯ったままとなっているが誰もいない。

 わりとズボラな先生であるからそれは仕方ないとして、と彼女は部屋の中を見渡すがやはりなにもいない。擦れ違ってしまったのだろうかと元来た道を引き返すが、ふとガラスで区切られた中庭が目に入った。

 外はもう夜と言っていいほどの時間になっているらしい。どうせ使い物にならないだろうなと予想して、あえて見ていなかった携帯電話の画面を見るとやはりおかしなことになっている。

 圏外になっているのはある程度予想していたが、その時刻がありえない6時66分と表示されているのを見て眉を顰める。

 普段は18時と表示される場所がそう変化してしまっているので、余計おかしく思えるそれから目を逸らし、彼女はトートバッグに仕舞った。


「職員室に戻っていればいいけど」


 扉の前に立ち、軽く中を覗くとコーヒーをマグカップで飲んでいる姿が見えた。

 それを見て彼女はまだ気づかれていないことを確認すると、先程と同じように勢いを付けて扉を蹴った。

 職員室の中で盛大にマグカップを揺らし、手にかかって焦っている教師の姿を見て少しだけ溜飲を下げた彼女は極々自然に扉を開いた。

 なんと足癖の悪い。けれど彼女は何事もなかったように振る舞っている。


「先生、もう下校しようと思うのですが」

「あ、あぁ、いろはちゃんじゃないか…… まったく、キミは足癖が悪いな」

「なんのことでしょう?それよりも、こんなに時間が経っているなら教室に忠告しに来て欲しかったです」


 悪びれるでもなくしらを切った彼女――秘色ひそくいろはは第二美術室の鍵を彼の机の上に置いた。


「もう帰っているとばかり思っていたからね。普通はこんなに暗くなる前に気が付くと思うんだけど。あと、〝 先生 〟じゃあ他の人と被ってしまうから、私のことは〝 Navidナヴィド先生 〟って呼んでよ」

「先生は先生ですよ。美術教師の先生」


 微笑みを顔に浮かべながら首を傾げるいろはに、美術教師のナヴィドは僅かに生えたあごひげを触りながら 「ええと」 と困惑したように言葉を探した。


「私の国では名前を呼ぶものだけれど、こちらではそういうものなのかい? 私も長く日本にいるが、キミみたいな子は初めてだったよ」

「そうでしょうか? わたしみたいな子……そこらへんに一杯いますよ」

「…… さて、いろはちゃん。こんなに夜も深まっている。玄関まで送るよ。私もそろそろ帰ろうと思っていたところだからね」


 いろはは、内心 「無理だと思いますけど」 と呟いてから笑顔で彼の言葉に頷く。ナヴィドは、いつも美術室で着ているエプロンを外すと自身の机へと畳んでしまう。


「可愛いエプロンですね」

「ああ、好きなんだよこういうの」


 青い小鳥が花を銜えて飛んでいるエプロン。しかし、エプロンの端々は絵の具で汚れてしまって薄汚れている年季の入ったものだ。

 それをしまってから、彼は自身のジャケットを羽織る。

 薄い紫色の気取った物だが、金髪の彼が着ているとなぜだか軽薄そうには見えない。

 これがイケメン補正か、と初めて会ったときのいろはは考えたものである。

 最後に、壁にかけていた羽飾り付きの帽子を深く被って彼はにっこりと微笑んだ。


 長く、纏められた髪はクリームに近い金髪で細められた青い瞳は硝子玉のように綺麗だ。

 あまり外国人に接する機会のないいろははそんな彼のことを珍しくてよく追いかけまわしたものだ。友人たちと悪戯を仕掛けたこともある。

 控えめな彼女ではあるが、好奇心は人一倍強いのかもしれない。

 …… 更に普段は見られない彼女のスケッチブックを見られてしまい、酷く動揺したこともあった。


 その縁でこうして美術部員となり、ひたすら絵を描く作業に没頭できるのだが…… それを始めてからは事務的な話か、はたまた冗談の言い合いか、前よりは話すことが多くなったが、追いかけるようなことはなくなってしまった。

