とある幼獣の冒険
木の間から漏れた陽光が地面に跳ね返り、肌を焼き周囲を照らす。立ち込める青い匂いが、布張りのここを支配している。
中央、倒れた木が三角を象る。その一辺、座りながら剣光を研いでいる少年。その少年に近づく、一匹の幼獣。
約二週間の旅路、ドルドル町に着いた一行。紆余曲折を経て、心身共に成長した。
しかし、最も肉体的に成長したのは誰かと言われれば、第一次成長期とも呼べる時期を、険しい道を歩くことで過ごしてきたこの幼獣が一番だろう。
たどたどしい足取りはいつしか大地をしっかりと踏みしめ始め、純白の体毛は更に伸び、肉体を保護する毛の鎧と化している。丸い牙はより鋭く長くなった。体の端々から、成長の痕跡が見て取れる。
しかし、まだ幼獣という呼称が似合ってしまうサイズ感。ただ、幼獣と共に旅をしてきた一行は気づいたことがある。
こいつは、間違いなく
果たして、幼獣の正体とは。その答えは、その幼獣すらも持ち合わせていないだろう。
______
「カゥ!」
主に呼びかける。
「ん? どうした、シロ」
「カゥカゥ!」
我には、不満がある。
最近、皆ここからいなくなる時間が増えた。世界が明るくなった頃、皆消え、体に獣の臭いを纏って帰ってくる。どうしてなのだ。我がいるというのに、我以上に優先するものがあるというのか。
忌々しい。遠くに見えるあの巨大な何か。石の化け物。あそこに主が行くと、他の獣の臭いが付いてしまうのだ。
「お、どうしたんだ。そんなに顔を擦り付けて。構って欲しいのか?」
「カゥカゥ!!」
体を当てて、臭いを我の匂いに変えていく。
頭上から手が伸びてくる。それは、我の体を覆うようにして、我を宙へと持ち上げる。地面が遠のく。
そう、これでいいのだ。そして、我を撫でるのだ……
しかし、目を閉じてその至福のときを待っていても、いつまでもそれは来ない。
「クゥ?」
目を開け上を見上げると、主はあらぬ方向を見ていた。
そちらに視線を向けると、『かの森』の匂いを纏った、耳が長くて地面と同じ色の体をした主の仲間がいた。ターニャと呼ばれている奴。
そいつは、纏った『服』を剥いで肌をさらけ出していた。光が反射している。『汗』が出ているのだ。
主は、そいつを見ている。普段の顔から一変、目を見開き、鼻の穴を広げている。そして、雄の匂いを強くしている。
主は、ターニャという奴を見ると、時々こうなる。隠れて、発情する。
戒めるために、声を掛ける。
「カゥ!!」
「な、なんだよシロ……俺は今、ターニャさんのあられもない肢体をだな……」
伝わらない。もどかしい。我も同じ言葉を話そうとしても、この声はかすれた幼稚な声しか出せぬのだ。
それでも、不満を訴える。我を忘れるでない。
「カゥカゥ!!」
「はははっ。分かった分かった」
やっと我を見た。
そして、あれだ。巨大な手。あれが、逆らいがたい快感を与えてくるのだ。
しかし、今日の我は一味違う。我慢できる姿勢を見せるのだ。そうして、認めてもらう。主に、我の強さを。この不屈の意思を――――
「クゥア~~」
「ははは。声が出てるぞ」
これだ。意思とは関係なく、体が喜びを表してしまう。耐え難い屈辱。しかし、我は本当に屈してはいないのだ。何故なら、思考は、思考だけは負けて
「クゥア~~ヌゥ~~」
「まるでネコだな」
あああ。なんて気持ちいいのだ。もう少しだけ、この時間を……
「カッ!?」
「お、どうしたんだ」
危ない危ない。思わず、思考すらも快楽に流されてしまうところだった。全く、恐ろしい技術を持っているものだ、この主は。この手に頭を撫でられると、暖かみを感じ、我の麗しい毛が揺れ動き、微弱な振動が快楽へと変わる。これに逆らうのも、またひとつの強靭な精神が……
