遠い夜明け(6)
* * *
その夜も夢を見た。
内容は何度か見たことがあるもの。フリートが金髪の娘と口論しているところに、銀髪の青年が仲裁をするために割って入ってくるものだ。今まではそこで終わっていたが、その夜は先があった。
金髪の娘が寂しそうな顔をして、緑色の瞳でフリートを見つめてきたのだ。
そして彼女が口を開こうとしたところで暗転する――。
「……朝か」
ぼろぼろのカーテンは光を遮る働きなどほとんどしない。そのため必然的にフリートは太陽の光によって起こされていた。
傷が深く、さらには精神的にも下向きだったため当初は治りが悪かったが、リディスが目覚めてから十日以上経過した頃には、辛うじて傷は塞がり、動けるようになっていた。
予想を上回る回復力を見た医者は、目を丸くしていた。日頃から体を鍛えていたことが、その回復力に繋がったのだろう。このことをカルロットに報告したら、また調子に乗って、しごき始めるに違いない。
「隊長たちは大丈夫だろうか」
フリートが最後に城の状況を見たのは、あの皆既月食の戦闘時。
姫や王は大きな怪我を負っていないだろうか、カルロットや騎士たちはあの惨状の中で何人生きているだろうか。そして今、城に脅威は迫っていないだろうか……などと、城の様子を心配ができるほど、心がようやく落ち着いてきていた。
空の明るみを見ながら、耳を澄まして廊下の様子を伺う。まだ廊下に人の気配はない。
少し気分転換をしようと思い、フリートは立てかけてあったショートソードを持って、こっそり廊下を歩いて、外に出た。
しかし運悪く外に出た途端、藍色の髪を首の辺りで束ねている女性と目が合った。三十代前半の彼女はちょうど背筋を伸ばしながら朝日を見ているところだった。彼女はフリートに気付き、視線を相手の手元に移すと、眉間にしわを寄せる。
「……フリート・シグムンド、今からどこに行くつもりだ?」
「エレリオ先生、おはようございます……」
この診療所の医者であるエレリオの鋭い口調に、思わず腰が引き気味になる。
彼女は重傷だったフリートを治療している若き女医である。一見すると凛々しい女医に見えるが、口を開けばたいていの人間なら後ずさる、非常に男勝りな女性。同時に怪我人であるフリートには、この状況を最も見られたくない人物だった。
「どうした。まだ安静にしていないと、治るものも治らないぞ?」
「少々気分転換に散歩を……」
「ならば、なぜ剣を持っている?」
「用心のためです。近頃はモンスターが大量に発生していると聞いていますから」
「それならこの場から離れないほうがいいと思うが?」
にこにこしているが、その笑顔が逆に怖かった。
一旦引き返し、彼女がこの場から離れた隙を狙って、外に出るということも考えたが、あとで追及されるのが面倒である。せっかく意気揚々と出てきたが、残念ながら部屋に逆戻りのようだ。
踵を返そうとすると、エレリオが左手を腰にあててぽつりと呟いた。
「……まあ動けるまで様々な面で回復したのなら、医者としては嬉しい……か」
「はい?」
「目覚めてからまともに外に出ていないだろう。朝食前までなら外出を許してやる。少しは新鮮な外の空気でも吸ってこい。ただし傷が開いたら、今後の外出は禁止だからな」
「いいんですか!?」
外出許可がすんなり取れたフリートは驚きを声に出してしまう。エレリオはくすっと笑った。
「私が治療して経過を見ているんだ、容態は把握しているつもりだ。今のお前なら多少動いても大丈夫だろう」
「ありがとうございます!」
エレリオに深く頭を下げると、フリートはしっかりとした足取りで地面を踏み始めた。数歩進んだところで、不意に呼び止められる。
「行く前にフリート、一つ頼みがある」
不思議そうな目で振り返ると、エレリオが軽く右手を前に出していた。
「メリッグを見たら、連れてきて欲しい。お前が言わなくても、おそらく戻ってくるだろうが……」
「エレリオ先生はメリッグのことを知っているんですか?」
「七年前までのメリッグなら知っているが、それ以降はわからない。何となく危なっかしい雰囲気を出しているから、少し心配で」
その言葉を聞いたフリートは躊躇いつつも軽く頷いてから、エレリオと別れた。
メリッグと共に行動をしたことがある人なら、おそらく誰でも感じることだろう。
メリッグからルーズニル経由で聞いた話によると、フリートたちが滞在している場所はニルヘイム領にある、とある村の跡地らしい。
今から七年前、アスガルム領民の生き残りの逆鱗に触れたことで、村は一瞬で消失し、村の外れにあったこの診療所や家が数件だけ残った。その後、生き残った村人たちはエレリオが開業していた診療所を中心として、細々と生活をしているようだ。
村の中を歩くと、質素な家が雑多に並んでいる。全体的に物寂しさが漂っていた。唯一の救いといえば、数少ない子供たちの声くらいだろう。だが、それも太陽が高い位置で照らしている時間帯のみ。朝早いこの時間では、誰も出歩いていなかった。
