魂喰らいの化け物

「お兄さん、絶対に生身であの前脚の近くにいっちゃダメだよ」

「あ、ああ」


 先程そのパンチの威力を見たから、当然当たりそうな場所に立とうとは思えない。普段の俺じゃあ、反射で避けることすらできないだろう。


「あっ」


 思わず、声が漏れた。

 巨大な、十メートルはありそうなその生き物は先程ぶちのめした浮遊霊が浮力を無くして下に落ちると、素早く池の中から体を余すことなく全て出してその上に覆いかぶさり……十秒ほどで、実にあっさりと〝巣〟に戻る。


 奴が体を退かして戻れば、浮遊霊は跡形もなくどこにもなくなっていた。


「浮遊霊を食ってる……」

「魂を食べるシャコだね……場が出来すぎていたから、ここを巣にしようと出てきたのかな」


 シャコ。

 そう、あれは巨大なシャコの化け物だ。

 あまりにも巨大すぎて、エビのフォルムが少し苦手な俺はシャコのあの形も気持ち悪くて仕方がない。


 おまけに魂を食べるとかいう厄介な生態をしているようだし、生理的に受け付けないという体験を始めてしたかもしれない。

 ……嘘だ。〝生理的に無理〟初体験は俺の雇い主のクソ野郎ニャルラトホテプだった。


 悲鳴が上がる。

 逃げ出す人々は、あの世に近づきすぎたこの公園の中を縦横無尽に走り回ったり隠れたりするが、この公園から出ることはできない。

 天然の結界。無理矢理外に出ようとすれば元の場所ではなく、異界に落ちていくことになるだろうな。

 余程変なことをしない限り、公園の中を延々とループし続けるくらいだろうが……


「なんでシャコが、魂を食うんだよ」

「確か……シャコって雑食故に、沈んだ死体も食べるって言うよね」

「うっ、やめろよ……シャコが食えなくなるだろ……」

「雑食の水生生物なんてそんなものだよ。気にするだけ無駄だよ、無駄。さて、あれをどうやって殺そうか」


 やっぱりあれは殺すしかないのか。


「浮遊霊を食べるだけなら、食性のひとつだからいいんだけれど……ノックアウトしたまま放置してるのもいるし、なによりあれが力をつけて〝こちら側〟に来れるようになっちゃったら怪獣映画の始まり始まりってなるからね」


 殺戮はご法度。そんな同盟のルールに抵触する。そういうことか。

 あれには理性も知性もないだろうし、食い散らかすだけの怪物は交渉も説得もできない。なら、殺すしかない、と。


「異界で巣を張ってるだけなら見逃せたんだけれど、こうやって現世に出てこられちゃうとさ、餌場として覚えちゃうからねぇ」


 撃退しても、何度でもやってくるというわけか。


「さて、やろうか」

「待て、紅子さん。君は手を出さないで人間の避難誘導をしてほしい」

「……それは、アタシの選択肢を奪おうってこと?」


 紅子さんの赤い瞳が鋭さを増す。


「違うよ。紅子さんが幽霊だからだ」


 そう、彼女もあの巨大シャコの標的の一人になりかねない。

 俺としては、それだけは勘弁願いたい。

 初恋の人だからとか、俺の恩人だからとか、色々と理由はあるが…… なにより、身近な人が俺の側から離れていく経験はもう二度としたくないからだ。


「アタシは怪異だから、死んでも噂の力でまた復活するよ?」

「あれは魂を食べるんだろ。紅子さんの身体はいつも復活するかもしれない。でも紅子さんの魂はそこにある、ひとつだけだろ」

「……しょうがないなぁ。相性が悪いのは確かだね。アタシじゃあ、シャコの殻を破れるほどの攻撃はできないだろうし。でも、囮は必要じゃないかな」


 どうしてこの人はこう……危ない橋を積極的に渡ろうとするのか。


「囮なんていらねーよ」

「でも、さっき見たでしょ? あのシャコ、巣から出てるところは甲殻で覆われてるけれど、お尻の方はほとんど肉の塊だったじゃない。そっちを襲ったほうがダメージ通るよ、きっと」

「だから、いらないっての」

「強情だねぇ」

「紅子さんこそ。俺は絶対に譲らないからな。浮遊霊もこれ以上食わせないし、紅子さんを囮にもしない」

「そうしたら、アレが尻尾を出す瞬間なんてなくなるじゃないか」

「甲殻ごと俺がぶち破る。そう言ってるんだよ!」


 口論気味になり、そして最後はだいぶ声を荒げてしまって後悔した。

 彼女を怒鳴るようなつもりはなかったのだ。自己犠牲よりももっとタチの悪い、自らを〝復活するから死んでも大丈夫〟なんて思っている紅子さんに対して、怒りが先行してしまった。