「カゥ~~」
「……こんなに飼い慣らされて、こいつはこの先生きていけるのだろうか」
結局、快楽に逆らうことはできず、至福の時間が流れていった。
______
「じゃあ、ターニャさん。俺は町に行くんで。ことりの杖も買わないとだし」
「……」
女が首を縦に振る。あれには、了承というような意味があるようだ。
我は賢いからな。その者の些末な動作、その呼吸から意味を学習している。もう既に、主様の言葉、その半分以上を理解した。
しかし、その言葉の中でも、嫌いなものがある。
「じゃ、シロはお留守番な。他の皆も出かけるみたいだし」
オルスバン。その発音の言葉。この言葉を発した者は、皆ここから立ち去っていくのだ。
ことりも、主様も。ターニャは、言葉を発さぬが。
悲しい。
「クゥ」
「うぅー……そんな悲しい声出されてもなぁ、仕方ないんだ。それに、昨日いっぱい遊んでやったろ」
昨日。主は我を連れて、草原を、森を歩き回った。
たくさんの新しい匂い、生き物、情報。新鮮なものは、どれも興味深く、そして面白い。我は成長することを厭わないのだ。そう、我は賢くて偉いからな。
しかし、そんな偉い我でも、一人ぼっちというものは……寂しいのだ。
「ターニャさんもすぐ狩りに出かけます?」
「……」
「なら、一緒に出ましょう」
そうして我を放って、二人は準備を進めた後、草木を掻き分け始める。
「じゃ、シロ。行ってくるから、ちゃんとお留守番するんだぞ」
「……」
「……クゥ」
我は、その二人を見送る。
草原に出て、ターニャは左、主は右へ。
主の視線を追うと、石の化け物。毎日主が通っている場所。
……。なんだか、怒りが湧いてきたぞ。
何故、我はオルスバンというやつをしなければならないのだ。そこに、何の義理があるというのか。やらなければいけないことなのか?
我が、主の後を追っても、良いではないか。
「――――カゥ」
主にばれないように、後を追った。
______
「――ほら、次ィ! はやくしろー!」
目の前に広がる、たくさんの匂い、生き物。
誰も彼も、皆大きい。見上げるほど。主と変わらぬ……いや、それ以上。
「――ブルッ」
「カゥ!?」
気づくと、隣、巨大な山があった。その山の先端、黒い目が付いていて、我を見ていた。
いや、山ではない。これは生き物だ。土の色の体毛、細長い頭、たてがみ、巨大な四肢。四肢の先端には大きな丸い爪があり、それで地面を蹴っている。尻尾から、黒い毛。にしても、なんという体躯。我も、これほど大きくなれるのだろうか。
「――どうした、ブルータス。気になるものでもあったか? まあ、今は検問だからな。ほら、行くぞ」
「ブルッ」
そいつは、誰かに呼びかけられ、鼻息を荒くした後前に歩いていってしまった。
そういえば、ここも土ではない。石の道。最初は、ここは巨大な石の化け物の口なのだと思ったが……どうやら、この巨大な石は生き物ではなく、作られたもののようだ。
「カゥ」
大量の生き物に紛れて、主は前に消えてしまった。後を追うならば、我も行くしかあるまい。
そうして、前に向かって歩いているときだった。
「――――通ってよしっ! 次……って、なんだ? 小せえネコちゃんが混じってんぞ?」
目の前、巨大な石の塊の口。通ろうとしたとき、横に穴があり、そこに人がいた。いや、この臭い……獣。主が最近身に纏って帰ってくる臭い。
先ほどから立ち込めていたが……これが、獣人という奴か。我が生まれた山から下りたときも、見かけたが、やはり不快な臭いだ。
そいつが、横にある扉を開けて、出てきた。そして、不躾にも我の前に立ちふさがった。
「ははは。ネコちゃん。ここを通りたかったら、魚の一匹でも持ってきな」
「……」
通行のための対価、ということだろうか。
