始の章【彼女と出会う前 】

最悪な日常

 始まりは些細なことであった筈だった。


 十八歳のとき、クラスメイトとの修学旅行で泊まった旅館。そこで起こった恐ろしい出来事。

 俺はそのとき、仲間達と共に真相を目の当たりにし、旅館を持っているとある企業の人間の正体を見ることとなった。


神内じんない千夜せんや』、それがそいつの名前だった。

 真っ黒なスーツを着て、ネクタイまで黒いその姿はまるで喪服のようで。黒髪を長い三つ編みにした、やたらと低身長の男だった。


 そいつが黒幕だと気付いたときにはもう既に遅く、俺達は取り返しのつかないところまで来てしまっていたんだ。

 奴が空を見上げる。

 

 追って空を見上げると、美しい旅館に相応しい満月であった。

 そんな景色に溶け込み、美しい男が月光を浴びながら月を見上げる風景。

 一種の絵画の中の世界のような非現実的な光景は俺たちを釘付けにし、そしてその恐ろしい変化の最中でさえも目を逸らすことは許されなかった。


 どこか胡散臭い笑みを浮かべた男が――裂けた。


 そうとしか表現することはできず、まして俺の少ない語彙ではその恐ろしさを誰かに伝えたところで意味をなさないだろう。


 だから率直な感想しかもはや出てこない。


 それは貌のない肉塊だった。流動し続ける触腕。時折垣間見える鉤爪。顔がないくせに悍ましくこちらを嘲っているようにも見える肉の動き。

 自身の身体が総毛立つのを感じた。しかし、それを直視してもなお俺は壊れることができなかった。

 聞こえる悲鳴、怒号、己の胸を掻きむしりながら自害しようとする者、目玉を潰してそれを見ないようにしようとする者、巨大過ぎるが故に溢れ出た触手を噛みちぎろうとする者。

 残った皆の奇行が目に入って正気に戻ることができた俺は床の間から借り受けて来た刀を握り直す。

 汗で滑ってしまわぬようにしっかりと両手で握り、あれの触手に噛みついた同級生が顎から真っ二つになっていくのをどうにか見送ってから走り出した。

 吐き気を押し殺し、頭を振り、泡を吹いたまま終わりを待つだけの同級生を守るために走る。

 あいつらの精神を守りきれなかったのだとしても、その命だけはどうにか繋ぎたいと、〝 無謀 〟だと理解しておきながら走る。

 正気でありながら狂気の沙汰を起こすという矛盾した状態になりながらも食いしばる。

 この無駄に高い悪運は仲間を救うためにあったのだと、ただ愚直に信じていたのだ。


 そして俺は全力で、向かってくるそいつの腕に刀を振り下ろした──


 ◆


 紫鏡事件より一年前――

【十二月二十四日 午前六時 下土井しもどい令一れいいち 二十一歳】


「れーいちくん。れーいーちーくーん?」


 ふと…… 耳元をくすぐる低い声と、全身に立った鳥肌に反射的な嫌悪感から身体を跳ね起こした。


「っ…… お、ま…… !」

「あー、惜しいね。もう少しでお前の首を落とせたのに」


 語尾にハートマークでもつきそうな恍惚とした表情を貼り付けて片目を瞑って見せた奴は、変態臭い 「くふふ」 というくぐもった笑い声を漏らしながら俺を見つめる。

 別に刃物を突きつけられているとか、そういうわけではない。

 俺の首には加護とは名ばかりの首輪が嵌められているのだ。こいつの思うままに焼きゴテにも首吊り縄にも変化する最悪なプレゼントだ。

 役立たずになればこれで殺される。それはここで生活しているうちに思い知らされたことである。


 そう、俺はこんな地獄に身を置かされているのだった。俺の修学旅行は、俺の学生生活はもうどこにも存在しない。俺のことなんて誰も覚えていない。俺は皆の記憶からなかったことにされ、どこにも居場所を失くしてこの地獄に突き落とされたのだ。