月食時の戦闘後、なぜここに移動したのかと聞くと、メリッグが見つかりにくいという以外に「結界もそれなりに強いものが張られていて、優秀な医者がいるため」ということで、この場所を提案したらしい。城に戻るのは危険と判断していたルーズニルは、この村を指定した深い理由は聞きださずに、その提案にすぐに乗った。
その後、村に来てから落ち着いた頃、ルーズニルは村で聞き込みをした。そしてこの地には優秀な予言者の一族たちが住んでいたらしいが、村が消失した時にその一族たちも消えたということを聞いたのだ。
その一族の一つに“グナー族”と言う名がいたらしい。
何の前触れもなく冷たい風が吹くと、フリートは肩をぶるっと震わせた。思ったよりも気温が低い。気温も上がりきれていないこの時間帯には不適切な服のようだ。
着替えを取りに戻るという選択肢もあったが、エレリオに託された想いや持ってきた剣の重さは、フリートを足早に森の中へと進ませた。
実は散歩だけでなく、素振りもしたかったのだ。振れるかどうかはわからないが、今は何かに集中して取り組みたかった。
木々で覆われた森の中に入っても、小鳥のさえずりは聞こえてこない。
風が僅かにある葉を揺らす音のみが聞こえる。
ある場所で止まると、両手で剣を握り、剣先を持ち上げた。目を軽く伏せ、一点に集中する。
リディスやロカセナのことなど、考えなければならないことはたくさんあったが、この瞬間だけは一振りに集中した。
風が止んだ。
目を開き、正面にあった葉に対して剣を凪いだ。速さは以前より劣っていたが、葉は真二つに切れて重力に従って落ちていく。葉が地面に着く前に、その場で素振りを始めた。
当初は振りが安定しなかったが、何度か振っていくうちに、少しずつ整っていく。慣れてきたところで、足を前後に動かし出した。
基礎の部分であるが、何週間も動かず横になっていたフリートにとっては、すぐに息が上がる行為だ。
もう少しだけ、もう少しだけ――そう思いつつ振っていたが、程なくして傷の部分に違和感がした。傷は塞がっているが、完治するまでは無理できない。
剣先を地面に下ろし、上がった息を抑えていく。寒空だったが、額にはうっすら汗が浮かんでいた。
フリートは握りしめられたショートソードの柄を見た。騎士が常備している剣であり、とっさの時はこれを抜いているため、必然的に使用頻度も高い。柄は手垢で汚れており、刃こぼれが見え始めていた。
「これを使って、よく剣を混じり合わせていたな」
相棒だった青年と過ごした日々を見てきた剣。
「俺はこれから――」
ふと風の向きが若干変わった。フリートの近くに、誰かが踏み入れたということだ。即座に剣を握り直す。
しかし、森の中を歩く人を遠目から発見するなり、フリートは剣を下ろした。美しい紺色の長い髪を下の方で軽く結っている女性が歩いていたのだ。
「メリッグ……本当に診療所を出ていたのか。朝早くから、どこに行くつもりだ?」
手には数本の野花が握られている。気にならないはずがない。剣を鞘に静かに戻すと、フリートはメリッグの後をこっそり追った。
メリッグは道に慣れているのか、周囲をきょろきょろと見ることなく黙々と森の中を歩いている。フリートは木の枝などに気を付けながら、なるべく音を出さないよう彼女の後を付いていった。障害物はやせ細った木のみであるため、振り返られれば、すぐに見つかるだろう。
彼女については、未だにわからないことが多すぎる。彼女の出身地、なぜそこを出て旅人になったかなど。共に旅をしている身としては気になる点だが、あえて聞くべき内容ではない。知らずとも旅はできる。
それよりも気になるのは、自分を顧みない言動だ。
例えば、他人だけでなく自分にも毒舌を吐く人間だと思っていたが、他人には意味ある適切な発言をしているのに対し、自分には傷つける意味でしか言っていなかった。
そして、この状況の中、一人で出歩いている。診療所の周囲は薄い結界が張られているため、おそらく近辺であるここもモンスターは来ないと思われるが、室内よりも危険度が高い場所であった。もし強力なモンスターが来たら、あのメリッグでさえも還せるかどうか疑問である。
あの性格は昔からなのだろうか。それともフリートたちと出会う前に、何かあったのだろうか。
やがて開けた場所に着くと、背筋に悪寒が走った。これは寒さのせいではない、雰囲気がそういう風にさせているのだ。
一面更地の場所に、枝や木の棒などを用いて十字に作られたものが何本も刺さっていた。あまりにも数が多いため正確な値を出すことは困難だが、百はくだらないだろう。長期間雨や雪に打たれていた影響か、十字架たちはやや腐りかけていた。
メリッグは無言のまま、最も大きく、そして比較的綺麗な十字架の前に背筋を伸ばして立った。
「――尾行なんて、あまり感心できる趣味じゃないわよ」