 俺はただ、そんなこと言って欲しくないだけなんだけれど……怒鳴ったら意味なんてないな。


「ごめん、紅子さん」

「いや、いいよ。お兄さんの言いたいことは分かった。びっくりした。お兄さんってアタシに怒ることができたんだね」

「そりゃ、俺だって思うところはなくもないし」

「そう、アタシが大丈夫だって言ってても嫌なんだね?」

「ああ、こういうのは役割分担って言うんだよ。お願いだからさ、俺の気持ちも少しは汲んでくれ」

「……そういうことなら分かったよ。そういえば、いつもは一緒にやってるから、キミの勇姿ををしっかりと見たことがなかったね。だから、今回はしっかりと見させてもらう。キミのことを、しっかりとね」


 やはり、言い方が卑怯な紅子さんだった。


「行ってくる」

「行ってらっしゃい、令一さん」


 普段呼ばれない名前を呼んでくれるだけで俺は頑張れるよ。ありがとう、紅子さん。


 背を向けて、シャコの元へ走る。

 赤い刀身の刀を構えて、集中。


 この赤竜刀はニャルラトホテプの触手を斬ったときから〝無貌むぼう斬り〟にもなったが、その起源は〝無謀むぼうを斬り、勇猛に変える刀〟だ。


 挑む相手が巨大なほど、強いほど、心理的、物理的に勝てそうもない相手であればあるほど、その一撃の威力が増す刀。

 使い手の俺が人間だからこそ実力を最大限に発揮する。そういう刀だ。


 相手の巨大さに対する恐怖や、本当に斬れるのか? という迷い。それをこの刀は吸い取り、力にしている。

 故に、俺の中から迷いは断たれ、前に進みあいつを斬ると決意した勇気だけが残る。


 長期戦は無しだ。避難誘導中の紅子さんに目をつけられたら役割分担をした意味がない。なにより啖呵を切った以上、彼女に近づけさせるなんて失態は許されないし、俺自身が許せない。



 ――「一撃でやってやる!」



 前脚の伸びてくる速度は人間の目玉では到底見えはしない。

 けれど、赤竜刀を手にしている今、このときはこの刀が……リンが俺の体に働きかけ、補正をかけてくれている。

 目の前に集中すれば、いつもよりもよく視える目が巨大シャコが攻撃する前兆を捉えた。


 構えたまま正面から近づき、前脚が伸びてくる直前に横へずれて刀を前脚の伸びてくる軌道上に滑らせる。

 縦に斬られた脚が真横に落ちるのを横目に、もう片方の前脚が伸びてくる前に跳躍。

 俺のいた場所を通り過ぎる前脚に着地し、ツルツルと滑るその脚の上を駆け上がっていく。


 背中まで移動すればあとはこっちのものだ。


 硬い甲殻に通用しないかもしれない? 一瞬だけよぎった迷いは最後の一押しとなって、更に赤竜刀の斬れ味が増していく。

 俺は迷いなく、一直線に、甲殻と甲殻の隙間に滑らせるように、全体重を乗せてぶち抜いた。


 金属を何個も何個も打ち鳴らすような、そんな不快な悲鳴をあげてシャコの体が仰け反る。


 更に両手に力を込めれば、シャコは鮮やかな紫色の煙となってその場から霧散した。


「え」


 およそ十メートル以上の高さから刀を構えたまま落下するその姿は、客観的に見ても、主観的に見てもカッコ悪かった。

 下に向けていた刀が、落下と同時に池に張られていた鏡も同時に割り砕く。


 要するに、俺は見事に池ぽちゃを成したのだった。


「ちょっと……お兄さん大丈夫?」

「俺は……なんで最後まで格好良くできないんだ……」


 手を差し伸べてくれる紅子さんの手を取って池を出る。


 振り返れば、そこには水面に揺らぐ自分の姿だけが映っている。紅子さんは幽霊だからというよりも、位置的に映らないだけだろうな。


 水面に映った俺の瞳も、リンと同じ黄色い爬虫類の瞳からいつもの紫がかった黒へと戻っていく。今まではまるで自覚がなかったが、リンと同調しているときはこんな風に瞳の色まで変わるんだな。