 あのとき、俺は死ぬと思っていた。そう思いたかった。だのに、なぜこんなことになっているのか。なぜ俺は死んでいないのか。

 …… あいつらのように、いっそ死んでしまいたかったと言うのに。

 役立たずなら殺される……それなら、あいつらと同じ場所へ行けると分かっていながらなにもしないのは、俺が自分の命を惜しんでいるということ。

 逆らうこともできる。最初のうちはそうした。

 でも、致命的なことをしようとするたびクラスメイト達の死に様を思い出し、足を止めることになる。

 単純に怖いのだ。こいつが。だからなんとか小間使いをやっていられる。

 こいつが神と呼ばれる頂上の存在でなければとっくに逃げてるのだから。

 勿論、機会があればすぐにでも逃げ出したい。逃げ出したいが……俺には、そこまでの力はないのだ。


「ねー、早く朝ご飯作ってよ。お前は私のために馬車馬のように働かなきゃいけないんだからね」


 あーあ、どうしてこんな奴に気に入られてしまったのだろうか。

 苦しみから解放されたので無意識に握り込まれた拳を開き、そばに掛けられたエプロンへと手を伸ばす。


「……」

「ここまでされて折れない精神は尊敬に値するよねぇ…… まあ人間基準だけれど」


 俺が嫌がると知っていて、わざとねっとりとした口調で話すこの男は正直気持ち悪い。


「そんなお前の絶望する顔を見られたらどんなに楽しいだろうね……まあ、そう簡単に見せられてもつまらないけど」

「はあ、作ります。作りますから大人しく席に着いて待ってやがりくださいませっ!」


 やけくそ気味に言った言葉に、奴は面白そうに眉を下げて再び 「くふふ」 と変態チックな笑いを零した。

 そのまま手を振りながら俺の部屋を出て行く。さっさと行け。

 しかし出る直前に奴は振り返って言った。


「あ、お腹すいたから十分以内ね?」

「無理に決まってんだろ馬鹿が!」


 反射的に飛び出した言葉は額に直撃した得体の知れない物体で返された。小さく触肢を動かすその物体を手早く踏み潰し、処理する。

 面倒ごとを増やされて十分以内とか無理に決まっている。

 しかも敬語なんて慣れていない上にあいつ相手には意識して使おうと思わないからこうして痛めつけられる。

 最悪。最悪だ。


「さーて、今日はどんな無理難題を出してくるのかね」


 あのとき、肉塊が収縮し人型を取り、やがて神内千夜の姿に戻ったあいつは自らをニャルラトホテプという神であると名乗った。

 肉塊が収縮する際の余波で轢き殺されたりすり潰された友人達の姿は血飛沫となって消えてしまっていて、守ろうと意気込んでいた俺はそれに悉く打ちのめされてしまっていた。

 そんな俺の目の前に立ち、薄ら笑いを浮かべた奴が告げたのは日常から非日常への転換。


 〝お前の名は、「下土井しもどい 令一れいいち」だったかな? 〟


 すぐさま再生でもできそうなのに左腕に刻まれた刀傷を嬉しそうにさすり、奴が言う。

 それに思考停止した状態だった俺は安易にも頷きを返してしまったのだ。それが始まりだった。


 〝くふふっ、ああ…… 人間なんて、なんてツマラナイ生き物なのだろうと思っていたけれどなるほど、この私に傷をつけるだなんて面白い子だね〟


 傷つけられて嬉しそうに笑うそいつのことなんて一欠片も理解できずに俺は黙した。


 〝お前はどこまで私を楽しませてくれるだろうね? 〟


 首にかけられた手が熱を持つ。

 焼ごてのようなその手は俺の首を徐々に締め上げ、そして恍惚とした表情をしたそいつは冷笑を浮かべてべろり、と舌なめずりをした。

 ああ、あいつらと同じところに行けますように。