突然呟いた彼女の声にどきりとした。これでも念には念を入れたはずだ。振り返られた覚えはない。
「わかっているわよ、ずっと前から。振り返らずとも、
無表情であるが、とても美しい女性がメリッグの隣に浮いている。その目はフリートを射抜いていた。実体がない精霊には、何をしても無駄である。
フリートは隠れていた木の間から出て、メリッグの傍まで歩み寄った。
「すまなかった、悪気はなかった。ただ気になって……」
「貴方のそういう素直なところは、評価できる点だと思う。何しに来たのかしら。私に聞きたいことでもあるの?」
メリッグの言葉を受け、フリートは素直に口を開こうとした。
ここでいったい何があったのか――と。
しかし、すぐに言葉を呑み込んだ。その内容はあまりに彼女の過去に踏み込み過ぎている。
口を閉じたままでいると、深い溜息と共に思わぬ言葉が返ってきた。
「黙っていないではっきり言いなさい、この地で何があったのかって。――どうせ村の人から聞かされるくらいなら、私の口から言うわ。それを信じてくれれば、嘘だとしても、貴方の中では真実になるでしょう?」
不自然な笑みをされて、フリートは眉をひそめた。
「話してくれるのなら、偽りでなく真実を教えてくれ。最近のメリッグは前よりもおかしすぎる」
「あら、私のことをよく見てくれているような口ぶりね。リディスではなく、私と付き合いたいの?」
「思ってもいないことを言うな。俺はお前を仲間として気にかけているだけだ」
「フリートにとって、リディスも仲間だけの存在なの?」
その言葉には即答できなかった。以前なら仲間と割り切ることができたが、今は心の奥底にある感情を無視することはできない。
メリッグはちらっとフリートの腰から下げている、ショートソードに目をやる。
「そんなものを持って、何をしていたの?」
「素振りをしていた。久々だったし、体力が戻っていないから、たいしてできなかったが」
「完治していないのに、何をしているのかしら……。どうして剣を握り続けているの? 体も心もぼろぼろの状態で誰かを護るつもり? 誰を、どんな理由で? それともそれが騎士としての務めなの?」
間髪入れずに聞いてくるメリッグの様子が、余裕がないように見えた。普段ならもっと間をあけて、フリートをじらすように聞くはずだ。
妙な様子の彼女を見ながら、フリートはその質問を受けて、考えを思い浮かべる。
「俺が剣を握り続けるのは――」
騎士としての義務感もあるし、真面目な性格が現れたといってもいいだろう。だが、それよりももっと純粋な想いを口にする。
「――一人の人間として護りたいからだ、リディス・ユングリガを」
素振りをした後、急に脳内が開けたような感じがした。今まで悶々と考えていた答えが出たようだ。
メリッグは一歩前に出て、フリートに近づいた。
「誰かを護るためには、多くの人を倒さなければならない。もちろんロカセナも例外ではないわ」
彼女はフリートにとって突かれたくないところを淡々と突いてくる。だがその返答も至って単純だった。
「ロカセナも倒す。命を奪うのとは違う意味だ。だからさらに強くなる。……だが力を付けている間に、もしあいつらが来た場合には――力を貸して欲しい」
そしてフリートは深々と頭を下げた。
「お願いだ」
「……とりあえず、頭を上げなさい」
間髪置かずに返された言葉通り頭を上げると、フリートに聞こえるくらい大げさに息を吐いたメリッグは髪をかきあげていた。
「どうしてそこまでするのよ」
「どうしてって、リディスもロカセナも大切だから」
「貴方、リディスへの想いといい、自分の素直な気持ちを誰にでも言っているの?」
「素直?」
「……わかっていないのかしら。まったく、鈍感もここまでくると凄いわ。まあ素直な人ほど伸びるし、好かれるから、悪くはないのだろうけど……。ただ、あまりにお人好し過ぎたから、月食の事件が起こったともいえるわ。……面倒な性格をしているのね」
眉間にしわをさらに寄せているフリートを見もせず、メリッグは視線を十字架に移した。
「……この十字架の下には、ほとんど人はいないわ」
「何だと?」
驚くべき言葉を出され、フリートは目を見開いた。
メリッグの意味深な言葉が続いて紡がれる。
「いいことを教えてあげる。誰かを護るということは、誰かを失うという覚悟も必要なのよ」
メリッグはちらりとフリートの方に目を向けた。
「少し昔語りをしてあげましょう。きっとこれからロカセナたちと対立するときに、必要となってくる話でしょうから。――今まで予言者として、どこまで他人と関わっていいかわからなかった。でも、たまには含みのない真実を言っていいかもしれない」
そしてメリッグは優しく微笑んだ。
「私は予言者。でもその前に一人の女だわ」
やがてメリッグ・グナーは嘘偽りのない彼女の過去を語り出した。
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