しかし、主は止められていなかった。どういうことだ。
……というより、我が何故そのようなことをしなければならないのだ。そのような道理はあるのか? 我はただ、ここを通るだけだというのに。
「クゥ~!」
「おお、唸ってら。気性の荒い奴なら、お魚二匹だな」
無性に腹が立つ。どうにか、通り抜けられないだろうか。こいつの気をそらすための……そうやって辺りを見渡していると、近づいてくる者がいた。
「――おい!! ダッズ!! サボってんじゃねえ!!」
「ひぃ!? す、すみません!! そこに、小さなネコがいて……って、あれ? いない?」
「サボるならもっとましな理由を考えやがれ! いいからさっさと戻れ!!」
「い、いや……確かにいたんですよ」
「ごたごた言うんじゃねえ!!」
背後から聞こえてくる怒声。どうやら、うまくいったらしい。
奴が怒鳴られて注意を背けた瞬間、近くを歩いていた奴の後ろに隠れて通り抜けたのだ。ふふ。さすが、賢い我。
得意げになって歩いていると、目の前が明るくなっていた。どうやら、口を抜けたらしい――――
「――カゥ」
目の前に広がる、壁。人、作られたもの。ざわざわとした空間。たくさんの美味しそうな匂いやら獣の臭いやら。我の目、耳、鼻全てに、一気に情報が流れ込んでくる。
なんだ、ここは。これが、『町』というやつなのか。
我はまたひとつ、賢くなったということか。
すごいではないか。ここにはきっと、我の知らないことがいっぱいあるに違いない。
「カゥ!」
思わず、走り出してしまった。行く場所など決まっていない。ただ、『町』を知る。そのために、駆けるのだ。
たくさんの視線。肉の焼ける匂い。汗の匂いに、立ち並ぶ巨大な壁たち。赤色の果実、光り輝く宝石。剣。上に飛ぶ水。気づくと、同じように走る獣人の子供たちがいた。
ここには、さまざまな物がある。自然を加工した、技術の結晶。今まで見たことのないものの連続。
壁に立て付けられた木の板。そこには何かが書かれている。あれはなんだろうか。広い場所、中央でフリフリの『服』を着た奴が踊っている。周囲の人たちが騒いでいる。何をしているのだろう。でも、楽しそうではないか。音。生き物の声ではない。何か、木でできたものに糸を張って、それを弾いて音を出している。あれは何だ。聞いているだけで、心躍るではないか。
全く、興味が尽きない!
そして、暗い道に出た。
両側に立ち並ぶ壁。陰気な雰囲気。埃が待っている。
「カゥ」
ここも新鮮な場所ではないか。いざ行かん。
そうして歩みを進めて少し後、耳にとある音が聞こえてきた。
「――――ふぇぇ……ぐすっ……お母さ~ん……どこぉ……」
右の方向。前の道を曲がったところだな。
我の耳に狂いはないのだ。
そして、十字の道で右を見た。
横、黒い袋の横に座っている、子供。空と同じ色の短い髪が揺れている。そして、自分の足に顔を押し付けている。我の目をもってしても、ここからでは顔が分からない。
近づく。その子供は、足音を聞いてびくっとした後、震えだした。いや、元々震えていたが、どうやら我に怯えているらしい。
我は敵ではない。その為に、声を掛けねば。
そうして、触れられる距離まで近づいて、声を出す。
「カゥ」
どうしたのだ、そこの。そのように声を発するが、やはり我には出せぬか。
「……ふぇ?」
膝を抱えて怯えていた子供は、顔を上げ我を見る。その目、髪と同じ色。こいつは女か。匂いで分かった。そしてこいつは……主やことりと同じ、人間か? 獣の臭いではない。
しかし、目に海が浮かんでいるようだ。
「カゥカゥ」
泣くではない、小娘。
「……白い……ネコちゃん?」
「カゥカゥ!」
我はネコではない。そのような下等な生き物と一緒にするな!