 友人たちも、彼の人となりを知って普通の人間だと実感してしまったら興味がなくなってしまったらしい。今では音楽教師の美形な先生や、他のクラスの格好良い男の子の話に夢中になっている。女の子なんだなぁ、と微笑ましく見守っている彼女には当然、意味のない話なのだが。


 ガシャン


 ガラス張りになった玄関の一つを開けようとするも、それは無駄に終わった。


「あ、あれ?」


 ナヴィドが外に面した扉を全て確認していくが、そのどれもがむなしく音を響かせるだけで開かない。


「鍵は開いているはずなんだけど……」


 内側から鍵をカチン、カチンと鳴らしながら何度も試す姿を見ながらいろはは軽く溜息を吐いた。


「先生、非常口とか職員玄関のほうはどうでしょう。まだ試してないですよね?」

「そうだね。職員室に戻ろうか」


 学校の中を右回りに移動していき、保健室の前を通ったときにいろはは足を止める。前を行くナヴィドは暢気に歩を進めているが、彼女は保健室の前に貼られた掲示板の、一層目を惹く赤い文字が踊った書類を目で追った。


「〝注射の中身は全て使い切ること〟…… 怪我をしても、あんまり寄らない方がいいかも」

「いろはちゃーん?」

「今行きます」


 ナヴィドの背を追い、中庭の端に差し掛かる。木々と大きな岩、それに月光に照らされて白く浮かび上がるテーブルや椅子。昼食の時間にはこぞってこの中庭のテラスを目指す生徒たちが多い。そんな景色の良い中庭だが、月明かりに照らされた今は暗く、不気味な雰囲気を纏っている。

 庭の端には庭木を整えるためのハサミやスコップが入っているらしい。景観を崩さないようにするため、見えずらい場所にあるのだ。


「先生待って」


 追いつこうと小走りになったいろはの視界の端で、なにかが動いた。

 その直後響き渡る甲高い悲鳴、衝撃音。鈍く、なにかが砕けた音がすぐ傍で鳴って反射的にそちらに目を向けたいろはは一歩後ずさった。目を見開き、驚いたように硬直していた彼女は顰めそうになる眉を正し、彼を呼んだ。

 彼の驚く姿を横目にスケッチブックへ伸びた手はゆっくりと降ろされ、手に持っていたままだったそれをトートバッグに仕舞う。ブレザーのポケットには鉛筆と消しゴムが入ったままになっているが、それを仕舞うつもりはないようだ。

 二人はどちらかということもなく目を合わせ、ガラスの扉を開けて中庭に入る。しかし、入ってすぐに二人は立ち止まった。

 いろはは軽く口元を押えながら唸るようにそれを見つめ、ナヴィドは顔を顰め、顎に手を添えると呟きを漏らす。


「これは」

「見事にすっぱりといっていますね……」


 上から落ちて来たらしいそれはあるべきものがなかった。赤い一文字の入った首だけは辛うじて存在したが、その上がどこにも見当たらない。

 そもそも、上から落ちて来ること自体がおかしいのだ。無数に散らばる硝子…… いや、窓の破片が〝 それ 〟の周りに散らばっている。


「この制服は…… うちの制服ですよね?」

「少々改造されているようだけれど、確かにこの学校の制服だね」


 一片の動揺も見せないナヴィドに疑わし気な視線を向けながらいろはは〝 それ 〟を上から下までじっくりと観察する。どうやら窓の破片で喉元を切ってしまったような傷だ。そのわりには綺麗に首から上がなくなっているが。

