鍵が導く大樹の帰還(5)――福音の吐息
* * *
「人の想いというのは、良くも悪くも私たちの考えを裏切ります。その考えというのは、今まで起こった事象から想像し、導くことで生み出されるものです。ですから前例がないことに関しては、思いつかないものですよ。――樹を戻すのではなく生み出すなど、誰が考えるでしょうか」
イズナは護衛の者に支えられながら、明るみを帯び始めた空と初めて見る大樹を、目を細めて見つめていた。彼女の後ろにいる大勢の人間たちも笑みをこぼしながら、遠い昔から人々に恩恵を与え続けている大樹を眺めていた。
「リディスさん、一度は気配が消えたけれど、また戻ってきたようね。本当に良かったわ……」
安堵の息を吐いて、イズナは本当に小さな声で言葉を漏らした。
「イズナ様、あれがレーラズの樹なんですか?」
目をぱちくりとしているラキが尋ねてくる。イズナは優しく返した。
「その通りよ、ラキ。あれほど大きい樹は、レーラズの樹以外では聞いたことがないわ。――それに感じてみて。樹の周りに精霊が集まっているでしょう。あんなにも精霊が寄り添っている樹は、神聖なるレーラズの樹だけよ」
「そうですか。あの
銀髪の少年は感嘆の声をあげて、目を輝かせてレーラズの樹を見つめていた。
イズナは胸の前で手を組んで軽く目を伏せる。この数十年の間に逝ってしまった人々を想いながら、祈りを送った。
樹が戻ったからといって、アスガルム領民が受けた仕打ちがなかったことにはならない。
樹がドラシル半島に存在しなかったことで起こってしまった事件を、無にすることはできない。
過去は永遠に変わることはできない。
だが未来は人々の努力や想い次第で、変えることは可能だ。
それを彼女、彼らは証明してくれたのだ。
樹に愛されている娘と、彼女やこの大地の未来を護りたいと願った青年たちの手によって――。
イズナは目を開き、樹の下にいる人々に向かって深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございます。これからは私たちに任せてください。しばらくはゆっくり休息をとってくださいね」
そして振り返り、アスガルム領民たちに向かって凛とした声を笑顔で発した。
「皆さん、今まで人間たちを脅かしていたモンスターは還り、樹が新たに生まれました。これを受けて私たちも新たな未来への一歩を踏み出しましょう。暗い世界はもう終わりですよ。――準備が整い次第、私はアスガルム領に戻ります」
ざわめきが大きくなる。象徴に近いとはいえ、一番上に立つ者がその場を離れると言ったら、誰しも動揺するはずだ。
しかし、これは以前から決めていたことなので、イズナとしては引くわけにはいかなかった。次の言葉も予め言おうと思っていたことだった。
「もしも付いてきたいという方がいましたら、私にお声かけください」
それぞれに選択を委ねるなど、今まで選択肢がほとんどない状況で育ってきた人たち相手に出す言葉とは、到底思えないだろう。だが目の前にいる人たちの人生を変えるには、今が最もいい頃合いなのだ。この機会を逃せば、いつになるかはわからない。
「人によっては大陸中を旅したい者、他の領や村で生きたい者、この洞窟に引き続きいたい者などに分かれると思います。私は今回の件をきっかけとして、その想いに素直に従ってみていいと思うのです」
ここから出たいと言いつつも、イズナが止めたことで居続けている者も少なくない。
しかし樹が戻り、モンスターの数も格段に減少し、樹からの加護が戻りつつある今なら、止める理由などなかった。
イズナから言葉を投げられた一同は俯いたり、周りの者と囁きあったりしている。彼らを眺めながら、きりりとしていた表情を少しだけ緩めた。
「すぐに考えがまとまらないのは当然のことでしょう。準備が整ってからと言っても、それは少し先の話。それまでの間、私はこちらで助言や援助などは致しますので、ご遠慮なく聞いてください」