我は……うむ。我は我だ。ともかく、ネコとかいう奴ではないのだ。
しかし、泣いている者を放っては置けない。主も、きっとこの場にいたら同じことを考えるだろう。
こういうときは、我の麗しい毛を撫でるがよい。普段は見知らぬ者には触れさせぬが、特別だ。
「カゥ」
「……さわっても、いい?」
「カゥ!」
首を縦に振る。これできっと伝わるだろう。了承、という意味のはずだ。
「言葉、分かるの?」
「クゥア」
「……」
そうして、小娘は恐る恐るといった風に手を伸ばしてくる。
むむ、いきなり頭か。我はそこが一番弱いのだ。こやつ、もしや中々やるのではないか。しかし、所詮小娘。主様のような技量は持ってはおらんだろう。そう、我はこのようなところで甘える声を出すような腑抜けた生き物では――――
「――クゥア~~」
「……えへへ。ふかふか……あったかい……」
何故だ。我は我を御しきれぬ。おかしいではないか。意思は、こうも固まっているのに……
「クゥアウア」
「…………かわいい」
ああ。蕩けるようだ…………
「……カゥッ!」
っは。我は何を。そうだ、小娘。
見ると、手を引っ込めて目を見開いていた。しまった。驚かせたか。
「!」
「カゥカゥ」
小娘。何を困っているのだ。一人か。親はいないのか。
「……びっくりしちゃった。なんて言ってるんだろう」
「カゥ~」
やはり、伝わらないか。
むぅ。せっかく我が助けてやろうというのに。これでは何もできないではないか。いや、もう涙は出ておらぬ。しからば、これでよいのか……。
「……ネコちゃん。わたし、お母さんとはぐれちゃったの。どうしたらいいかな」
「カゥ?」
小娘が話し始めた。なるほど、親とはぐれて迷子になったのか。
「なんて……ネコちゃんに言っても、分からないかな」
「カゥ!」
何を。我に不可能はない!
どれ、匂いを嗅がせろ。
「クンクン」
「何してるの?」
「……」
少し、埃っぽい。隣の黒の袋に入っているであろう生物のゴミが邪魔してくるが、集中して嗅ぎ分ける。
……古びた木の匂い。巣の匂いか。それに、あの赤い果物の匂い。恐らく、この小娘と親も、あの赤い果物があった場所を通ったに違いない。そして、他にも小娘と似ている匂いがある。これが親のものに違いない。
しかし、この周辺からはその匂いはしない。
「カゥ!」
「え、なになに」
尻尾を動かして、小娘の手に纏わり付かせる。
付いて来い。そういうことだ。
「ついていけばいいの?」
「カゥ!」
そういうと、小娘は立ち上がった。むむ……大きい。手に尻尾が届かぬではないか。
我も、大きくなりたいものだ。そして、主を守れるほどの強さを身に着ける。
森。大量の狼の臭い。ことりとターニャに置いていかれ、着けば主が弱っている。あの月夜の光景。忘れられぬ……
「ネコちゃん?」
おっと、今は小娘を助けてやらねば。
「カゥ!」
呼びかけ、先導する。
まずは、道を戻る。そして、あの赤い果物があった場所へと向かおうではないか。
後ろにぺたぺたという小娘の足音を聞きながら、歩いた。
______
赤い果物が籠に並ぶ。垂れ幕が影を伸ばし、そこは暗くなっている。
その奥に、男がいた。獣の臭い。我が忍び込み、主様に見つかったあの場所に漂っていた臭い。こいつは熊か。
「――なんだぁ? さっきの珍妙な猫じゃねえか」
「カゥカゥ!」
「ぁ、えっと……」
我はネコではない! それだけは分かるぞ! なんということだ。我はどうやら、外見がその『ネコ』というものにものすごく似ているようだ。しかし、絶対にそうではない。本能が言っている。
くそう。嘆かわしいことだ。言葉を発せられるようになったら、我は間違いなく一番最初に言うぞ。我はネコではない! 名前はあるがな! と。む? 何故名前はあると主張しなければならないのだろうか。しかし、そうしなければならないような、使命感を感じた。
しかし、この者。なんという体躯。腕の太さがことり3人分はあるではないか。それに、はだけた『服』から出ている胸の肌。切り傷。こいつ、中々できるに違いない。
そうして、我はそいつを見つめた。
「――――!! ど、ドーシュ様……? い、いや。そんなわけねえか」
「どうした、ですか?」
「カゥ?」
「いや、そこの猫がよ……何でか、狩神ドーシュ様に見えてよ……まあ、俺も働きすぎみてえだな。幻覚を見ちまうなんて」