 ナヴィドも冷静で取り乱しもしないいろはを見てなにか言いたげにしていたが口をつぐんだ。


「これだけじゃなにがあったのか分かりませんね。携帯電話もつながりませんし、警察は呼べません」

「そうだね…… 閉じ込められてしまったようだし」

「そうなんですか?」


ナヴィドが入って来た硝子の扉を揺するがビクともしない。

それを見てげんなりとした顔で落胆するいろはにナヴィドは 「あはは」 と笑って彼女の肩を叩く。


「ここから出る手がかりがないか、ちょっと調べてみようか」

「分かりました」


 そう言ってナヴィドは庭の手入れ道具のあるロッカーをガタガタと音を立てながら調べ始めた。

 いろははどこか荷物を置く場所を、と周囲を見渡してテーブルに近づいた。


「なにか書いてある…… 〝 落とし物を彼女に 〟?」


 椅子の上にバッグを置いてスケッチブックを広げようとしていた彼女はその手を止め、血のような赤い文字を読み上げる。そして暫しスケッチブックとなにかを調べるナヴィドの姿を見比べて考えていたが、〝 それ 〟の周辺の草木をガサガサとかき分け始めた。


「ん、あれ? どうしたんだい、いろはちゃん」

「頭を…… 探してるんですよ。あそこのテーブルに〝 落とし物を彼女に 〟って書いてありました。落とし物って言ったら多分……」


 いろははそこで区切ったが、ここまで言えば分かりますよねとでも言うような笑顔で彼の青い瞳を見上げた。それに微笑んで答えたナヴィドは遠くに見える窓の下―― 赤く点々と染まった木々の間を指さした。


「あそこ、かな?」

「さあ、どうでしょうね。先生はあれがケチャップにでも見えるんですか?」

「昼休みに誰かが盛大にこぼしたのかも?」

「ご冗談を」


 分かっていながら戯ける彼にいろはは笑いを堪えるように口元を手で覆うと、すぐに歩みを進めて雑木林に手を突っ込んだ。

 しかし、すぐにいろはは顔を顰めて 「届かない」 と呟く。


「っ………」


 雑木林から手を引き抜いたいろはは手首に付いた一筋の血に頬を膨れさせて右手をその上から覆い、圧迫する。葉で左手を切ってしまったのだ。

 鋭いもので切った傷は思いの外痛いものだ。表情にはあまり出ないが彼女はとても不満そうにしている。


「先生、植物用のハサミでこれ切ってくださいよ」

「大丈夫? …… はいはい、あとで保健室に寄ろうね」

「保健室は嫌…… なんですけど」

「ダメ」

「……」


 鬱蒼としている木の枝を断ち切りハサミで切り落とし、中の枝を取り出していく。その横で急いたようにいろはが手を伸ばし、後ろ向きの長い黒髪を掴んだ。


「いろはちゃん、あんまり危ないことしないでくれるかな?」

「この方が早いじゃないですか…… うわっ、うぇぇ」


 髪を掴んでいるいろはの腕にざわざわと髪が絡みついていく。思わず手を放した彼女だったが、髪の毛の方が彼女の腕を掴んでいるためにぶらぶらとその手の下で揺れている。長い髪の毛は徐々に徐々に彼女の袖口から浸食していき、どうやら首を目指しているようである。

 そのざわざわとした感触とくすぐったさ、さらには揺れる生首の断面図がチラリと覗いたために、さすがのいろはも口だけは気分悪そうに声を出した。

 …… 棒読みであるため、とてもそうは見えないのだが。


「首を絞められる前に落とし物を渡さないといけませんね」

「…… 冷静だね」

「ああ、怖いものは怖いんですけどね……」


 そう言って落とし物を持ったままいろはは端に横たわった彼女に近づいて行く。

 移動するいろはの首には既に数本の髪の毛が絡みつき、さながら黒いチョーカーを付けているかのような様相となっていた。

 そして、服の中に侵入している髪の毛を鬱陶し気にブチブチと引きちぎり、倒れている〝 それ 〟の上に頭を乗せた。

 それから、彼女は落とし物を返したことで力を失った残りの髪の毛を丁寧に剥がしていき、首に巻き付き絞め殺そうとしてきていたものを手で梳き取り〝 それ 〟の上にパラパラと振り落とす。そして髪の毛だらけになった服を払い、スカートを整えた彼女はナヴィドと目が合うとにっこりと笑い、こともなげに言い放った。


「だって、慣れてますからね」

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