少しだけ和んだ空気が流れる。誰かに頼ってもいいという言葉が出されるだけでも、人々は安心感を得るものだ。
イズナはちらりと樹を見て、胸に左手をそっと乗せた。
「私は魔宝樹をお守りし、加護を皆に受け渡すのが本来の務めです。その役割を果たすために、自ら望んだうえで、行かせて頂きます」
そうすべきという義務ではなく、そうしたいという想いから自然と出た言葉だった。
* * *
「もしかして、あの大樹はレーラズの樹?」
スレイヤは地響きと共に現れた新たな大樹を愛おしそうな目で眺めていた。
出現した当初はその存在を訝しげに思って見ていたが、
地響きに戸惑っていた村人たちだったが、久しく浴びていなかった朝日が窓の隙間から射し込んでくるのに気付くと、徐々にカーテンを開けて外を眺めだした。閉じこもっていた人々に向けて、新しい世界が訪れたことを伝えるような光である。
「樹を新たに生み出すとは……いい発想だ。こんな芸当は鍵が中心とならなければできん」
「ヴォル様、あれは新しい樹なのですか?」
スレイヤが問いかけると、後ろにいたヴォルが腕を組んで嬉しそうな表情で樹を見つめていた。
「ああ。五十年前にあった樹ではなく、新しい樹を鍵たちが生み出したのじゃよ。一人の力ではできんことだ。どうやってやったのか、あとで詳しく話を聞く必要がありそうじゃな……。まだまだくたばれん。世の中は未知のもので溢れておるわ」
ヴォルがほっほっほと笑いながら、スレイヤの横を通る。その時、垣間見えた表情はとても穏やかなものだった。
「……わしが幼き頃に見た魔宝樹は、もっと年老いていたよ。時折枯れ葉も見えたと言われている。ラグナレクと共に封印せずとも、枯れるのはそう遠くなかったかもしれん」
「枯れていたら、どうなっていたのでしょうか……?」
「精霊たちの留まる場所がなくなり、循環が狂う。あとは残っていたモンスターに対して、還術ができなくなる可能性があった。浄化してくれる存在がいなくなるからな。――お前たちが考えている以上に、樹は重要な役割を果たしているのじゃよ」
ヴォルは目を細めて、若々しい緑の葉をつけている樹を眺めた。
「それを新しく樹を作り出すことで、防ぐことができた。誰かが考えそうなことであるが、実際できるかどうかはまた別の話じゃ」
ヴォルは振り返り、満足げな笑みを浮かべた。
「スレイヤ、戦いは終わりじゃ。村長にそう伝えてこい!」
「は、はい!」
はっきり返事をし、握っていたスピアの召喚を解く。
そしてヴォルは思い出したように、再度言葉を発した。
「あの娘は無事のようじゃぞ。お前も集中すればわかるだろう、風の女神が微笑んでいることから」
その言葉につられて、スレイヤは目を閉じて意識を深淵へと落とした。
彼女に聞けば風の加護の有無から判断して、加護を受けた者の消息はわかる。リディスは一度彼女と接触して、加護を受けていた。
逸る想いを抑えながら、女神の顔を見る。
それは晴れやかな満面の笑みだった。
* * *
「これで一段落ですね、領主」
「レリィ……か」
スルトは椅子に寄りかかって、朝日を見ていた。その後ろではレリィが表情を緩まして立っている。ずっと険しい表情をしていた彼女にしては珍しい表情だった。
「何があったか、わかるか?」
「レーラズの樹が戻ってきて、私たちの命を脅かす存在が消えたという程度しかわかりません。おそらく後日ミスガルム城から使いの者が来るでしょう。その時に詳細を聞くのがいいと思います」
レリィはカーテンを全開にし、うっすらと見える大樹をじっと見つめている。その目からは一筋の涙が流れていた。
「誇りを捨てても、生き抜いてよかったです。あの人と一緒にこの光景を見られると思うと、私は幸せです」
「……レリィ」
スルトが呼びかけると、彼女は目元をぬぐって振り返った。
「なんでしょうか」
「君は生きたいという、確固たる信念を持っている。それは何物にも代えがたいことだと私は思うよ。立派に誇れることだ。――大変なのはこれからだ。引き続き、よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