「ちゃ、ちゃんとやすんだほうがいいよ……?」
「ははっ! 嬢ちゃん。良いこと言うじゃねえか。だがな、俺が働いて食わせなきゃいけない奴が二人もできちまったからよ。どうにも休めねえんだ」
そいつは豪快に笑う。
だが、小娘は、そいつを見上げながら言った。
「お父さんは、たくさんはたらいたから、しんじゃったよ?」
「……あー……そいつはなんというか……悪いこと言ったな。すまん」
「なんであやまるの?」
ハタラク。それは死んでしまうほど恐ろしいことなのか。またひとつ賢くなったぞ。
その男は右手を顔に当て、唸り始めた。あれは主もよくやる、何かに悩んでいるときの仕草だ。
「……まあ、嬢ちゃん。何か用があって来たんじゃねえのか?」
「あ、えっと……ネコちゃん。どうすればいいの?」
「……クンクン」
周辺の匂いを嗅ぐ。
その間、男と小娘が話していた。
「嬢ちゃん。今はよく分からねえかも知れねえが……親父さんはな、きっと嬢ちゃんを守ろうと必死に働いていたんだぜ。俺も一緒だから分かるけどよ」
「……うん?」
「まあ、例えば。いつか、お金がないとか、色んな理由で苦しくなる時期が来るかも知れねえ。だが、そんときに親父さんを恨まないでやってくれってことだ」
「うん。お母さんも、お父さんはすごい人だったって言ってたよ」
「……そうか。そういや、お母さんはどこに行っちまったんだ?」
「……はぐれちゃったの」
「ああ、そういうことか。ん? ならそのネコはなんだ?」
「えっと、お母さんをさがしてくれてるの」
む。あったぞ。この匂いだ。しかし、色んな匂いがあって探すのに手間取ったな。
「カゥ!」
「……匂いを嗅ぎ取ったのか? やっぱ、本物の獣は違うな。だが……白い体毛でやたら牙が鋭い猫なんていたか……?」
「ネコちゃん、すごい!」
我はネコではない。しかし、もう仕方ない。そう呼ぶことを許可してやろう。我は寛大だからな。
そして、匂い。どうやら、この大きな道を真っ直ぐ通っていったようだ。この『町』の中央に向かうように続いている。
「カゥ!」
「あ、おじさん。もういいみたい。私たち、もう行くね」
「おう。お母さん、見つかるといいな。そんときはまたここに来てくれ。サービスするからよ」
「うん。ありがとう、ございました」
「カゥ」
「そこの猫も、しっかり嬢ちゃんを案内してやるんだぞ」
言われなくても、だ。我が間違うはずないのだからな。
さあ、行くぞ。小娘。
「カゥ!」
「うん。ありがとね、ネコちゃん」
ガツン。頭に打撃を食らった気分だ。我はもう、完全にネコのようだ。
まあ、いいか。時には妥協も必要なのだ。賢くて偉い者の知恵だ。主が言っていたから、間違いない。
そうして、歩き出した。
______
匂いを辿って、またも暗い道を歩いている。
何故だろうか、嫌な予感がするのだ。いや、明確に嫌な予感がする。
匂いが、増えた。この小娘の母親のものの他に、二つ。
今まで、進路は直進だった。しかし、他の二つの匂いが混ざった途端、急に横の道に進路を変えたのだ。
「……ネコちゃん。ちょっとこわいよ……」
「……」
「……うぅ……しっぽにぎってもいい?」
「カゥ」
適当に返事をしておく。何を言っていたかよく聞いていないが。今は、この匂いを辿ることに集中しなければ……
ゾクッ
突如、尻尾に走る電流。毛が逆立ち、体が一瞬跳ねる。
「ビャ!?」
「え、ごめん……えっと、きいてなかったのかな……」
謝りながらも、小娘は我の尻尾をぎゅっと握っている。
……我が聞いていなかったのが悪い。だから、特別に許してやろう。まだ、ことりにも触らせていない、我のふかふかの尻尾をな。
……匂いが、左。匂いが強くなってきている。つまり、近い。
そして、十字路で左を見た。
「――――離してっ!!」
悲鳴が聞こえた。
「離すわけねえだろ! 人間の女なんざなかなか見かけねえからよ」
「へへっ! いい女じゃねえか! なに、ちょっとの時間を俺たちにくれよ。楽しませてやるから」
「嫌です!! 離してください!!」
あの二人の男に両腕を掴まれている女が、小娘の母親か。空色の髪の毛。間違いない。
脇の男たち。先ほどから匂いで嗅ぎ取っていたが、発情しているな。猿と鼠か。獣人という奴らは、種類が多いようだな。