 そう願って委ねた自身の身体は奴の馬鹿みたいに強い力で宙に吊り上げられ、死を覚悟した。しかし、苦しいだけで、痛みが長引くだけで一向に意識が遠のくことはなかった。


 〝「お前に呪いをあげよう」〟


 薄ら笑いを浮かべたまま呟かれたその言葉に俺は目を見開いた。

 俺とそいつのいる地面がほの青く光り輝き、その場に刻まれるように円周を描いて複雑な紋様を形作っていく。


 嫌だ。


 反射的にそれは良くないものだと判断して、俺は精一杯もがいた。

 力を込めて奴の手を引っ掻き、抵抗しても……しかし、今度は傷一つつけることもできなかった。

 そして頭が焼き切れるような激痛が走り、次に目を覚ましたときには馬鹿でかい屋敷で、既に俺は人ではなくなってしまっていた。

 いや、人ではあるのだろうか。奴は人間に拘っているようだから、奴にとってきっとまだ俺は人なんだろう。


 例え病気も怪我も俺を死に至らしめることがなくても。それでも殺せば死ぬ体だ。そう説明された。

 そして説明のために近くにいたペットの巨大な馬のような翼の生えたものが実験台にされた。

 シャンタク鳥とかいうそいつも奴の配下だというのに、なんのためらいもなく隷属の呪いを使い、そして殺した。

 奴は眷属がいないと語った。しかしそんなものは嘘だ。ただ長持ちしないだけなのだ。奴が興味を失えば俺の命なんて容易く吹き飛ばされるだろう。

 …… 奴はクラスメイト達の仇だ。でも俺は殺されることに怯えてしまっている。

 そしてその二つの気持ちの、どちらかが勝っているかだなんて…… 今の俺を見れば一目瞭然だ。


 友達と死後会えるかも分からない。家族とも引き離され、記憶も改竄され、俺はいない存在となった。それらは残酷な優しさによって身をもって知らされ、俺の心を徐々に徐々に蝕んで行っているのだと思う。


 大きな屋敷に見合う和食の朝ご飯を作りながら考える。

 仇を打つこともできず、なんの因果かこうして俺は奴の眷属とやらになってしまった。

 変態で、なぜか傷つけられると喜ぶドMなくせに人間おれを見下していて本質的な部分はサディストな、そんな多くの矛盾を抱えた破綻者。いや、混沌そのものは何故かバレもせず人間の振りをして暮らしている。


「うんうん、最近はちゃんと膳の盛り付けも覚えたんだね」


 朝食を出せば奴は嬉しそうにそれを見た。

 褒められてもまったく嬉しくはない。

 いち高校生であった昔は料理なぞできるはずもなかったが、これは必要に駆られて覚えたことだ。

 なんせ、ちゃんとしたものを出さなければこの馬鹿でかい屋敷に閉じ込められたままだし、なにもできない。

 外出くらいはしたいし、こいつと四六時中一緒とか怖気しか湧いてこない。

 こいつが言うには過去の人間関係はリセットされたが、これからの人間関係は余程でない限り放置するつもりらしい。

 つまり、また友人を作れれば俺の心の平穏は少しは保たれるわけだ。

 このサディストの狙いは、きっと再び友人を失った俺の絶望がどうのこうのってことなんだろうがそうはいかない。今度こそ友達は殺させない…… と言ってもまだ1人も友達なんていないのだが。

 それに最大の理由として、未だに俺が付けた傷を大事そうに消していないこの変態の側にはいたくない。


 つまり……紛れもなくこいつは一人SM男で、俺はその眷属どれいなのだ。


 怪異に巻き込まれたり、人を救おうとして絶望したり…… これはそんな俺の、非日常の一部。


 言わば日常の裏側、オカルトな世界を生きる経験譚。

 ちょっと不思議で。救いようのない人間が足掻く様を見る…… 邪神の箱庭の話だった。


 そう、〝彼女〟に出会うまでは。


 邂逅まで、あと――。

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