レリィは笑顔で頷いた。自ら険しい道を選び、突き進んだ女性の未来は、輝きを放っている朝日と同様、きっと明るいものになるだろ。
彼女のような人生を歩んでいる人たちに対して、スルトは今後も手を差し伸ばしていきたいと思う。ささやかな決意を抱きながら、椅子からゆっくり腰を上げた。
* * *
「禍々しい殺気を含んでいた風がやんだ。もう結界も解除してもよさそうだな」
エレリオは祠から出て、大きく伸びをした。朝日による光が気持ちいい。縮こまっていた体が徐々にほぐされていく。体内に入ってくる空気も、いつもより爽やかな気がした。
「エレリオ先生……?」
目をこすりながら、祠の中に避難していた四人の少年少女たちが顔を出してくる。エレリオは子どもたちを見て、大きく手を広げた。
「おはよう、みんな。もう外で遊んでもいいぞ!」
「本当!?」
「ああ! ただしあまりはしゃぎすぎるなよ。明日も、明後日も遊べるんだからな」
笑顔で快諾すると、子どもたちは声を発しながら外に飛び出た。子どもたちの元気な声が聞こえると、エレリオはいつも以上に嬉しかった。
これからの未来を担う少年少女たちに向けて、いつかは今回起こったことを正しく伝えるべきだが、今はその瞬間を楽しんでほしかった。
軽く髪を耳元にかけて、かつてプロフェート村があった跡地に視線を向けた。
「この子たちのためにも、私が新しい居場所を作らないとな。時間はかかるがやってみよう。メリッグが未来を導いたように、私も導こう。……その前に消えてしまった者たちにも挨拶をしておかなければ。きっと皆、賛成してくれるだろう」
若き女医は決意を新たにして、医術以外で人々の未来を作ろうと思考を巡らせ始めた。
* * *
「リディス、本当によくやった」
オルテガは外に出て、大樹を見ながらぽつりと呟いた。精霊の加護が強いわけでもないが、
「最後まで心配かけさせて……。あの方も相当無鉄砲だったが、娘はそれ以上だな。最近まで町に留まっていたのが、嘘みたいだ」
思い浮かべたのは、金色の長い髪を揺らしている、笑顔を絶やさない、明るく活力に溢れた女性。
彼女とはヘイダッルムと一緒にいる時に初めて出会った。好奇心旺盛な彼女の周囲の人間を引っ張る力は、彼以上だったと思われる。
そんな彼女に惹かれたのは、ヘイダッルムだけではない。彼女の最後の贈り物を、有り難くも預からせてもらった青年も同様だった。今も、そしてこれからも彼女の笑顔は脳裏から離れないだろう。
オルテガはもう一人、長年優しく自分や娘に接してくれた女性を思い浮かべる。
「マデナがいたから、リディスも立派に育つことができたと私は思うよ。――私はいい人たちに恵まれたよ、本当に……」
しみじみと呟きながら、オルテガは朝日を見つめ続けた。
歴史の一ページを脳内にも焼き付けて、後世に伝えていくために。
* * *
「歴史がまた一つ動いたようです」
水晶玉を見つめていたアルヴィースは微笑んでいた。そこには一本の大きな樹が多数の葉をつけて、どっしりと地面に根を下ろしている様子が映っていた。ほんの先の未来、すなわち決まっている物事ならば、比較的容易に水晶玉に映し出すことができた。
ミスガルム国王も大樹の傍に飛んでいった
新たな魔宝樹をこの地に生み出したという、歴史的な転換点を。
「国王の娘たちは無茶ばかりしますが、本当に面白いことをしますね」
ルドリは腕を組んで、肩をすくめていた。辛辣な言葉を出しつつも彼女たちを認める内容を出され、国王はうっすらと笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな。あのノルエの血を引いている娘たちだからな」
思い出されるのは、二十年近く前に彼女に揺るぎない瞳を真っ直ぐ向けられた時。
『私がどうにかします』