「……ネコちゃん? どうしたの?」
急に止まった我に疑問を投げかけてくる小娘。小娘はまだ十字路の中央に立ってない。つまり、あの光景が見えていないのだろう。
どうしたものか。我は賢いから、小娘があの光景を見るとショックを受けるというのが分かってしまう。それは避けたいが、しかしあの母親を放置するわけにはいかぬ。
「カゥ!」
「え?」
「カゥカゥ!」
なんとか前足を浮かしてその場で立ち、前足を小娘に向ける。
狩りの最中、ターニャがよくやる、立ち止まれの仕草。小娘にも伝わるだろうか。
「ここでまってればいいの?」
「カゥ!」
よかった。やはり、立ち止まれという意味で間違っていなかったようだ。
さて、小娘はここで待たせて、我が母親を助けねば。
「あ、ネコちゃん、行っちゃうの……?」
不安そうな小娘。もう一度振り返りあの仕草をして、我は歩を進めた。
近づくと、よく見える。『服』が乱れた母親。どうやら、男たちが強引に脱がせているようだ。
ふむ。『ヒト』はああいった暴力などの行為を避けるはずではないのか。いや、個体差があるのか。
「カゥ!!」
「あ? なんだ?」
「……ネコ? なんでこんなとこに」
「――――」
全員が我を見る。その女の目がこちらに向けられ、そして顔が下へ垂れ下がった。
我を見て、諦めだと? 許せん。我はこんなにも立派だというのに。
「邪魔しやがって。まあいい」
「あれぇ? 力抜いてんじゃん。やっと俺たちと付き合う気になった?」
「――――」
「カゥ!!」
「……うるせえな。あのくそネコ」
「黙らせてくれば?」
「――待って。あの子は関係ないじゃない!」
「ああ? ちょっと可愛がってやるだけだっつーの」
「へへ。俺と一緒に見物しようぜ」
そして、向かってくる猿の獣人。
近づいてくるたびに、首を上に上げなければならないではないか。全く、何故我以外の生き物はこうも大きいのだ。
そういう思考をしているときだ。
目の前、足が高速で動き、こちらに迫ってきていた。
(――――ッ)
避ける間もなく、胸に突き刺さる。
衝撃、痛み。同時に、体が宙を舞う。
「クァ――――」
「ひゃはっ! くっそ軽いじゃん!」
着地――――否。体に力が……。
体。腹に衝撃。足で着地ができぬ。なんという痛み、苦しみ。これが、そうなのか。苦しみという……。
なんとか、体を動かして立ち上がる。
そいつは、見下していた。完全に、下位の存在だと、我を認識している。
それが分かった途端――――体が震えた。
「やめて!!」
「はははっ! すげえ! ネコって蹴られるとめっちゃ体伸びるんだな!!」
「おい、ネコちゃんよぉ……せっかくの楽しい時間を邪魔してくれたんだ。後三発はいくぜぇ?」
そうやって無防備に顔を近づけてくる男。
チャンスだ。今なら、目や喉。急所を攻撃できる。本能が、告げている。狩るなら今だ、と。さあ、後は体を動かすだけなのだ。それだけで、この男を狩れる。
しかし、体は動かない。
これは……恐怖。圧倒的な差、暴力。痛み、苦しみ。それに晒されたこの肉体は……根源から、恐怖している。
動け。そう念じても、動かない。
目の前、迫ってくる足。普段なら避けられるそれを、ゆっくりと……体に突き刺さるのを見届ける。
「クゥッ――――」
衝撃と痛み。それを感じて力に流され、浮きながら思考する。
そうだ。冷静に考えて、このような巨大なものに勝てるわけないではないか。今までだってそうだ。我は、己よりも小さな獲物だけを狩り、腹が減って仕方がないときは他者の巣に入り死肉漁りをしていた。
矮小な、存在だった。
後悔。なるほど、これが後悔か。またひとつ、賢くなってしまった。
賢くなって、弱くなる自分が分かってしまう。
衝撃。また地面に、受身も取らずに激突してしまった。
腹の痛みが増すばかり。しかし、体は動かぬ……。
「はは。お前、死ぬんじゃねえの?」
死? 死とはなんだ。それは、恐ろしいものだということは分かる。
いや、分かっているではないか。それは、恐ろしいものだ。得体の知れないもの。認識できないもの。絶対に恐ろしい、それだけが分かるもの。
今、我が感じているものは何だ? 恐怖。恐ろしいということ。この男は恐ろしい。絶対に勝てない。狩れない、そんな気がしてくる。圧倒的な生き物としての差を感じる。
だが……それは、死より恐ろしいか?