 改めて覗き込んでみても、触ってみても池はなんの変哲も無い水の塊に戻っている。


 池にはもう、あの世の色は残っていなかった。


「あのシャコが全部持っていったみたいだね」

「後始末がなくて助かるよ。それにしても……紅子さん、手を繋ぐのは有料じゃなかったのか?」

「だって、お夕飯。作ってくれるんでしょう? ならそれでチャラだよ」


 しれっと言う彼女に「そっか」と返す。

 今回は浮遊霊の犠牲もそんなに出る前に倒せたから、霊を呼び出していた人々もあんまり〝絶望〟はしなかっただろう。


 俺達が律儀に丑三つ時なんかに来ていたら、もしかしたら死に別れた大切な人の霊が目の前で食われるところを見る……なんて絶望を味わった人が出ていたかもしれない。

 もしそうなっていたら、きっとどこかで経過を眺めていただろう邪神の思うツボだったんだろうな。ざまーみろこのヤローめ。


「ああそうだ、お兄さん。お風呂もうちで入るかな?」

「……えっと」


 脳内に様々な煩悩が過っていく。

 確かに今の俺は池ぽちゃして酷いことになっているが。


「ど、同盟施設のほうで……服を借りるよ。十分だけ待ってくれればすぐに終わらせる」

「……そう、なら待ってるよ」


 俺はヘタレだった。


「おにーさんのご飯は美味しいから、毎日食べたいくらいだよねぇ。こればっかりはあの神様が羨ましいかな」

「俺もどうせ作るんならあいつじゃなくて紅子さん相手がいいよ……」

「それはどうも。嬉しいことを言ってくれるね」


 そんな告白紛いの軽口を叩きながら、帰路に着く。

 まだこのままで。この関係を、壊したくはないのだから。


「なあ、紅子さん。俺、強くなってるかな」

「邪神に噛みつきたいならまだまだだろうね。その呪い、解きたいんでしょ。なら、今は…… 我慢のときだよ。いつか、キミが自由になるためにも」

「そうだな。そのためにはもっと強くならないと」

「その努力だけは認めてあげる。キミのその無謀さは、好きだよ」

「そ、そっか…… ありがとう」


 二人して笑う。今は、まだ。


 いつかもっと未来、自由になった身で紅子さんへ恩返しするために。そして、この想いをいつか伝えられるように。


 そう願いながら。


 ◆


「くふふ、どんどん仲良くなるといいよ。そうしたほうが、れーいちくんの〝イイ〟お顔が見れるかもしれないからね」


 帰路に着く二人を見守り、男は笑う。


「反抗的なお前の、その心が折れるときはどんな顔をするんだろう? 今から楽しみだなあ」


 長い黒髪を三つ編みにしたその邪神は、ひどく愉しそうに、可笑しそうに、笑っていた。


「守るものが多くなればなるほど、人間は強くなるものでしょ?」


 誰に言うでもなく、男は呟く。


「私を斬ったときのような、あの目。あの強さ。どれだけのことをすればもう一度見られるんだろうね。まあ、まだ十年も経っていないし、気長にやろうかな」


 もっともっと足りないと。

 経験も、場も、状況もまだまだ足りないと邪神は暗躍する。

 長い長い年月を生きる邪神の、ほんのひととき。趣味の時間。愉快な日々。


「れーいちくん、お前は知らないだろうね。隣にいるその子の存在が揺らいでいるだなんて」


 目を細め、男は下僕の隣にいる少女をじっと見つめる。

 彼女の後ろ手に組んだ手は、ほんの少しだけノイズがかかるように揺らぐことがある。

 それに、下土井令一は気づかない。


「赤いちゃんちゃんこっていうのは人間を害する怪異なのに、その子は怪異となってから、一度も人を殺していない。その事実をもっと重く受け止めるべきなんだけれど、令一くんったら能天気な子だよねぇ」


 もしかしたら、彼女が上手く誤魔化しているのかもしれないけれど……そんな風に独りごちて神内は笑みを深める。

 そのほうが、己の下僕とした男の絶望が、いつか観れるはずだからと。


 赤いちゃんちゃんこという怪異は、トイレで突然「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか?」と問いかけてくる怪異である。


 この質問にNOと答えれば難を逃れ、YES、または「着せれるものなら着せてみろ」などと肯定と取れる返事をすると首を斬り裂かれ、血で真っ赤なちゃんちゃんこを着たような姿で殺される怪異。


 紅子は、どちらを答えられても害する幻覚や夢を見せるだけで済ませ、一度も人を殺したことがなかった。


「理性がある分、本能を押さえつけるのは大変なはずなのに、あの子の精神力は賞賛に値するよ。壊れるときが楽しみだね」


 そのためには実りを待つ必要があるのだと、邪神は未だ彼女には手を出さない。仲良くなればなるほど、恋心が強くなればなるほど、失ったときの絶望は計り知れないのだとほくそ笑みながら。


「……それはそれとして、私の小間使いの癖に夕飯を用意しておかないところは減点だよね。あとでどうしてやろうかな」






 下土井しもどい令一れいいちの災難は、まだまだ続く。

 五年も前から始まり、絶望し、紅子と出会い、様々なケースの事件に巻き込まれた彼の人生。


 そう、彼らが過ごした今夜の出来事は未来の話。

 物語の始まりは、これより一年前。


 下土井令一が数年の監禁生活を終え、外出を許可されたことから始まるのだった。

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