リディスラシールが成長するまで時間を稼ぐと言った、国王が愛した女性。曲がらない強い意志に圧倒されて、躊躇いながらも仕方なく首肯した。それを受けた彼女は、やがて自分たちの目の前から去っていった。
彼女と別れてからは表面上では平静に装いつつも、苦しくて溜まらない時が多々あった。愛する者を手放すということが、これほど辛いことかと常日頃感じながら過ごしていた。
それから月日は流れ、
彼女が時間を稼いでくれたおかげで、リディスラシールは二十歳の誕生日を迎えられ、魔宝珠の力を最大限に引き出せるようになった。それは魔宝樹の真の力を引き出すことにも通じていたようだ。
「ノルエ、このようなことになるのを初めから予想していたのか?」
吐息のような柔らかな風が吹き、人々の髪を揺らしていく。
すると目の前に、軽やかに浮かんでいる人が現れた。国王は金色の髪をなびかせながら浮かんでいる、若い女を呆然と見上げる。ミディスラシールやリディスラシールと似た面立ちの人間。彼女らが目の前にいる女性と同じ歳になるのも、そう遠くない。
陽の光が当たると透けて見えるため、おそらく精神体、もしくは幻でも現れているのだろう。
驚いている国王を周囲が不思議そうな顔で眺めているのに気にも留めずに、数歩踏み出していた。彼女は静かに微笑みながら口を開く。
『お別れを言いにきました』
出される言葉が国王の胸に深く突き刺さる。
『私の役目はもう終わりです。本来であれば貴方に別れすら言えない予定でした。しかし樹が長年のお礼として、僅かですが時間を与えてくださいました』
「ノルエ……」
『リディスラシール、ミディスラシール、そして扉を開ける者たちを導いて頂き、本当にありがとうございました。皆のおかげで最善の未来を切り開くことができました。私はいい意味で自分の考えを裏切られ、よかったと思っています』
お礼を言われると、非常に居心地が悪い。リディスラシールを成長するよう促したり、アスガルム領に送り込んだりはしたが、それ以上は何もしていないからだ。他は彼女たちの考えが、道を切り開いたと言っても過言ではない。
ノルエールに
昔のことを思い出していると、ノルエが音を立てずにすぐ傍まで寄ってきた。
『精神体だったとはいえ、成長した娘たちの姿を見られたのは嬉しかったです。これで私は安心して在るべき処に還れます』
そして花が開いたような笑顔を国王に向けた。
『さようなら、ヘイダッルム。いつまでも貴方と娘たち、そしてこの大地に生きる人々の幸せを願っています』
顔が寄せられ唇が傍にまでくる。だが突風が吹き、一瞬で彼女の姿は消えてしまった。左右に顔を向けるが、どこにもその姿はない。
歳がらもなく目頭が熱くなる。もう二度と会えないと思っていた女性に、再度別れを言われるとは。
ノルエの笑顔を脳裏に焼き付けるために、拳を握りしめながら一度目を伏せた。
やがて目を開いて城下町を眺めた。朝日を拝むために家の中からおそるおそる外を見ている者がいる。まずはその者たちに脅威は去ったと伝えなければならない。
国王は振り返り、報告しようと待っていた若い騎士に向かって明瞭な発音で言葉を発した。
「城の入口に騎士団を集めてくれ。これから新しい指示をする」
騎士の表情が一瞬強ばる。しかし次の言葉を聞いて大きく緩ませた。
「闇との戦いは終わった。今後はまず城、城下町、そして周辺の村の復興を始める。それからアスガルム領への支援も再開しよう。私たちがこの手で新しい歴史を作り出すのだ」
魔宝樹を戻しても、やるべきことは依然として膨大にある。それを進めるには、人々の笑顔と活力を戻すことが先決だ。
騎士は大きな声で返事をし、嬉しそうな表情でその場から去っていく。ルドリやアルヴィースはくすりと笑いながら、表情が明るくなった国王を見ていた。
ロケットを優しく握りしめた後に、手を離した。そしてルドリたちを伴って、しっかりとした足取りで階段を降りていった。
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