「カゥ――――」
不思議と、体の震えが止まる。今、本能が研ぎ澄まされていくのが分かる。
「お? まだ起きる元気あるんだ?」
「……」
見つめる。今、思考は全て――――
――――狩りのために、ある。
「ひっ!? お、お前、なんだよ! その目は!!」
観察。上半身を右に捻っている。この男は、右足で蹴りを放つ。それの前動作。
次、右足を少し、後ろに出して、溜める。そして、前に出す。直線起動。
腹の痛みが響く。だが、そんなもの、些細なこと。我の行動を妨げるには、足りぬ。
四肢に力を入れる。目的は、跳躍。
「オラァ!!」
蹴りが来た。その足に向かって、跳躍する。
「あ!?」
大きく振りかぶった足を踏み台にして、更に加速する。
そして、喉に向かって噛み付いた。
普段よりも鋭く長い牙が、男の喉へと深く深く、食い込んでいく。
「がぁ――――」
血の味。久しく忘れていた。
ああ。刺激されていく。我の本能が、呼び覚まされる。
「グウ……」
「――――」
「お? なんだなんだ? さっさと蹴飛ば…………あ?」
「え!?」
倒れる男。地面に激突し、衝撃で食い込んだ牙が外れる。
仕留めるまではいかなかったか。だが、時期に死ぬだろう。
「グルルッ……」
「は、はあ!? な、なんだってんだ! なんで、そいつ、はぁ!? た、ただのネコじゃねえのか!?」
「……」
もう一人の男に近づく。観察だ。観察し、相手の行動を見極める。四肢の動きから、目の動き、血の巡り、心臓の鼓動、その全てを逃すな。
「――――あ、ああ、あああああ!? なんだ!? この気持ち、やばい、やばい!! 怖い、怖い! 狩られる!!」
すると、観察していた鼠の獣人は、脱兎の如く反対方向へと逃げ出してしまった。
……あいつも、確実に狩れたのに。残念だ。
すると、足から力が抜けた。立っていられなくなり、次に全身の力が抜けて、倒れる。腹の痛みが強くなってきた。
何故だ。我は何故、かような巨大な生き物を狩れるなどと思っていたのだろう。今になって、あの恐怖がまた再燃してきたではないか。
体が震えてたまらない。もう、痛みが増している。動けない。
「……」
「カゥ」
近づいてくる母親。その顔は、小娘と同じような涙で埋まっていた。
何故だ。助けてやったというのに。小娘と同じように、我の体を触らせないとだめなのか。
しかし、もう体は動かないのだ。
「カゥ」
「……助けてくれて、ありがとう」
違う。娘があっちにいるのだぞ。早く行ってやるのだ、愚か者。
「カゥカゥ」
「……ごめんなさい。なんて言ってるか分からないの。とりあえず、怪我を治さないと……ああ、でも。私の娘がいなくって。ああ、どうしたらいいの……」
「――――ネコちゃーん! まだなのー!」
小娘の声。しまった。そこには、気絶した男が。
いや、しかし、母親が襲われる光景ではないから、良いのか。
「……エル? エルなの!?」
「お、お母さん! お母さんだ! あれ、ネコちゃんは……って、ああ! ネコちゃん!」
む。足音が近づいてくる。我は耳が良いからな。よく分かるのだ。
しかし、目は悪くなってしまったようだ。まるで、雲が目の前にあるように、何も見えなくなってきたのだ。
「ネコちゃん! しなな――――」
「――――」
耳もか。これから、我はどうやって生きていけばいいというのだ。まだ、主様を一回も守れていないではないか。耳も聞こえぬ、目も見えぬ。これではできることがないではないか。
……あれ。これはもしかして……これが、死というやつなのだろうか。分かってしまったかもしれない。
何故なら、我は今、心底恐怖しているから。たったそれだけで、理解してしまった。
遠のく音。感覚が消失していくことに、恐怖。しかし、思考の邪魔をするように、声が響いた。
『素晴らしい狩りだった。その勇気を称えよう』
一体、誰の声なのだろうか。意識が消失するその瞬間まで、我には分からなかった。
______
「――――ね? ネコちゃん、ちゃんとおきるよね?」
「ええ、安心してください。エリメル教は救いを求める者には、たとえ何者であっても手を差し伸べますから」
「ネコちゃん、お母さんたすけてくれたの。いい子なの。かっこいいの」
「そうですか。この子は、貴方にとっての王子様なのですね」
「うん。でも、かわいいの」
小娘の声と、知らぬ者の声が聞こえてきた。そうだ。我はかっこよくて可愛いのだ。
……音が聞こえる? しかし、目は見えないではないか。
いや、これは、瞼を閉じているだけ――――
「――――カゥ」
「あ、おきた!」
視界に、木の板。匂い……小娘と母親のもの。
ここは、小娘の住む場所か。
背中がむず痒い。藁を敷いているのだな。我の寝床にはふさわしくない。
そして、他の匂い。まるで花畑のような甘い香りを放つ、人間の女。隣に座っていた。大きい肉体で、こちらを見下ろしている。
ふん。我もすぐに大きくなる。そのように見下せるのは、今だけだぞ。
「起きたようですね。良かったです、小さな王子様」
「……カゥ」
匂いの他に、気配。嗅覚でもなく、視覚でもなく、聴覚でもない。目に見えぬが、空に漂う何かを感じる。
ことりも、主も使う不思議な力。魔力と言っていた。それが、我の体と目の前の女を繋いでいる。
体の痛みが消えていること、あの怪我の後がないこと、それも踏まえて察するに、この者に助けられたということだろう。
「カゥ」
「……わぁ。さすが、人を助けるだけあって、礼儀を知っているんですね」
頭を下げる。感謝の意味だ。すると、相手が驚いた様子を見せる。
何を驚いているのだ。我は賢いのだぞ。この程度、撫でられるのを我慢するよりは遥かに簡単だ。
「うーん。貴方、魔物なんですよね。ご主人様はどこにいらっしゃるのかしら……」
「……」
そうだ。今の刻は。
立ち上がり辺りを見ると、陽光差し込む透明な板が壁についていた。赤色の光。まずい。戻らねば。主たちが戻ってきてしまう。
「カゥ!」
「きゃ!?」
「わあ」
藁を蹴飛ばして跳ねる。
外に通じる出口は……あそこか。溝を見るに、押せば出れそうだ。
「カゥ!」
「ま、まって、ネコちゃん!」
飛び出し、その木の板を押して外の景色が見えてきた瞬間、小娘の呼び止める声が聞こえた。
足を止め、振り返る。尻餅をつく
「……」
「また、きてくれる?」
また、か。
また、日が下りまた昇ったとき、我はまたオルスバンをしなければならないに違いない。
「カゥ!」
勢いよく返事をしておく。見ると、小娘は笑顔になっていた。
うむ。やはり、『ヒト』はその顔をしているときが一番に美しいではないか。
さて、行こう。
木の扉を押し開け、幼獣は赤い光に呑まれていった。それを見守る少女と修道女は、その幼獣の後姿に、雄雄しく大きな、気高い獣の姿を幻視していた。
______
「……あれ? シロ、お前今外から来なかったか?」
「クゥ」
「……気のせいか」
ドルドルの町。北大陸西部に位置するひとつの町。そこに、とある一行が滞在する。そして、その者らが町に来てから、町周辺の魔物はいなくなり、町中には、神出鬼没な
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